やわらぐ
痛ければ
吾にさわりて
祈られよ
痛みやわらぎ
心安らか
これは池上本門寺で授与されたお身ぬぐいの手拭いに書かれている言葉である。
今日は、「祈り」について、書いてみたい。
数日前に、友人がこんなことを語ってくれた。
「人生を車の運転に例えると、今という時代、行き先はカーナビを設定するよね。あやふやな設定だと、なかなか目的地に辿り着けない。明確に設定する必要がある。私はどこに行きたいのか。私は今まで、この辺りでいいや。という感じだったから、目的地の周りをグルグルしているような状態だった。今回、明確にしてみたら、現実が変化して、必要な出会いが起きたのよ。どう進めばいいか、見えてきているの。」
私はそれをお聞きしつつ、前日聴講していた催眠の講師の話を連想していた。
講師は、幼い頃から地球を救いたいという願いを持っていたそうだ。しかし何をどうしたら救えるのかよく分からない。日々、「私に進むべき明確な道をお示しください。」と、願い続けていたそうだ。そのお陰なのか、27歳の時に一本の道が示され(啓示?覚醒?)今に繋がる学びに踏み出したそうだ。
明確に願うとは、意図することであり、それを友人の言葉によればカーナビ設定となる。
私はふと、それは太古の昔から連綿となされてきた「祈り」ではないかと思ったのだ。この行為は、世界中で自然発生的になされている。DNAに刻まれているのだろうか。私も誰に教わったわけでもなく、幼い頃から、目に見えない領域に対して祈っていた。神という概念すら知らないのに。祈りを知っていた。
自分でやれることはやり尽くし、後は天に委ねる。必要な導きがあると信じて、祈る。人事を尽くして天命を待つ。
祈りは想念を発する。現実は自身の想いが創る。想いは波動である。祈ると、目に見えないけれど、エネルギーがビビビッと宇宙へあまねく放射されていく。人の想いは、時空を超える。何万光年離れた星にも届くし、過去や未来にも影響力を持つ。人は潜在意識の奥でみんな繋がっているから、自分のことだけではなく、誰かに想いを届けることもできる。
(これは、元々はひとつの意識エネルギーであるということなのだが、分離意識を持った自我の働きがあるので、物質次元に合わせて説明すると、こう考えると分かりやすいかな?という意味で書いている。)
自分で考えて行動する時は、思考を使う。過去の経験から比較判断したり、他人からアドバイスをいただいたり。行動の元になるのは、顕在意識を使って導き出した答えだ。人知は、制限に縛られており、主観的な自我(エゴ)は、全体像が見えていない。
祈りは、集中した意識状態なので、催眠と同様に、潜在意識に繋がる。潜在意識の奥には真我(源泉につながる意識)と呼ばれる光の領域がある。それこそ私たちの正体だ。人知を超えた叡知を受けとるのは、ここにつながるためだ。
叡知は、直感やインスピレーションでもたらされる。(視たり聴いたりする能力者もいるだろう。)私たちは、普段から祈りの効果を受け取っている。祈りは、特定の宗教的行為ではなく、神という概念を真なる我と置き換えれば、理解しやすいかもしれない。
催眠療法を体験すると、よく分かる。暗示療法などは、祈りの行為を現代風にアレンジしたものと言える。カーナビ設定とは、なかなか分かりやすい表現だ。
さて、祈りについてだが、私のことを書いておきたい。
現在、父が入院中だ。コロナの感染症対策があり、面会できない。面会が叶えば、痛ければ身体を撫でたり、不安があれば声をかけたり、もしかしたら、傍についているだけでも、何か出来ることがあるかもしれないが、何もすることが許されない。認知症の進行も心配だ。
母が一番辛いだろう。母は病院から呼ばれた日しか行けないので、ひたすら家事に没頭して過ごしているらしい。一日働いて、クタクタにならないと夜眠れないのだとか。じっとしていると不安になるので、身体を動かしているらしい。家事に没頭している間は何も考えなくて済むのだそうだ。
母は無意識に禅の作務を行っている様子。家事は手をひたすら動かすので、潜在意識に繋がりやすい。自我が消え、気がつくと、あっという間に時間が過ぎている。フローと言われる集中した意識状態と言える。
悩みがある時に、焦げ付いた鍋を磨いたり、床にワックスをかけたりすると、気持ちがスッキリして、いつの間にか問題が問題でなくなったりする。女性が直感的なのは、家事をやることで潜在意識につながる機会に恵まれているのも一因かもしれない。ちなみに、母はやたらと第六感が働く。働き者だからかも。
母は無意識に今回、父の命を救っている。
父は、自宅の階段から転げ落ちて、首と腰を骨折した。階段下の下駄箱に激突したのだ。何と、下駄箱前に、母は偶然、タオルなどを積めた手提げ袋を置いていた。デイサービスのリハビリで使用するため、前日に準備して、忘れないように玄関に置いたのだ。この手提げ袋がクッションとなり、衝撃がやわらいだ。このクッションが無ければ、父は昇天していたかもしれない。父は母の無意識に救われ、無事命を長らえた。運命的に避けられない事故だったとしても、大難を小難に変えることは出来るらしい。母は、事故当日が祖父の命日だったことから、祖父の魂に助けられたと信じている。
潜在意識につながると、現実から受けるインパクトを「やわらげる」ことが可能になる。らしい。
ということは、祈ると、やわらぐ のではないだろうか?
という訳で
昨日は、池上本門寺にお参りに行ってきた。私には何も出来ることが無いので、仏様に祈りに行ったわけである。
数日前に、ある本を読んでいて、東京の西馬込駅近くに、池上本門寺があり、日蓮さん終焉の地であると初めて知った。日蓮さんには今回の闘病で何かとエールを送っていただき、たくさんの贈り物も受け取っていた。手術も無事済んだため、山梨県の身延山へは来月、お礼に伺う予定を組んでいた。(日蓮さんとの交流については、2022年9月30日blog投稿を参照ください)
日蓮さんゆかりの地が、東京にもあるんだ!といても立ってもいられず、夫と二人で出掛けた。
☆追記
2日後のこと。
そう言えば、五十肩の症状が消えている。腕が45度以上にあげられなかったのに。今、痛みが無い。腕もまっすぐ上にあげられる。
お身ぬぐいの効果?
特に、肩の痛みについて、意図はしなかったのだが····。不思議なこともあるものだ。
身体の不調や痛みは、不要な感情や思い込みを手放すために、身体からのメッセージとして知らされていると言う。
肩の痛みのメッセージは、何だったのだろう。一年以上悩まされてきた。
それが、この数日の間に、痛みを忘れていた。痛みが無いとハッキリ気がついたのは、池上本門寺へ行ってきた2日後のことだから、因果関係はよく分からない。
いずれにしても、肩に痛みを起こしていた重いエネルギーを無意識に手放せたようだ。
肩が軽い。
顕在意識で捉えていなくても、目に見えない領域で、変容が進んでいるみたいだ。潜在意識の働きは、意図せずとも起きる時には起きる。
う~む。面白い。
今、ふと浮かんだこと。
自分に優しくできるようになったからかもしれない。自分にありがとうと、心から言えるようになったから、感謝の波動が、私のメイン波動となったのだ。それで、重い感情エネルギーがどんどん私から離れていくのだろう。
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