光と対話

 現在、歩行訓練も兼ねて、ご縁ある寺社仏閣にお礼参り中である。

今日は、キリスト教の教会へ。



私は信徒ではないので、教会のことや聖書のことは、よく分からない。しかし、催眠のビジョンで、イエス様やマリア様とのご縁も感じてはいたので、どこかでお礼を申し上げたかった。教会は敷居が高いし、どうしようかな~と思っていた。

ふと、数年前に一度ふらっと訪問したことのある四ッ谷の教会を思い出した。うつ病闘病中で、とても不安定な時期だった。静かな場所を求め、何となく立ち寄った教会は、誰もが静かに礼拝堂で過ごせるよう、扉にカギがかかっていなかった。私はそこで、心癒される時を過ごした。あそこなら、信徒でなくても、イエス様やマリア様とお話できそうだ。

四ッ谷駅のすぐ傍に、聖イグナチオ教会がある。カトリックの教会だ。とても美しく、都会では貴重な静けさが保証された祈りの場である。

10時半頃に到着したところ、広い礼拝堂には、二人くらいの先客が居て、静かに祈っていた。私も、最後列の隅っこに腰掛け、目を閉じて、イエス様やマリア様と対話を試みる。

しばらく、手術が無事済んだことの報告や、見守っていただいたことの感謝の気持ちを切々と語った。やがて、同行してくれていた夫が、合図してきた。(礼拝堂では、声を出さないようにしていた。)

「人払いされてるよ。礼拝堂に誰もいなくなってるよ。」と知らせてくれたのだ。

これは、チャンスだ。イエス様かマリア様が、しっかりお話を聴いてくださるという心の現れだろう。私は大胆に、最前列の真ん中の席に移動した。キリスト像が正面に見える。

催眠療法の光の存在と対話する手法を使い、イエス様との対話を試みる。

「私にメッセージをお願いします!」と、祈った。

以下は、私なりに自己催眠中に受け取ったイエス様からのメッセージだ。


☆イエス様から受け取ったメッセージ

たのしかろう

たのしかろう

かみの みくに を あらわしなさい

だれもが ちいさき キリストである

すこやかであれ

すこやかであれよ


☆解釈

「たのしかろう」

そうか、そうか、それは楽しかろうなあ。

そんなニュアンス。

私が魂の求めのままに、宇宙の流れに乗って体験を重ねてきたことについて、微笑みながら聴いてくださった様子。

「かみの みくにを あらわしなさい」

聖書の和訳では、神の国とか天の御国とされているようだが、イエス様は、聖書の言葉の意味では言っていないように思う。宗教を超え、もっと普遍的な意味で伝えてきたようなニュアンス。

神=宇宙源泉=至高の愛の意識

みくに=美しき国  

と私は解釈した。

もっと踏み込むと、ホツマツタヱの「あうわ」に通じる意味。「あ」は左渦巻=意識世界  「わ」は右渦巻=物質世界 「う」は、「あ」と「わ」が重なった太極つまり神。私たちは、宇宙根源の至高の愛を本質として、この物質次元において、神意識を顕現していく。それは、どれほどの美しさとなるだろう。神のチャレンジである。

私たちは、肉体のみの自我意識に縛られた存在ではない。本質は神の光なのである。それを思い出し、魂の表現を思いっきり楽しみなさい。という意味と捉えた。

「だれもが ちいさき キリスト」

これは、説明がいるだろう。この日の朝、インスタグラムで短い動画を何の気なしに見ていた。ピザを配達してきた男性がいた。配達が終わり帰ろうとする彼に、その家の小さな息子(2歳児くらい)が、いきなり駆け寄り、ハグをしたのだ。その子は、普段見知らぬ大人をハグするような性格ではなく、親は慌てた。しかし後で理由が判明。ピザ配達人は、最愛の娘を亡くしたばかりで、大層気落ちしていた。彼にはまさにその時、誰かのハグが必要だった。まだ言葉すら話せない小さな男の子は、敏感に彼の心の危機を感じ取り、自分に出来ることを自発的にしたのである。こんなに小さな子でも、自然に利他愛を表現するのである。その小さな行為が、誰かの心の危機を救う大きな力になり得る。誰もが、小さき救世主になる。世界中の人間が、日々、小さな思いやりを発したら、きっと世界は愛に満たされるだろう。「イエスのみが救世主なのではない。すべて愛の存在なのだから、小さな子どもであろうと、立派な救世主なのです。あなたも同様ですよ。」という意味と捉えた。

「すこやかであれ 」

文字通り、健やかに生きていきなさいね。という意味。心身を大切にして、地球体験を謳歌してくださいね。楽しみなさいね。そんな思いが伝わってきた。

続いて、私が以前、催眠下で見た、イエス様らしき人物の上半身の傷について、質問してみた。傷は何を表しているのか?

答え「傷はシンボル」とのこと。

シンボルなので、見る人により、捉え方が変化する。イエス様の肉体の傷に、我が身の何を重ねて見るかは、千差万別でよいのだろう。そこから、何らかの気づきに繋がるのであれば、ある意味、神話的な役割となる。私は、傷のビジョンから、自己犠牲を重ねて学んできた、魂の癖に気づき、それを手放す決意をしたばかりだ。これは私の気づきであり、他の人には他の意味があっていい。

もうひとつ。私はマリア様に了解をいただきたいことがあった。マリア様のエネルギーをあることで表現したかった。どうか、お力を貸してくださいとお願いした。

マリア様からのメッセージは受け取らなかったが、イエス様のお母様なのだから、きっとあちらの世界で、伝言してくれるんじゃないかな~と、勝手に思うことにした。

この後、半蔵門まで歩き、皇居を半周し、東京随一のパワースポットでエネルギーを充填してきた。





コメント

このブログの人気の投稿

ヘミシンク体験~炎のビジョン

ジオバランサー(波動調整装置)体験記①

誕生日宇宙会議