「青い花」体験~入院中の出来事
1月5日快晴、朝の8時に病院入り。入院組は、PCR検査から。これが陰性であれば入院できる。
初めてコロナ関連の検査を受けた。鼻に綿棒を入れられる。少し痛い。
窓口で書類等を提出し、病室のある4階へ。ナースステーション前で夫とお別れに。感染を防ぐため、面会者は病室に入れない。夫は少しさびしそうな表情で、すごすご帰って行った。
病室は西北向き。斜め向こうに富士山が見える。それだけでテンションが上がる。富士山の神様が見守ってくれるのを感じる。
それから、夕方までバタバタと、説明を受けたり、検査をしたりして過ごす。
一番嫌だったのは、患部にマーキングをする注射だ。これがメチャクチャ痛い。これに比べれば術後の痛みなどどうってことがないくらい。
注射を受ける前に、スタッフから説明を受ける。
私「これ、メチャクチャ痛いやつですよね。」
スタッフ「はい、痛いやつです。」
「痛いって、叫んじゃうかも。声出した方が、紛れるんですよね。先生方は丁寧にやってくださってるの分かってるんですが。すみません。」
「いいんですよ。何なら、泣いちゃってください。」
この方がユーモアのある明るい男性で、気持ちが救われる。
やがて医師登場。
私「痛いやつですよね。」
医師「はい。痛いやつです。」
さっきと同じやり取りを繰り返す私。何のために催眠療法習ってきたんだ。痛みをコントロールする手法も習った。先生や病院やお薬や注射に感謝して、ありがとうの気持ちを送って。左胸さんには、愛を送って····
やはり、痛かった。(まだまだ学び不足だ。)ギャ~っと悲鳴が出る。先生から深呼吸を促される。深く吸って吐いて。そうそう、基本は深呼吸だ。忘れていた。痛がったり、パニックになってる人がいたら、背中をなでながら、一緒に深呼吸するといい。きっと落ち着く。
終わった後で、さっきのスタッフから、ユーモアたっぷりで、茶化される。
「泣いちゃいましたか?今までで、大きな叫び声を上げた人が数人居たと聞いてますが、もしかしてあなたですか?」
「(2020年も受けているので)あ~それ、私かもしれません。(笑)」
「明日、手術頑張って!」
辛い注射も、こんなスタッフさんが付き添ってくださると、緊張がほぐれたり、悲愴感を忘れることができる。二年前より、人間味溢れるスタッフさんが増えているかも。患者にとっては痛い体験でも、周りがこうやって陰ながら支えることができるんだなあ。例えば、今日みたいに、ユーモアとか笑いとか。医師のように治療には関われなくても患者に寄り添うことは出来る。笑顔や親切な声掛けだけでも、すごく力になる。
注射で痛む左胸さんをマッサージしながら、病室に戻り、部屋の中をぐるぐる歩き回りながら、左胸さんに謝る。「痛かったね。ごめんね。ごめんね。ありがとう。ありがとう。」少し涙を流す。
看護士さんたちも、みんな若い。二年前はまだベテランが居たのだが。今は、みんなピチピチで可愛い。私が読んでいた本に興味を持ってくれて、お薦め本を教えてくれたりとか。皆、それぞれに素敵な女性たちだ。二年前は、余裕が無さそうでピリピリしていたと感じたが、今はとても和やかな雰囲気だ。たまたま私の病室が小児一般混合病棟だったからかも。赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたり、アンパンマンやミッキーマウスのシールが壁に貼ってあったりして、ほんわかする。小さな子の居る場所は、波動が高い。
夜はあまり眠れない。Yさんの「だいじょうぶ」催眠誘導音声をスマホで、聞いて、落ち着いてくる。だいじょうぶだ。
星空アプリで正面をかざしてみる。丁度、白鳥座が地平線に沈むタイミング。デネブという星の名を見て宮沢賢治を連想。後で調べたら、『銀河鉄道の夜』で、銀河鉄道が出発する駅があるのが白鳥座だった。何だか意味深い。私という名の銀河鉄道も発車するのだろうか。しかし、宮沢賢治というキーワードは、何度ももたらされている。9月以降ずっと。謎のままだが、私の魂の歩みにそっと寄り添ってくれている。
翌朝。富士山が綺麗に見える。夫から、LINEで我が家の東の空の画像が送られてくる。真っ赤に染まる雲が、まるでフェニックスのようだ。幸先が良い。
落ち着くために、部屋中に、浄化スプレーを噴霧。フランキンセンスとレモンのアロマオイルで手作りしてきたもの。アロマオイル自体波動が高いので、部屋が森の中のようになる。さらに、自然音(1/fゆらぎ)の音をスマホで流す。フランキンセンスの香りを瓶から嗅ぐと、浄化されていく感覚になる。
何も手につかないので、ただ、座って窓の外を眺めて過ごす。心は穏やかだ。
夫は、一時間以上前から病院入りして、待機してくれている。病室には入れないので、エレベーターホールで落ち合い、手術室まで共に歩く5分くらいが、貴重な再会時間となる。夫は、手術立ち合いのため、この寒いエレベーターホールにそれからさらに3時間も待機してくれていた。(コロナ対策のため。二年前は病室で待っていることができたのだが。)
もう、まな板の鯉状態だから、すべて委ねる気持ちになっている。私の手術のために、総勢10名くらいが、チームになりブリーフィングしているのをボンヤリ眺める。私のために、こんなにプロの方々が力を集結してくださるのだ。やはり、日本の医療はすごいなあ。有難いと心底思う。
手術室には歩いて入る。慈愛エネルギー溢れるベテラン看護士が誘導してくれる。「私がずっと傍にいますからね。」と優しく肩を抱いて歩いてくださる。それだけで、神様の愛にスッポリ包まれたような安心した気持ちになる。
折角なので、手術室内をじっくり見回す。この貴重な体験をつぶさに観察しなくちゃと思う。意外と狭い手術台に横になる。両腕は広げてまるで十字架に磔になった様な姿だ。キリストは痛かっただろうなあと、こんな時にキリストの受難を連想する。私は治してもらうために十字になるのだけど、キリストは痛めつけられ、殺されるために磔になったのだ。一瞬、キリストの記憶が流れ込んでくる気がした。
緊張しているせいか、麻酔の点滴を刺すための血管がなかなかとらえられず、麻酔科の女性が四苦八苦している。手の甲をピシピシ叩かれる。血圧計と酸素濃度を測る機械が取り付けられる。周りで、準備進行の声出し確認がされている。まるで離陸前のコックピットだ。「それでは快適な空の旅を」と機長からアナウンスが流れてきそうな錯覚に陥る。ヒーリングミュージックが流れている。この音楽にだいぶ救われる。音楽の力は偉大だ。無音よりは何倍もリラックス効果がある。
私は、脳裏にYさんの催眠療法で得たダイヤモンドダストの光、薔薇星雲をイメージしてみる。一人ソマティックヒーリングだ。そして、KさんYさんの「だいじょうぶ!」の声をよみがえらせる。今朝、LINEをくれたAさん、Nさんの祈りエネルギーを感じる。そして、いつもそばに居て助けてくれる夫の優しさを思う。
酸素マスクを装着される。意識がぼんやりする薬が入っているらしい。意識があるうちは、意識的に深呼吸するように言われる。深呼吸しているうちに、わたしの意識は突然消える。わたしが瞬間にいなくなる。
「○○さ~ん。終わりましたよ。」と声がかかる。なんと、3時間経過していた。感覚的には10秒くらいしか経過していないのだが。この間、私の意識はどこへ行っていたのだろうか。麻酔と意識の関係は、専門家でもよく解っていないそうだ。全身麻酔中の意識は、一時的に宇宙源にでも里帰りしているのだろうか。とても不思議だ。
「わたし」って感じている、この意識は実はどこにも無いんじゃないだろうか。宇宙の設定で一時的に現れた波紋のひとつに過ぎないのかもしれない。水面に現れた波紋が消えていくまでの間を、私は存在しない時間概念を使って、10年とか100年とか言っているのかもしれない。そしてその無数の波紋を見つめている大きな存在がいる。わたしは、ほんの一瞬のゆらぎなのかもしれない。そのゆらぎを、胡蝶の夢と表現したのかもしれない。
麻酔から覚めた直後、全身がブルブル震えた。「寒いですか?」と質問される。「(寒いわけじゃないんだけど)何だか、震えが出ます。」私は答えた。一旦シャットダウンされた全身に生命力が再起動されたような体感だった。全細胞に、「さあ、命の始まりだよ!」と、指令が届いていたような。これは、肉体が生きようとする武者震いだったんじゃないかな。身体って、凄い!私の顕在意識にかかわらず、いつもどんな時も、生きようと頑張っている。なんて神々しい存在なんだろう。感動で涙が流れた。
ベッドに載せられ、3階から4階へエレベーターで移動。なされるがままに、ただ天井の流れを眺める。痛みがだんだん強まってくる。エレベーターホールで夫の顔を見る。下から見上げるこの視点はなかなか見られない角度だなあと新鮮に感じる。夫がやけに大きく見える。夫の顔を見たら泣いてしまうかもと思っていたが、意外と冷静だった。「長時間待機ありがとう。気をつけて帰ってね。」「じゃ、またね。」30秒ほどのやり取りで、ここでお別れに。次に会えるのは、退院の日。感傷に浸りたいが、いまはそれより、痛み止めが欲しい。
病室に戻り、足には血栓防止の機械。右手に点滴。左胸には体液を出すドレーンか取り付けられた状態で、身動きが取れない。小水の管も。さっそく、痛み止めの点滴をしてもらう。なかなか効いてこない。痛み止めって、どんな風に効いてくるんだろうか。痛みに集中していると、いつまでも痛い。ああ、だから、コロナ前は、術後は家族がベッドの横に付き添えたのだ。家族とおしゃべりしていると気が紛れるから。家族の存在は術後も大きな力になっていた。
看護士さんに頼み、ベッドの上にスマホを置いてもらう。かろうじて数センチ動く1本の指で、「癒しのクラシックベスト5時間」をYouTubeで選択し耳の横で流しぱなしにする。
「あら。○○さん、クラシックお好きなんですか。」看護士さんが声をかけてくれる。
「いや、あの。クラシックって、528Hzで傷の修復にいいらしいんですよ。」と私は答える。
「528Hz。」看護士さんは、記憶するように繰り返した。この一言が切っ掛けとなり、いつか、術後の患者さんに、クラシックを聴かせるサービスが行われるかもしれない。そんな楽しい想像をして、思わずニヤッとする。
クラシック音楽にも助けられたが、他にも、イメージで患部を癒す一人ソマティックヒーリングもやってみた。想像力しか使わないので、寝たきりでも何とかなる。催眠療法習っていて良かった。今までの記憶総動員で、身体を癒す。
痛み止めが3時間で切れると言われていたので、びくびくしていたが、いつの間にか痛みは和らぎ、動かなければ痛みを感じなくなっていた。結局、痛み止めは1回しか使わなかった。
2020年も同じように手術をしているが、比べると回復が早いように感じる。
Yさんたち、たくさんの魂仲間、宇宙仲間の祈りのパワーもあるだろうし、入院前に受けた催眠療法の効果もあるだろうし、夫の愛もあるだろうし、私はたくさんの力に支えられていた。私は本当にだいじょうぶだったのだ。私は一人ではないし、全体につながり、愛され、大いなる眼差しに体験を見守られているのを実感した。
後から知らされたのたが、Kさん(金星の女神)は、私のために、アヴェマリアを歌い続けてくださっていたそうだ。
「あなたは、だいじょうぶ!おもいっきり体験を楽しんできてね。」そう励まされたように感じた。
翌日午前中に、機器やチューブが取り外され、私は自由に歩けるようになった。胸のドレーンだけは、ポシェットに下げて持ち歩くが、動き回れるのが嬉しい!
歩ける自由を噛み締める。ああ、私はなんて幸せなんだろう。行きたい所へ行ける身体があるって、どんなに有難いことだろう。身体さんを、もっと大切にしたいと心から感謝した。日常にこそ、生きる幸せがある。幸せの青い鳥は、いつも今ここに、私の内に居るのだ。だから、幸せを外に探しても見つからないわけだ。欠乏の罠にはまり、もっともっとと、求めてしまう。渇きがおさまらない。「わたしは渇く」とはキリストの言葉だったか。
早速、病院の屋上へ。
外の空気が清々しい。空って、こんなに美しかったのか。東京湾が輝いている。高速道路の車の流れがトミカタウンのようだ。トンビが悠々と旋回している。太陽の光がとてもあたたかい。一日30分太陽の光を浴びると免疫力が向上するらしいので、樹木のようにジッと佇む。太陽のエネルギーをしっかり取り込むよう意識する。
私の身体も、回復しようと頑張ってくれている。少し熱がある。術後は、傷を修復するために自然に熱が出るそうだ。自律神経の働きはまるで神のようだ。意識しなくても自然の流れで必要なことが行われていく。私はこうやって、流れるように、生かされていく。
その翌日のこと。
ほんやり窓の外を眺めていた。身体が修復モードに入っている時は、何もする気にならない。いつまでもぼ~っとしてしまう。思考が働かないから、本も読めないし、動画も見られない。ひたすらぼんやりして静かに時を過ごす。視点は何にも焦点を合わせず、ぼんやり視界全体を眺めている。
ぼんやりしていると、空に虹が見える。ハッと意識すると、それは消える。またぼんやりすると、虹がかかる。七色しっかり見えるわけではなく、強いて言えばホワイトレインボーのようだ。
次に、全体にチラチラ動きまわる、無数の粒子が見える。焦点を合わせると消える。ぼんやり視野全体を感じると、どんどん見えてくる。光のつぶつぶが、法則性もなく、自由に動きまわっている。中には、流れ星のようにシュッと斜めに降下していくのもある。強いて言えば、ダイヤモンドダストに近いか。まるで、銀河の中に浮いているかのようだ。視線を室内に向けると、光のつぶつぶは消える。青空をバックにしないと見えてこない。これは、フォトン?あるいは、プラーナではないだろうか。
屋上庭園に移動し確認。青空を見上げ、視点をぼんやりさせる。光の粒子が楽しげに飛び交っている。そして、背景の青空に巨大な曼荼羅が浮かび上がっていた。おぼろげな白い線で緻密に描かれている。宇宙(コスモス)という直感がきた。それは、視点を下ろし、再び見上げる度に形を変えた。
今、おそらく脳波が7.8 Hzになっている。自我が静かになっている状態の時に、見えないものが見えてくるのかもしれない。
ノヴァーリス『青い花』
「すべて、見えるものは見えないものに、
聞こえるものは聞こえないものに、
感じられるものは感じられないものに付着している。
おそらく、考えられるものは
考えられないものに付着しているだろう」
見えないものを見る。聞こえないものを聞く。感じるためには、感じないものに心をこめて注意する。そういったことを表現した一節だ。
身体が修復モードの、脳波が神様の周波数に切り替わった時に、こんな体験をした。
私たちのまわりには、目に見えなくても、こんなに美しいもので満ちている。
幸せの青い鳥も 青い花も
いつもいつまでも、私たちの内にある。
何よりも一番近くに。
☆Y さんへのメール
「平生業成
今回はまさに、この気付きに至りました。
身体が動くこと。行きたい所に行けること。つかみたいものに手を伸ばせること。痛みなく健やかであること。
一日、制限されただけで、日常がいかに幸せに溢れていたかを痛感しました。
今のこの日常こそが、いかに大切なものかを思いしらされました。
3·11でも、気付きがあったはずなのに、日常の当たり前に慣れて、見えなくなっていました。ついつい、欠けているところに目がいってました。
いってきます。一期一会など、その意味が深々と胸に染み渡りました。」
ノヴァーリスの『青い花』の一節や、仏教の『平生業成』の教えは、Yさんがベストタイミングで知らせてくれたYouTube動画で知ることができた。
なんと、私の体験や気付きに添って、深堀できるように、Yさんは、なにかを感じとり、必要な知識をもたらしてくださる。
そう、まさに、私の今回の気付きはこれ!これ!と、思わず興奮してしまった。
こういうのを宇宙の流れに乗ると言うんだろうなあ。
顕在意識では、試練と思うような出来事も、魂視点から見れば、チャンスだ。怖れ、抵抗を手放すまでは苦しいが、一旦、手放してみると、楽になる。気付きのフェーズに入っていけば、後は流れに乗るだけなので、楽に生きられるようになる。
魂は、いろんな体験をしてみたいのだ。良いも悪いもない。すべてが貴重で素晴らしい。
☆エゴが愛おしい
今日の午後あたりから、だんだんエゴの声が復活してきた。
「買い物がしたい。」と言う。
おお、物欲が出てきた!
エゴ復活ということは、エネルギーを自我に回せるようになってきたということ。つまりは、かなり回復してきたのだ。元気になってきた証拠だ。
日曜日の病院は、外来が無いので、静かだ。薄暗い1階フロアーに、売店がオアシスのように電気を灯している。心が沸き立つ。まるで聖地に見える。
ワクワクしながら、雑誌やお菓子を眺める。小さなお店なのに、まるで宝箱だ。一つひとつが輝いて見える。
お菓子を買って、いそいそと病室へ帰る。ああ、幸せだ。買い物って、何て楽しいんだろう。
日常の行為全てが新鮮で、喜びを伴う。階段を昇る一歩一歩すら嬉しい。自我の働きって、そもそもは魂の喜びだったんじゃないだろうか。
「悲しいって、こういう時に感じるんだ。」「へえ~。これが怒りか。」「痛い!って、そうか~。これはヤバイね。」等々。
悟りのためには、エゴを無くすこととよく言われるが、エゴがあるからドラマが生まれ、さまざまな感情を味わえる。そこから学んで成長もしていける。
別に焦って悟らなくてもいいんじゃないかなぁ。
必要な出来事が起こり、感情を味わい、人生が彩られる。みんな、魂に導かれている。ちゃんと必要なタイミングで必要な事が起きる。
悟りたい魂はそういう出来事を起こすだろうし、まだ楽しみたい魂は、ドラマを引き寄せ続けるだろう。
いずれ、すべての魂は真我に目覚め、地球を卒業していく。
だから、ただ、今をそのまま味わえばいい。起きていることを丁寧に体験し尽くせばいい。
私は、エゴが復活して、嬉しかった。
「お帰り!」と、エゴを抱きしめたくなった。
物欲エゴと一緒に体験した小さな買い物を、私はずっと忘れないだろう。
な~んだ。
私たちは、今まさに、最高に楽しんでいるんじゃないか。
すべて、これでいいんだ。
↓
後日、Yさんからメッセージが届いた
この物欲エゴのくだりを読んで
なぜか
「いと おかし」
という言葉が浮かび
瞬時に脳内で
「エゴ·お菓子」
と、自動変換されたとか。
Yさん、ナイスセンス!
メッセージは、退院まで、「いと おかし(エゴ お菓子)」な病院生活をゆるく穏やかに楽しんでねと、結ばれていた。
この、対比表現、ものすごく端的で、的を射ているなあと感心した。Yさんの言葉は、いつも魂に響く。Yさんの前世は講話を得意とする僧侶だったに違いない。
つまり、「いと おかし」は、潜在意識から繋がる魂の感覚であり、常時、喜び波動でワクワク振動している。「エゴ·お菓子」は、顕在意識または自我の領域での感覚。両者は密接に関連し合っており、双方の働きにより、物質次元体験が意味をなす。簡単に言えば、「エゴがあるから、人生メッチャ面白いよね~。」(by魂さん)
○実用日本語表現辞典
【いとおかし 】
「いとおかし」は、「とても美しく愛らしい・しみじみと深い味い・風雅な趣が感じられる・たいへん心惹かれる」といった感動を表現する意味で用いられる言葉である。古語の「いとをかし」を現代語の仮名づかいに直した表記である。 「いとをかし」は「いと+をかし」という構成の表現である。「いと」は「たいへん・非常に・とても」という意味の強調表現であり、「をかし」は「趣がある・見事だ・美しい・興味深い」といった意味合いの語。名状しがたい種類の感動を表現する言い方であり、現代の若者言葉でいう「超エモい」「めちゃくちゃグッときた」「激ヤバ」などのような表現に通じるところがある。 「いとをかし」は平安文学などによく用いられたが、既に廃れた語彙であり、現代語には残っていない。とはいえ「枕草子」などの作品を通じて多くの人が知っている古語ではある。
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