行為者はいない?

 仏陀は「行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない。」と言ったとか。

自分の意志で行っているようで、実はそれは、創造主(源)の意志であり、どんな個人も何もしていない。そして、創造された対象(人間)は、主体である創造主の意志を決して知ることは出来ない。

この考え方は、インドでは広く受け入れられている。

ネット検索してみたところ、この行為者はいないという考え方は危険な罠であり、テロや犯罪などを正当化する(神の意志だから、私は悪くないなど。)と指摘する方も多いようだ。言葉の独り歩きは、恐ろしい。

「行為者はいない」のは、ある面から見れば真理であろうが、社会が無秩序に陥るような成熟度にある場合は、違う言い方をした方がいいのかもしれない。言葉は人により一方向にしか解釈できず、曲解をも許してしまう。真理を表せない、不自由なツールだ。

さて、こちらのblogを見に来る方々は、これを読んだからと言って、無責任行為に走る人はいないと思うので(笑)少し、このテーマで私の体験を書いてみたいと思う。

10月に、トリシア·カエタノさんの、催眠セミナーに参加した時に、面白い質問をされていた。

「あなたは、誰ですか?」

たしか、デモセッション時に、催眠状態であるクライアント役の受講生に問いかけていた。

クライアント役の彼女は「私は····私は·····私は私。」と答えていた。これは何を意味していたのだろうか。少なくとも、「私は私。」という答えは顕在意識の答えなので、催眠にうまく入れていないということなのかな?と感じた。

ちなみに、催眠に入れている場合は、前世や幼少期の名前を答えられると、セラピストは、クライアントが今どの意識になっているか分かる。しかし、私はこの時に、もっと根源的な問いかけをしているように感じてしまったのだ。

この質問は面白いなあと思ったので、後日、別の集まりで、初対面の方々に質問をしてみた。

もちろん、「あなたは誰?」の問いかけは、名前や職業、資格、階級、人種、性別などを聞いているわけではない。もっと根源的だ。

よく考えてほしい。私は、名前?この肉体そのもの?○○会社の社員?仕事があなた?あらためて聞かれたら、全部、私そのものではないことは分かる。

結局、その時も、「私は私!」と、不可思議そうな顔をされながら答えられただけで終わった。まあ、大人の答え方だろう。これ以上やるとキレられそうだったので、質問はやめた。

これは、深い催眠状態で潜在意識にしっかり繋がっていたら、違う答えがかえってきたのだろうなあ。私ならどう答えるんだろう。超意識につながったら?私は消えるんだろうか。単なる宇宙音(エネルギー、振動)になったりして。

ちなみに、顕在意識のままであれば、「私は私でしょ?」とオロオロ答えるしかないだろう。正直、私が誰か?答えが分からないというのがせいぜいだ。

「人は何処からきて、何処へ行くのか?」の問いにも通じるだろう。人間の永遠の問いだ。

冒頭に戻ると

「どんな行為も、本当は自分の行為ではない。どんな個人も何もしていない。創造された対象(人間)は、主体である創造主の意志を決して知ることはできない。」

のであれば、

意志を持ち、思考し、選択をし、行為をしていると勘違いしている私という創造された感覚のこと。

この感覚は、創造主に創られた夢のようなもの。夢は目覚めると消える。

と、とりあえず私なりに書いてみる。

「私は、私は、······」のその先へ。


☆禅の言葉

目覚める前、薪を割り、水を汲む

目覚めた後、薪を割り、水を汲む


☆悟りとは、悟りを「欲しがる」「人」が消滅すること


☆起こることになっていること以外何も起きません。想定されている個人は、あらゆる出来事の中の単なる登場人物にすぎないのです。


☆エゴは、単なる名前や形との自己同一化ではなく、行為者であるという感覚であり、それは私たちが知るような人生が起こるために源泉の聖なる催眠によって創造されたものです。

「私は誰か」の答えは保留して、もうひとつ面白い体験を書いておく。

脳外科医のベンジャミン·リベットは

「人が自分の選択に気づくのは、脳波に現れる潜在的可能性よりも半秒遅れている。」と言っている。

はてな?

私が思考し、選択し、行動していることにならないんじゃないかな?もう既に起こることは決まっていて、自分が選んだと勘違いしながら、何らかの意志に動かされているだけなんじゃないのかな?とりあえず、何らかの意志を源泉(宇宙源、創造主、神)とでも表現しておこう。つまり、何だか、私には分かりようのないもののことだ。どうにも抗えない、大いなる流れのようなものだ。

私は、手術後、食欲と物欲を満足させるために、池袋サンシャインシティへショッピングに行った。チープだが可愛いものを買った。普段は欲しいと思わないのに、なぜか惹かれて、子ども用トイビーズで作られたネックレスを買ったのだ。すごく気分が上がりワクワクした。そのネックレスの構造を見て、ふと、私にも作れるかな?という気持ちになった。腕のリハビリも必要だったので、早速オモチャ屋で子ども用ビーズを買い込んだ。自宅で適当に組み合わせ、ネックレスとブレスレットを何本も作った。創造力が刺激され、気づくと、ゾーンに入っていた。(フロー状態。夢中になりすぎて、自分がいなくなる。宇宙とつながっているとも言う。)

ビーズで散々遊んだ数日後

二回目の手術が決まり、自我が荒れ狂う。

何で自分にこんなことが起きるのか?悲しみや怒りが出てくる。

夢を通して、ビーズのイメージを使い、人生に起こる出来事の意味を高い次元の視点から説明を受ける。

ビーズ作業中のゾーン体験をしていたため、この夢が伝えてくる真理が理解しやすくなっていたことが判明する。そもそも、この真理を言葉で説明されても、理解は出来なかった。ビーズというビジュアルを用いた例え話が、その段階の、その成熟度の私には、一番伝わりやすかった。

ということは、

「なんとなく」「ふと」「いつもはやらないのに」「なぜか」「気になって」

という、右脳直感を使ったような(思考を介していない?)インスピレーションで、まるで何者かに誘導されたかのように、

ひとつの真理に導かれたのである。

ささやかな私の体験談であるが、人生の学びに必要な出来事は、直感を通して、動かされるという例になるのではないかと思う。

左脳でしっかり思考をして、選択の上行動しても、思考に働きかける何かがあることに変わりはないのではあるが。まだうまく例を出せない。

私の意志で動いていたのだろうか?と考えると、何やら不思議な流れに乗せられて、気がついたら必要なところまで連れて行かれた。と言う方が自然なのである。少なくとも、こんな結果になるとは、全く想像すらしていなかったのだから。つまり、一切の意図が無いまま、必要なルートに乗せられてしまったのだ。あ~れ~·····

☆ラメッシ·バルセカールの言葉

「事実、私が言っているのは、もし自分がこれをすべきかあれをすべきかの疑問があれば、私の答えはいつも、何であれその瞬間に正しいか間違っているか自分が考えていることをしなさい、というものです。なぜでしょうか?それは、「あなた」はいずれにせよ、それをやっていないからです。あなたであれ、他の誰であれ、個々の行為者はいないのです。 もしその瞬間に、自分があることではなく別のことをすべきだと考えるなら、それは条件付けにもとづいています。誰がその条件付けを生み出したのでしょうか?あなたがそれを生み出したのでしょうか?いいえ、違います!その条件付けは、神の意志の一部であり、その肉体精神機構の運命なのです。これはまさに、仏陀が「行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」と言ったと伝えられていることです。でも社会には個々の行為者がいます。個々の行為者なしに、社会は機能しないでしょう。ですから、社会に関するかぎり、行為者はいます。あなたはそうでないとは言えません。

まるで、選択があるかのように生きる 

質問者: 現象は幻想であるという考え方全体は、ある種の罠となることもありえませんか? 

ラメッシ :はい。それゆえ人生においては、自分は行為者でないと知りながら、まるで自分が行為者であるかのように生きなければならないということです。人間は虚構によって生きています。たとえば人間は、太陽が静止していて、運動しているのは地球だということを知っていますが、それにもかかわらず、日常生活では太陽が昇っては沈むという虚構を受け入れています。 ですからその理解は、これは幻想で、人は自由意志をもっていないというものですが、しかし人生では、あなたはまるで自由意志があるかのように行動しなければならないのです。」


☆現実は意図せずとも創り変えられる

私はいつも、病院へは夫の車で連れていってもらう。

病院は、車で20分から30分(渋滞により左右)かかる。ちなみに、バスだと1時間だ。

手術もあったため、今は、週に1、2回は通院する。夫は、休日の振替、介護休暇や有給休暇を利用して私を連れて行ってくれる。幸い、夫の職場の方々がとても理解があり、全面的に協力してくれている。

ところが、2月3日の通院予定日、夫はどうしても仕事の関係で休めないことが判明した。その日は手術の病理診断結果が出る日に当たっていた。仕方なく、私は初めて一人でバスに乗り一時間かけて行くことに決めていた。バスは本数が少ないので、かなり前に自宅を出なくてはならない。一人で行くのか~。と結構緊張していた。まあ、バスに乗っていればいいだけなんだが。少し不安だったのだ。

今日1月27日は、たまたま傷の具合を見るため、急遽、医師が診察日を入れてくれていた。夫はいつも通り車で連れて行ってくれた。そうしたら何と!病理診断の結果が早まったらしく、今日報告を聞くことができた。なので、2月3日の通院予定は消えたのだ。

夫も、私が一人でバスに乗り病院へ行く日を心配してくれていたので、予定が無くなりホッとしていた。私もホッとしたのは言うまでもない。

「なんだか、私たちの都合のいいようになったね。神様がスケジュール調整してくれたみたいだよね。」私たちは、互いにそう言い合った。

やる必要のない体験は、やらなくていいようになっていく。

会う必要の無い人はどんなに親しかったとしても、会うことはなくなる。

やる必要のある体験は、どんなにエゴが抵抗しても、やらされる!

会う必要のある人には、様々なシンクロニシティが重なり、奇跡的に会わされる。

おそらく、エゴで抵抗しまくり、何とか回避しても、また時間を置いて、同じような問題が勃発。必要な体験と気付き(学び)がなされるまで、その出来事は繰り返す。

どんなに嫌な相手でも、自分が変わらない限り、縁が切れない。離れても、似たようなタイプの人が現れる。

では、やらなくていい体験をクリアにしたり、やるべき体験を起こしたり、縁結びや縁切りをしている、この現実(夢?幻?ドラマ?脚本?)は、誰が創っているのだろうか。

何だか分からないけれど、命を助けられたり、ホッと安心する展開に奇跡的に進んだ場合は、「神様、仏様、ご先祖様、ありがとうございます!」と私たちは手を合わせるのではないだろうか。

最近は、自分が現実を創っている。実は自分が創造主だ。というスピリチュアルな考えもよく聞かれる。もちろん、ここで言う自分はエゴではなく、本質のことであるが。

催眠療法では、潜在意識の中に本当の自分がいると言う。

私は、今日、何だか分からないけれど、大きな愛に守られ抱かれているような、そんな気持ちになったので、「神様、ありがとうございます。」と、感謝を伝えた。宗教的な特定の存在に対してではなく、名もなき大いなる何かに対してである。分からないが、有難い何らかの力のことである。信仰のある人は、その力に信じる存在の名をつけるのだろう。もしかしたら、みんな同じものを指しているのかもしれない。言葉に置き換えると、バラバラな表現でも、実はあるひとつを表しているかもしれない。


私は、大海の一滴であるとか

反対に、大海が私に流れ込むとか

海に例えた表現も素敵だ。

結局は

ひとつ 

なのかもしれないね。


病院のアクアリウムで

新たにお友だちになったエビちゃん。

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