ベストを尽くせばそれでいい
今日はヒプノセラピー練習会だった。
いつもは、セラピスト同士、自主練をしているのだが、学校のこの練習会は、きちんと講師がついてくださり、質問もできるし、講評もしてくださる。ありがたい機会となっている。
2ヶ月ぶりの練習会。とても楽しみにしていたのだが、昨夜、ひどくお腹を壊してしまった。今朝も、体力が回復せず、気力も低迷。
体調いまいちだし、練習会を欠席した方がいいだろうと、講師にメールを送ろうとしたのだが、ことごとくうまくいかない。パソコンが変な動作になったりして、うんうん操作していたが、結局訳の分からない理由で、Windowsはこのメルアドを認識できませんと、匙を投げられてしまった。こんなことある?
講師の携帯番号も知ってはいたが、電話をかける気も失せてしまった。
これは、練習会に出なさいという宇宙メッセージなんだなと捉えることにした。訳の分からない理由で思うように事が運ばない時は、宇宙の流れに逆らっているかもしれない。そんな時は、素直に流れに乗って みると、後で理由が分かったりする。
お風呂に入ったり、ギリギリまで横になったり、太陽の光を浴びながら瞑想したりして、何とか時間までに、気力回復を計りZoom参加をした。
結果、練習会に参加して良かったのだ。大きな気付きを得た。やっぱり、ベストなことが起こるようになっているのだ。後にならないと本人は理解できないが、潜在意識はちゃんと知っていて、現実化してくれる。この世はうまい具合に出来ているのだ。
本日、ペアになった受講生は、まだ基礎を学んだばかりで、退行催眠の体験が無かった。これから学ばれるかもしれないし、退行催眠療法の面白さを知ってもらいたいなあと、ちょびっとだけ先輩の私は、思ってしまったのだ。
さて、事前面談をさせてもらい、テーマを探っていったのだが、なかなか深刻な内容であった。練習会ではあるけれど、きちんと対応したかった。練習会は時間制限がシビアだ。二時間なら二時間で切り上げなければならない。
本当なら、面談にもう少し時間をかけたり、丁寧に誘導していきたかったが、残り時間を見ながら、あれもこれも、省略しなければならなかった。
終わってから、相手の方は「スッキリした。」と感想を言ってくださった。
私は、あれもこれも出来なかったという思いが強すぎて、本当はもっと素晴らしい体験ができたかもしれないので、ぜひ、今後もセミナーに参加して、学びを続けてほしいとコメントした。力及ばず申し訳ないという思いからの発言だった。
講師は、いつもは優しいのだが、珍しく厳しめに私に注意を促した。
クライアントの感想が全てだ。あれもこれも出来なかったというのはセラピストの思いでしかない。もっと素晴らしい体験ができたかもと言うべきではない。セラピストがその時、いろんな制限や条件がある中で、ベストを尽くしたならそれでいいのだ。そのセッションがどうであったかは、クライアントが決めることで、セラピストが判断することではない。
講師はこれ以上は言わなかったが、私には伝わってきた。
クライアントの体験を私が勝手な価値観で否定したことになるのだと。それは、あまりにクライアントに対し、失礼なことであり、クライアントや潜在意識を信じていないことにつながると。
そうだ。セラピストの基本姿勢は、クライアントの中から出てくるものを判断せず、評価せず、その日のベストなことが起きたのだと信頼することだった。いつの間に忘れてしまった。
今日起きたクライアントの体験や気付きが、不十分だと、素晴らしい体験ではなかったと、私が評価したことになってしまうのだ。
いつの間に、こんな傲慢な気持ちになっていたのだろう。
例えば、気付きが10段階あると想定できたとする。その日のセッションで、クライアントの気付きが1だったとする。10でないから、セッションは不十分だとはならない。その日、潜在意識が1の気付きを選択した。ゆっくり気付きを得ながら学んでいくかもしれないし、もしかしたら、問題の核心にいきなり触れるには、まだ準備ができていないのかもしれない。
もちろん、セラピストの力量で、1を5や8に出来たかもしれない。クライアントも10を期待していたから、期待外れでがっかりするかもしれない。
セラピストは、日々学びを継続し、精進していくことは大前提であるが、一期一会のセッションにおいて、自分に出来るベストを尽くせたなら、それでよいのだ。クライアントが1の気付きであると感じたとしてもだ。クライアントが、スッキリしたり、軽くなったり、何か一つでも手がかりを得たと言うなら、それでいいのだ。
そうか
私はこの数ヶ月、ずっとひっかかっていたのだ。
とある大切なセッションで、たくさんご注意をいただいたこと。出来ない自分を痛感したこと。
小さなエゴが、たくさんの言い訳を出してきた。あれもこれも出来なかったのは、時間のせい。○○のせい。だって、私は、私は···。と。現実を引き受ける覚悟がなかったのだ。
謙虚なようで、傲慢だった。それが炙り出されたのが今日だった。
講師の言葉は厳しかったが、迷い道の先に、スポットライトのような明かりを見る思いだった。私は今日、この言葉に出会うために、参加させられた。また宇宙に導かれたのだと思った。
何度も何度も、こうやって初心にかえり、基本を思い出すのだ。行きつ戻りつしながら、全く先に進めていないと、時に泣きたくなるかもしれないが。一旦戻ったら、次はその反動で、前よりちょっとは遠くへ、半歩か一歩、進んでいると信じよう。
私はベストを尽くしたのだ。今日はベストな事が起きたのだ。
それでいい。
そして、また学んでいけばいい。
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