あなたは人格ではない

 


*写真 : 水に溶かしたインク。海や宇宙を感じる。


自分の中にたくさんの人格があると、感じたことはないだろうか。

穏やかで優しい自分も

短気で怒りっぽい自分もいる。

親には我が儘を言うが、小さな子には忍耐を示すこともある。

好ましい自分も、嫌な自分もいる。

それは、私だけの問題だろうか?周りのみんなは、一つの人格に統合され、いかなる時も安定しているのだろうか。矛盾は無いのだろうか。

OSHOは、講話『二つの夢の間に』DVDの「③多重人格を観る」において、このように語っている。

「あなたは人格ではない

だから気づくことができるのだ。五人の人格がいるとか

十二人の、あるいは無数の人格がいると·····

この事はまた一つの点を極めて明瞭にする

それは、自分の周りに起こっている

この人格のゲームの全てを見守り続けている何かがあるということだ

そして それが あなただ

だから それらの人格を見つめていなさい

だが、その見つめている者こそが真の自分なのだと 覚えていなさい

そしてもしあなたが それらの人格を見守り続けていることができたら

そういう人格は消失し始める

それらは生きられない

同一視が必要だ

それらが生き残るためには·····

もしあなたが怒っているためには

その怒りは あなたが見つめることを忘れて

その怒りと同化していることが必要だ

そうすれば怒りは生き残る

もしあなたが ただ見守っているだけだったら

怒りは命を持たない

それは既に死んでいる

命を失い消えていく

だから覚えておきなさい

もっともっと見守っていることの中に自分を集中して行きなさい

そうすれば それらの人格はすべて消えてしまう

そして そこにどんな人格も残っていなければ

その時真実のあなたが

主人が家に帰り着く

そうなれば人は誠実に 真摯に振る舞う

そうなれば何をしようと人は全身全霊で全面的にそれを行う

もう決して後悔することはない

いつでも喜びに満ちた気分でいられるのだ」


OSHOは、ここで、内面にある複数の人格を「群衆」と、また一つひとつの人格を「衣服」に例えて表現していた。

朝、この講話を視聴していて、自分の中で、カチッと何かがはまったように感じ、スッキリとした気付きが起きた。

あ、そうか。

という腑に落ちる感覚だ。

人格とは、例えばポジティブな自分とか、ネガティブな自分など、それぞれに幾つかの感情が付属して、異なる自分と認識したものかと思われる。

人格(感情のグループ)を切り離し、客観視すること。観察する大切さは、今まで知識としては持っていた。

それでも、何故か実践してこなかった。

感情が暴れ出せば、自然に静まるまで翻弄されていたと思う。

ちなみに、感情を味わうと、そこには、単一の感情のみ存在しているわけではない。感情はミルフィーユのように重層的に存在する。

怒りの奥には悲しみが、もっと奥には諦めが潜んでいたりする。

人格と感情の関係性は、専門家により、もっと的確に説明できると思うが、ここでは私が感じたままに書いておく。私見であることをご了承いただきたい。


主人不在の屋敷で、召し使い達が、気ままに遊び回るが如く。

召し使い達は、主人の衣服を勝手に着て、主人になりきる遊びをしていたわけだが

グルジェフの寓話から、ヒントを得た。

催眠スクリプトが作れそうだ。


もし、クライアントが、複数の人格をもて余していたとする。または、目を向けたくない、好ましくない人格に悩んでいたとする。大抵は、怒りや嫉妬深い自分だろうか。

催眠状態に誘導し

まず、感情一つひとつ、心と体で感じてもらう。(MBS感情解放メソッドの一部が使えそうだ。)

次に、その人格(感情のミルフィーユ)を、色、手触り、素材、デザインなどで、クライアントのイメージを膨らませてもらい、衣服として、言葉で表現していただく。

着心地や、他人からどう見られるか(見られたいか)、衣服になぞらえ、詳細に語ってもらうのだ。

この時点で、実はクライアントは、人格を客観視している。人格は、衣服であり、いつでも着替えることができるのだと無意識に理解していく。

例え、好ましい、着心地よい衣服に着替えたとしても、それは選択された衣服であり、本人と同一化したものではないと気づく。心地よいから長く着ているだけであり、いつかは脱ぐものだと気づく。

衣服(人格)ではないとしたら、この「私」とは、何?

それは、衣服を見ている。観察している。時々で、選んだ衣服に着替え、様々な「私」を味わい

楽しんでいる(としか言いようがない)、意識のことだ。

さらにこの先に「私」という意識すら幻であると気づく段階に進むと思われるが、このあたりはどう表現するか、課題だ。

これは、クライアントに合わせ、誘導してみたい。即興スクリプトとなるだろう。

例えば、怒りがなかなか手放せないとか、イライラしているとお悩みのクライアントに、どんな変化が起こるだろう。

特に、女性は衣服好きが多いと思うので、楽しんで取り組んでもらえそうだ。

衣服というメタファーを使い、クライアント自らの力で、人格を切り離していく。観察できている時点で、既にクライアントは、人格そのものではなくなっている。そのことに気づく。

後催眠暗示に、「観察者としての意識にいつでも戻ることが出来る」と入れてみよう。

OSHOさん、ありがとうございました。


☆追記

心の目で見て、目に見えない世界からの応援をキャッチしたことについて書いておきたい。

本日15時から、いつもの大きな病院へ。

今日は造影剤を使ってMRI検査だ。

夫に車で連れていってもらった。病院に到着し、車から降りる。

ここは海が近いので、いつも空が美しい。最近の美しい雲の写真は、ここで撮影している。高次元に繋がる空ではないかと思っている。

空を見上げると、巨大な龍神雲が上空に待機していた。応援に駆け付けてくれたのだろうか。声に出して、龍神雲にお礼を言う。とても心強い。

このような検査は過去3回受けたことがある。初めてではないし、大丈夫だと思っていた。気持ちも落ち着いているし。

病院内の売店に寄る。毎回、通院の度に、ここに寄り、ちょこちょこ買い物している。小さいが、品揃えにこだわりがあり、弁当や菓子など、時々珍しいものを発見する。

今回は、店内に500mlの天然水ペットボトルが目立つ位置に山積みになっていた。こんなこと、初めて。採水地は山梨県甲府市。

天然水は、有名メーカーの南アルプスとか富士山とかならよく見るけど、山梨県甲府市というパッケージのは見たことが無い。旅行も行ったし、山梨に縁があるなあと思いながら、一本購入。

30分早めに受付したら、すぐに検査に入ることが出来た。何てラッキー。

造影剤を入れるために手の甲に点滴用の針を差す。(撮影部位の関係で甲に差すしかなかった)

甲は痛い(涙)

頑張ってくれている身体に、「痛い思いをさせて、ごめんなさい。」と何度も謝る。

検査30分。うつ伏せで、浅い呼吸(身体を動かすと撮影できないから)をして、ひたすら固まる。緊張。

この経験は貴重だと、改めて思う。

がん患者の不安に寄り添うためには、実体験が何よりだ。この経験全てが、これからの役に立つ。一瞬一瞬、貴重な人生体験をさせてもらっていることに、感謝の気持ちが沸き上がる。

検査中、ひたすら、ありがとうの言葉を唱える。両親から始まり、夫、身内から、友達、近い知り合い、遠い知り合い、病院の人、技師、MRIの機械も、造影剤にも、一人ひとり、一つひとつに対し、名を呼び、感謝を伝え続ける。まるで身延山思親閣で、お経を聴いていた時と同じ。意図せず、自然にお礼を心の中で唱える。

残り時間10分、「これから造影剤が入ります。動かないで。」と技師から言われ、少し驚く。「造影剤、まだ入ってなかったのか!」と。冷たい液体が手の甲を伝い、血管に入ってくる感触。その瞬間、今まで落ち着いていたのに、急に恐怖心が押し寄せてきた。この恐怖は一言では表現できない。複合的恐怖。

「助けて!」と心の中で叫ぶ。少し涙が出る。

二年前、星に帰った大切な友の名を呼ぶ。そして、観音様、マリア様、日蓮さん、魂の兄の名を次々呼ぶ。存在の名を呼ぶと、エネルギーの助けが来るのだろうか。不思議と落ち着いてくる。私はこの時、本当に愛のエネルギーを受けていたと感じる。

大丈夫だから。すべてうまく行く。安心していなさいと。

無事検査終了。技師の方が、とても温かい声をかけてくださり、この方にも助けられたなあと思う。私の身体をとても大切に扱ってくださったのが分かる。深々頭を下げ、感謝を伝える。

造影剤を体外に出すために、水を500ml飲むように言われる。

夫が待つ廊下のベンチへ。夫の顔を見たら、ほっとして、つい弱音を吐く私。「(点滴の)手が痛いよ~。」人は安心すると、弱音を吐けるのだと、理解。弱音を聞いてもらえる私は幸せなんだ。

さっき売店で買っておいたペットボトルの水を一気飲み。

ふと、山梨県甲府市の天然水というパッケージをマジマジと眺める。

偶然にしては、出来すぎではないか?

山梨を旅した。もちろんこれは、身延の水ではない。しかし、今日、山梨県パッケージの水が、あんなにドッサリ山積みになっていた売店を不思議に思う。山梨アピールはなはだしい。

私、山梨の水からも応援されたのではないだろうか。旅のご縁つながりで!

帰宅し、山梨で手に入れた、かぼす を絞り、天然水で割って飲んだ。山梨の清らかな水と果実の力をいただき、体内を浄化する。

造影剤にも役立ってくださり、ありがとうという気持ちを伝え、速やかに体外に出るようお願いをする。

思い込みと言われればそれまでだ。山梨の水が「応援に来たよ!」と言葉を発したわけでもない。

しかし、シンクロニシティとは、こんな感じで起こる。意味のある偶然と言われる。

起こる出来事を単なる偶然として、流してしまうか。

そこに素敵な意味を見いだし、感謝の気持ちを抱くのか。

私は、後者でありたい。

目に見えない世界から、たくさんの応援をいただいた、美しい一日に

ありがとうございました。と伝えたい。

こうして、素敵な一日が続いていく。

出来事のどの面に着目し、どんな意味を見いだしていくのか。その人次第だ。

幸福の種に水をやるのは、自分しかいないのだから。

山梨の水に応援された私は、ほっこりとした幸せを感じている。

山梨、大好きだな~~

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