ドラマ好きな宇宙
「○○は突然に」と言うと、とある昭和トレンディードラマを連想してしまう私。
なぜ、あんなに、トレンディードラマにはまっていたのだろうか。昭和の若者に人気があったドラマは、たいてい、主人公はカッコイイライフスタイルで、恋愛は波乱万丈で、ちょっとした行き違いが、二人を引き離していく。観ている私たちは、ハラハラドキドキ。時に涙したり、煮え切らない彼氏に腹を立てたりしながら、ドラマに没頭していた。それが楽しかった。
もし、平凡で穏やかな日常が淡々と描かれた脚本だったら、私は観ただろうか?「平凡な日常は、嫌というほと現実で味わっている。テレビや映画は、波乱万丈、スリル満点がいいなあ。」と思うから、わざわざ、作り物の嘘のストーリーを疑似体験するわけだ。自ら進んで。
先日、友人が、さとうみつろうさんの本を紹介してくださった。だいぶ前に一冊読んだような記憶があるが、忘れてしまったので、図書館でみつろうさんの著作を根こそぎ借りてきた。読みやすいので、次々読破した。
みつろうさんは「笑うスピリチュアル」と自ら表現するだけあって、最初は、神様と主人公の掛け合いに戸惑った。あまりにフランクすぎて。
しかし、読み進むにつれて、あれ?確かに!と、胸の奥底に潜んでいた感覚が呼び覚まされてくる。
こんな感覚、味わったことはないだろうか。
夢を見ていて、朝、目覚めたとしよう。
その夢があまりにリアルすぎて、しばらく、夢と現実がごちゃごちゃになったことは無いか。
実はこちら側が夢で、あちら側が現実なんじゃないだろうか?ふとそんなことを思って、苦笑いしたことは無いか。
私にはある。
だから、「胡蝶の夢」の感覚はよく分かる。
私たちの本体は別に存在していて、「私」という意識は夢の中だけの感覚であり、目覚めれば消えてしまう幻に過ぎないのではないかと。
数ヶ月前に、昼寝をして10分程度微睡んでいたことがある。その時に、夢を見た。仏道に携わるあるお坊さんの一生を味わっていた気がする。ほとんど内容は忘れてしまったのだが、熱心に禅の公案みたいなものに取り組んでいて、議論していたような場面は顕在意識にかろうじて残された。約60年分の体験が、ものの10分のうたた寝で、走馬灯のように視聴できたわけである。
目覚めて、「あれ?ここは現実か?それとも誰かの夢なのか?」と分からなくなった。
宇宙はビッグバンでつくられた。
その前は?
点でしかなかった。
この中に全てが詰め込まれていた。
点はひとつだから、存在を意識できない。「無」
ビッグバンにより、散らばった。
「二つに分けようとしたら、結果三つになっちゃった。(笑)」By宇宙
観測するもの、されるもの、体験の三つ。
私たちは、個々に意識を持ち、自らの意思で選択し、人生を生きていると勘違いしている。
「私」という意識は、何者なのか。
みつろうさんは、ONEと表現する。
そもそも、ひとつの意識。
もしもだ。
ONEが、リラックスできるリビングで、DVDを観ていたとする。
「今日は、Y子の日常にしよう。病気をバネに、ヒプノセラピーを学び、宇宙好きになっていくストーリーなんだよな。」と、再生ボタンを押す。ONEは、楽しみかたを知っている。DVDのケースには、ストーリーが細かく解説された冊子がついているのだけど、(しかも撮影済みだから、ストーリーが変わることもない)結末を知っていたら、つまらない!知らないまま、展開にハラハラドキドキしたい。
映像の中の主人公にひたすら没頭する。現実は安心安全心地よいリビングでDVDを楽しんでいるだけなのだが、そんなことを忘れて、泣いたり腹を立てたりしながら、視聴するわけだ。そして、エンドロールが流れ始めると、我に帰る。「あ~めちゃくちゃ面白かった!」と。そして、次のDVDを選ぶのかもしれないし、その装置はマルチスクリーンになっていて、一度に複数のストーリーを楽しめるのかもしれない。途中で飽きてしまい、止めるのもあるかも。
「私」は、朝、目が覚めて、いつもの一日を始めたと思って、今に居る。
こんな過去があり、現状がこうで、だから未来にこんな思いを抱いている。
それが、単なる設定だとしたら。
こんな過去を体験してきたから、今、やさぐれている自分が居るでしょ?と。
その過去の記憶、本当に本当?
そもそも、五感で味わい、体験してきたことは、単なる電気信号に反応した脳内の作用だ。見えていることすら幻なのは、科学実験で証明されている。(体験に応じた電気信号を肉体のある部位に流すと脳内に体験している錯覚が生じる)
すべて、すべて、電気でしかなかったかもしれない。
私は夢で歯が全部抜けた体験をしたが、口の中がジャリジャリして、見事な体感だった。目が覚めて、歯があることに感謝した。夢だってしっかり体感と感情と体験がある。夢と現実の違いは、夢は目覚めるというところか。いや、現実でも眠るしなあ。
いやいや
今、私は私の右腕を触っているよ。柔らかい肉体の感覚はしっかりするよ。だから、これは現実でしょ。間違いないよ。頭もハッキリしているし。思考している私をリアルに体感しているもの。「私」は、意識かもしれないけど、紛れもなく「私自身」でしょ。
······という設定を楽しみ味わっているONE
ONEがひとつしかなく、「私」であるなら、知覚できるものすべてが「私」であり、「私」が創ったと言える。
だから、なんだ。と言うことなのだが。
みつろうさんの本を読んでから、私は、すべてがこのままでパーフェクトなんだと思うようになった。
どんな出来事も、因果を遡れば、行き着く先は宇宙のビッグバンしかない。
観測するもの、されるものに分けてみた。こちら側も私であり、あちら側も私である。現実は内面の鏡と言われるが、現実(鏡の虚像)に腹を立てて、文句を言っているわけだ。すべてが自作自演。
空を見上げても
風に吹かれても
信号を渡っていても
今、朝の五時に布団から起き上がっても
○○しても
○○と感じても
ぜ·ん·ぶ
「私がやりたくてやっている
感じたくて感じている。」
だから、今ここに、すべてがあり、完璧であるというのは、本当なんだ。
例えば
平和が大切と思いたければ、平和ではない現実が目の前に現れる。
お金がいっぱい欲しいと思えば、「お金がいっぱいあればいいな」と思えるように、極貧の現実が目の前に現れる。
○○だといいな。を味わうには、○○と反対の現実を創らないと実現しない。
○○が自分と一体になっていると、観測できないから、取り外し、鏡(という現実)に反対の虚像を映し出す。
心地悪いがあるから、心地よいが理解できる。光の中では光は見えない。闇があるから、「これが光か。まぶしいんだなあ。」と味わえる。
「○○したい。」は、全部叶っている。「○○したい!」と願えるような状況をしっかり創り出している。それが、「私」(=ONE)
(蛇足だが、不足感のループから脱したいのなら、今、ここで、すべてが完璧で満たされていると心から満足し、感謝することだ。不足ばかり意識すると不足ばかり目に入る。意識的に切り替えることは可能だ。)
私は、「私はこれをやりたかったんだね。」と自分に言葉がけするようになった。
けっこうこれが、魔法の呪文のようで、じわじわ効いてくるから面白い。
今、起きている出来事や感情や体感は、そのまま、ただ味わえばいいんじゃないかなあ。素直に。ただ、ありのままに。
☆追記
ヒプノセラピストの資格認定がなされ、学校のホームページに写真と簡単な紹介文が掲載された。一応、短期目標をクリアしたわけなので、達成感はある。
しかし、そもそも、ヒプノセラピーは面白いから学んだわけであり、誰かを助けるためと言うよりは、自分を知りたいためだった。
ヒプノセラピーで、苦しむ人を救いたいと、もし本気で願うなら、私の現実には救いたくなる人々ばかりが出現するだろう。
助けなければならない人は存在しない。自分を助けるのは自分だけ。
ヒプノを学べば学ぶほど、そのことは理解できてくる。どの人のどのような人生も、必要があり起きている。掛け替えのない体験であり、そこには目に見えない叡智が宿る。
な~んだ。
すべてがOKだったんじゃん。
そこに行き着く。
だから、せっかく資格を取ったけど、私はヒプノセラピストとして悩める方々を救うつもりはない。
悩んでいる今こそが、素敵な宝物だから。
病気を治さない医者。そんな医者が居るらしい。
苦しみを解決しないヒプノセラピー
何もしないヒプノセラピスト。
私のことだ。
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