自分軸は調和をもたらす

 最近、毎日視聴しているのは、YouTubeでオラクルカードリーディングをしてくださるroseさんの動画だ。

不思議と毎回、自分のシチュエーションにピッタリのメッセージをくださる。そのメッセージを聞くと、スーッと心が軽くなり、前向きな気持ちになれる。自己肯定感が上がるのだと思う。

roseさんは、チャネリングしながらメッセージを降ろしているようなので、繋がる存在が、きっと私のエネルギーに合っているのだろうと感じる。もちろん、中にはピンとこないメッセージもある。その際は、「これは私にではなく、このカードを選んだ別の方に必要なメッセージなんだな。」と、スルーしている。個人リーディングではないのだから、合う人合わない人が居て当然だと思う。そこから何を学ぶのかは、その人次第であり、必要無い方は、見なければいいだけだ。

びっくりしたのは、roseさんがYouTubeを始めた頃、リーディングに対して、コメントにクレームを書き込む視聴者がいたこと。roseさん自身、まだ自分に自信が持てなかった時期でもあり、悩みながら続けてきたそうだ。リーディングで、○○というメッセージを受け取っても、「こんなこと言ったら、また、あの時みたいなクレームが書き込まれてしまうかも。」と、言葉を選ぶようになっていった。そうすると、カードリーディングをするのがつまらなくなっていったそうだ。

誰かに喜んでもらいたいと、始めたYouTubeなのに、周りに配慮していたら、自分がつまらなくなってしまった。何のためにやっているのか。最初は楽しくやっていたのに。roseさんは、自分が他人軸になっていることに気づく。

roseさんは、自分軸を取り戻す決意をする。自分のやりたいようにやろうと割り切る。偽りの無い自分を出すと、半分の人は気に入ってくれても、半分の人には嫌われる。全員に好かれる必要は無い。嫌いなら、動画を見に来なければいい。と。

吹っ切れたroseさんは、のびのびと楽しんでリーディングをするようになった。すると、とても良かった、感動した。という喜びのコメントがどんどん寄せられるようになっていったそうだ。もちろん、一部には批判するようなコメントも寄せられるが、自分の個性を大切にする姿勢を貫いているそうだ。

私たちは、周りに合わせなさい。と躾られてきた。誰かに不快な思いをさせないように、ビクビク、周りの声に振り回され、自分の色を消して生きてきた。誰かにAと言われて、そうすると、別の人にBと言われ、何をやっても誰かに批判され、うまく周りに染まれない自分を否定しているうちに、個性が分からなくなってしまう。「私は、本当は何をしたいのか、分からない。」という悩みを抱える大人はとても多い。

「友達100人できるかな」の歌に引きずられてしまったのだろうか。幼稚園の頃、希望に胸を膨らませ、歌っていたあの頃。いつの間にか、皆に好かれなければならないと刷り込まれてしまった。そして、現実は厳しかった。

自分軸とは、確かに難しい。出る杭は必ず打たれる。出すぎた杭は打たれない。とも言われるが、なかなかその域に達せない。よほど自身を信頼できなければ、すぐブレてしまう。

自分軸とは少し違うかもしれないが、思い出した出来事がある。

だいぶ前の事だが、インターネットで知り合った遠方に住むAさんに、本を送ったことがあった。当時、私は絵本のホームページを公開し、自作の作品を発表していた。Aさんも同様の活動をしており、メールのやり取りしかしていなかったが、意気投合した。とても話が合い、私はAさんを大切に思っていた。

ある日、私が好きな詩集に作者のサインとメッセージを書いていただける機会があり、Aさんに差し上げたいと思った。そして、サプライズにしようと事前に知らさず郵送した。

ところが、何と言うことか、発送したその日の夜、Aさんの住む地域は、水害に見舞われてしまった。また、間が悪いことに、被害に呆然としているAさんの元に、私が送った本がしっかり届いてしまったのだ。(郵便配達の皆様のご苦労と使命感には頭が下がる。)

その詩集に、作者の方はランダムにメッセージを書き込んでくれていた。たまたま、何の意図もなく、「感謝の気持ちって大切だよね。」と書いてくれていた。普段の精神状態ならスルーできることも、水害でぐちゃぐちゃになった家で呆然としているAさんには、過酷なメッセージとなった。

Aさんから、「あのメッセージに私は傷つけられた。」とメールが届けられた。Aさんの心中は、いかばかりかと、察するに余りある。何てことをしてしまったのか。辛い状況のAさんを力づけるどころか、さらに追い詰めてしまった。ひたすら謝り、必要な物資を送りたいと申し出たが、それについて返事はなかった。

Aさんとは、落ち着いてからやり取りが復活し、しばらく交流していたが、いつの間にか疎遠になった。私は、未だこの時の罪悪感が拭えず、今も思い出すと胸が痛い。

良かれと思って何かをしても、意図せず誰かを傷つけてしまうことがある。

自分のホームページで自作の作品を無邪気に披露していた時、とある方から、お叱りのメッセージをいただいたこともあった。簡単に言えば、少なくとも絵本作家を目指すなら、この程度の低レベルの作品を公開なんかするな。みたいなクレームだった。私が好きなことで、発信しても、誰かにこんなに不快な思いをさせてしまうのだ。と、恐ろしく感じた。そのクレームは愛の鞭だと捉えようとしたが、いつまでも引きずり、作品公開をする時は、また誰かに不快な思いをさせてしまうかもと、ビクビクするようになった。やがてホームページは閉じてしまい、絵本製作も止めてしまった。

とあるイベントを通し、意気投合し、急速に親しくなったBさん。話が合い、二人でいろんな所へ出掛けた。Bさんの主催するイベントを手伝ったこともある。Bさんのことはとても好きだった。しかし、ある日突然、決別することに。私が企画するイベントに、Bさんにも参加してもらおうとしていた時。話が盛り上がっていたのに、私がCさんにも参加をお願いしようと考えていると話した途端、雲行きが悪くなった。どんどん不機嫌になるBさんに、私は戸惑った。無理に参加してもらう必要も無いので、正直にそう伝えたところ、Bさんは、傷ついてしまった。また、やらかした私である。あんなに意気投合していたのに、簡単に関係が壊れてしまった。あの日のやり取り以来、Bさんとの接点は綺麗に消え去ってしまった。

私がこの一連の出来事で学んだのは、自分軸は、凶器にもなるという恐怖だった。仲良くしたい、大切にしたい方々が去っていく。不特定多数に、不快な思いをさせてしまう。私の思いは、どこか致命的にずれていて、意図せず誰かを傷つけてしまう。自分を信じられない。兎に角気をつけて、周りに配慮して、敏感にアンテナを立てて、自分の言動を律していかなければ。そう思い込んだ。そのせいか分からないが、やがて二回目の鬱病となり、自ら他人との接点を拒絶していった。ボランティアや地域活動で築き上げた100人近いネットワークは、脆く崩れ去った。人間関係が気持ち良いほど、クリアにリセットされた。

私は独りに戻った。不思議なのだが、ホッとしていた。ようやく自然な呼吸が出来るようになった。

結局、偽りの自分を演じて、いつも誰かの機嫌や都合に合わせて築き上げてきた人間関係など、砂上の城に過ぎない。100人の友達など、幻でしかない。いつ消えてもおかしくないものに、いかに依存して生きてきたか心底理解した。彼らは演技をしている私が必要なわけだから、その役割を放棄した私は不要になる。当たり前のことだ。この気づきは、とても清々しく、私は鬱病に救われたのだと感謝した。

roseさんの気付きによると

歌で、主旋律が自分軸で、まわりの高低音を他人軸と解釈する。周りに引っ張られ、主旋律から外れてしまうと、歌は不協和音となる。しかし、主旋律を見事に歌い上げるなら、まわりの高低音はハーモニーとなり、美しく調和する。(ハモる。♪)

自分軸とは、このようなものではないか?と話されていて、その気付きに私も感動した。

そうなんだ。

自分から外れていたから、調和できなかったのだ。私は主旋律を堂々と歌い上げれば良かったのだ。

人は、潜在意識ではみんな繋がっている。例えば何かの作業で数人が力を合わせる時、顕在意識優位となりいろいろ思考するとギクシャクするが、全員が集中しフロー状態になると、特に役割分担せずとも、必要な役割を自然に誰かがこなしていくので、見事に調和し、幸せな気持ちで作業を終えるそうだ。

人は、好きなことをやっている時、波動が上がり、自分に集中する。自我が消え、ひたすら没頭する。そこに立ち現れているのは宇宙と繋がる本質である。本質は、すべてと繋がる意識だなので、その状態で創り出すものは、調和する。

世間で言われていることは、全く反対だったのだ。「まわりに合わせなさい。」とは、思考を使い、自分を殺すこと。それは不調和しか生み出さない。誰かに都合が良くても誰かに不都合になる。全員が満足することは無い。

自分軸は、短絡的にわがままと捉えられるかもしれないが、実は調和には必須だった。この気づきに、思わず膝を打った。催眠療法で潜在意識について学んでいたおかげもあり、いろいろ繋がった瞬間だった。

五次元世界は、個性が大切にされる。皆が心からやりたいことをやって、全体が調和していく世界。皆が宇宙(本質の自分)と繋がり、唯一無二の自己表現をしていく。その生き方は、意図せずとも、誰かの幸せに繋がっていく。

私が経験してきた三次元世界は、個性が否定される。皆がやりたいことを我慢して、全体が不調和な世界。皆が宇宙から切り離され、本質に繋がれず、画一的価値観に添って没個性な生き方を選択していく。その生き方は、意図せずとも、誰かの不幸に繋がっていく。


100人の見せかけの友より

たった一人、真実の友がいればいい。

それだけで、もう、この人生は既に大成功だ。


その人と、仲良い時期があっても、互いの魂の学びは違う。離れることが自然な時もある。

別れる時期が来たら、感謝して、それぞれの道に分かれていく。

依存しない関係とは、それぞれが、独りでスクッと立っていること。

冷たいように感じるかもしれないが、実はとても健全だ。

誰も誰かを縛ることは出来ない。私たちは、自由だ。

それぞれが、違う課題を携えて、今を懸命に生きている。唯一無二の個性を表現している。

相手を尊重できれば、相手への怒りや不満は消えていく。相手の人生にエールを送り、私は私を生きていく。


魂と繋がって

本当にやりたいことを

本気でやっていくなら

何より、自分が幸せになり

意図しなくても

まわりが笑顔になっていく。

そんな美しい世界に生きてみたい。

みんなが、ニコニコしている

気持ちの良い世界で

思い切り、自分を出してみたい。

そのために、宇宙は個性を与えてくれたのだから。


ふと

シャンティマントラをくちずさんでいた。

すべてが至福になりますように··········


すべては、宇宙の流れのままに。


☆本質の私とは

「そのうちに、あきらめて私は死を覚悟しました。というよりも死を受容するしかなかったのです。死を受容したとたんに、まるで水の中でも呼吸ができるように、苦しくなくなりました。それと同時に、その池の中にいる自分を客観的に見ている自分がいることに気がつきました。

それまでの短い人生が走馬灯のようにめぐりました。形容しがたい安らぎと気持ちよさが訪れたとき、大いなる感謝が湧き起こり、私は光に包まれていました。

そして、その光の中には、すべての人たちがいました。不思議なことに、どこで誰がなにをしているのか、はっきりわかりました。

人だけでなくあらゆる存在たちがいました。」

『麻ことのはなし』中山康直 著 評言社 3~4頁より

中山さんが、子どもの頃、池で溺れ臨死体験をした時のエピソードを書かれていたので、紹介した。

これと似たような体験が私にもある。

死にやや近い体験をした。

二年前のことだ。肺の血管が詰まり、意識を失って、そのまま死んでもおかしくなかったのだが、奇跡的に詰まった何かが消えてしまったらしい。私は二週間入院した。

その間、私は始終穏やかに過ごしていた。絶対大丈夫という根拠のない自信があった。目に見えない世界からたくさんの愛のエネルギーを受け取っていた。私は愛されている!と、揺るがない気持ちに満たされ、大いなる感謝が溢れていた。

健康で、何事もなく日常を過ごしていた時は、絶えず不安感があり、愛を実感したことはなかった。欠乏を満たした一瞬だけ、愛のようなものを感じるが、すぐに次なる欠乏に目が移る繰り返しだった。自分を信頼することなど有り得なかった。

私は、死に直面した時に、エゴ(偽りの自己)が消えていた。残されたのは、魂そのもの、本質の自己である。人間は、死の危機に直面する時、命を優先するためにエゴを消すことがあるらしい。エゴは危機的状況では足手まといになるからだ。これは人間に備わった本能であろう。

本質は、前述の本の一節のように、感謝の気持ちに溢れ、すべての繋がりを実感している。宇宙源の意識、大いなるひとつに、必要があり戻されるのかもしれない。

この入院期間、精密検査のおかげで偶然乳ガンを指摘され、ステージⅡで患部を切除した。自覚症状は無かったので、発見が遅れていたら、いずれ、癌で死に至ったかもしれない。私は、生かされたのだと素直に思った。

肺塞栓症で倒れたのも、癌になったのも、療養のために退職したのも、不思議な本質体験を味わえたのも、そこから、人はなぜ生きるのか?目に見えない世界を学び始め、催眠療法に辿りついたのか。今、こうして日々魂をテーマにblogを書いているのか······

これが、宇宙の采配なのだと思う。

人は、必要なタイミングで、本質に出会い、本質を生きるようになっていく。

時期は人それぞれであり、意図して叶うものでもない。死にかけた人が全員、本質に目覚めるわけでもなさそうであり、どうぞ死にかけてくださいと、勧めるつもりもない。

確かな事は、人それぞれに、必要なことが必要なタイミングで起きる。これが宇宙の流れである。

☆宇宙の流れとは

宇宙の流れをお釈迦様は因果とおっしゃった。

生きる上で悩まされる心の働きを

お釈迦様は見つめていった。

自分と対話し、思考し、解決策を見つけ、行動する。その行動の結果は自ら引き受け、責任を持つ。

激しい修行をしても何も悟れないと理解したお釈迦様は、自分自身に向かっていったそうだ。

「これがある。それは、これがあるからだ。それにはこれがある。ある。ある。

それをずっと繰り返していく。

意識を広げれば広げるほど、小さくなっていく。

もうこれ以上進めないところに、点があった。

これが無い、だからこれも無い、無い、無い。逆を辿る。

次に、体内に意識を向ける。

細胞、分子、原子······

もうこれ以上小さくなると生命が存在しないという領域にも、意識を広げた先にあったものと同じ点があった。

お釈迦様が見て感じたものは、これだったのではないだろうか。」

YouTube 植原紘治×ひすいこたろう対談より植原さんの瞑想中の気付きを紹介

先日、とある神職さんに話を伺った時に、「宇宙根源は丸に点(○の中に✔️)ですよ。」と教えてくださった。

私という、この意識を、因果を辿り、拡大しても、縮小しても、行き着く先は、点であるようだ。

宇宙の点があるから、宇宙の流れ(因果)で、私という意識がある。そして、今、ここでblogを書いている。私が今、blogを書いていなければ、宇宙の点も無い。

なんだろう。この壮大な流れは。知恵熱が出そうだ。誰かと、この気付きをシェアしたいものだ。

今日のテーマ「調和」にヒントになるような気がして、追記した。

お釈迦様は、亡くなる前、弟子たちに、

「続けなさい。怠けるな。」とおっしゃったとか。

弟子に、瞑想し続けなさい。と言ったのかもしれないが、修行に専念できる僧侶より、世間で揉まれながら普通の人生を歩む方が、魂の学びは大きいと、聞いたこともある。お釈迦様が、続けなさい。とおっしゃった真意は

生きること

悩むこと、考えること、解決すること。

行動すること、そこに責任を負うこと。

悩みながら、私を見つめていくこと。

それを諦めないで続けなさい。

という意味ではないかな?

と、私は感じた。


悩んで考えて行動して

失敗したり傷ついたり

生きるのに疲れたら、休憩して

また、動きたくなったら、動いて。

そうして、宇宙は流れている。



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