魂からの言葉

 今、夜中の0時をまわった頃

先ほどまで、うとうとしていた。

断片的な夢を見ながら、半分覚醒していた。

そこに、スッと、ある言葉が差し出された。

これが、私の魂からの言葉なのだろうと思った。

何の脈絡もなく、私の意識に届けられたのは

「いろんな愛がある。」

という短いメッセージ。

シンプルで、じわじわ味わい深い言葉。

私たちは、愛というものを限定して捉えていたかもしれない。

優しく、あたたかく、美しく、安心できて、心地よいもの。

では、その反対のものは、何でできているのか?

現実は、幻想の世界だという。実体の無い幻であると。

私たちが、現実と思い込んでいるものが、舞台の書割のように、ある瞬間に崩れ去ったとしたら?

愛とは対極にあるような人物でも、彼の言動から、自分が何らかの気付きを得られたなら、その働きは、やはり愛である。

目に見える現象の背後にある真実は

いろんな愛

なのかもしれない。

これからは

目の前に起きる現実の背後に

どんな愛が隠されているのか

発見していく生き方が、面白いかもしれない。

そもそも現実は自分で作っているので

「わあ、今度はこうきたか。さて、私の魂さんは、今回、何を伝えたいのかな?」

そんな心意気で現実に向き合うと、今までのように、条件反射で感情に振り回されることは無くなるかもしれない。

そして、いろんな愛を発見して

「こんな愛の形もあるんだなあ。」

と、感謝するのだろう。

「ありがとう」の生き方になっていく。

だんだん、地球生活の味わい方が分かってきた気がする。

以下は、今読んでいる本から、この気付きにピッタリの記述があり、紹介したい。

「かつて私も、ものごとを全て善意に解釈する人間にあこがれた。善いことが起こればもちろん、たとえ悪いことが起こっても、全てを善意に解釈できる人がいる。彼らはどんなことも、善い目的のために起こってくるのだと固く信じている。そして、他人の中に悪意を見いだすことがない。それは私の理想であり、目標だった。

しかし、しばらくそんなことを念頭に置いて生きていくうちに、どんなに善意に解釈しようとしても、どうしてもできない場合があることを認めざるを得なかった。

次に私が心がけたのは、善いことは善い。悪いことは悪いという、正しい判断ができるようになりたいと思った。しかし、どんなに正しくものごとを見ようと思っても、われわれは常にどこかで過ちをおかしてしまう。人の言うことを、真の意味で正しく解釈することはできないし、自分が言うことも、そのままは伝わらない。見ること、聞くこと、話すこと、行うこと、全ては自分の色眼鏡を経た、自分なりのものでしかないのである。こうして常に、善いことと悪いことを正確に識別することができないことに気づく。

過ちをおかすのであれば、何事にも判断を下さないようにしよう。そうすれば、人を傷つけることにもならないだろう。本気でそう思ったが、しかし、それも難しいことが分かる。人はそれぞれ、自分の基準で他人を測り、判断を下すものである。

それについて、イエスはこう語っている。

裁かれたくないなら、人を裁くな。人を裁けば、それと同じように自分も裁かれ、人をはかれば、それと同じ秤で自分もはかられる。

なぜ、兄弟の目にあるわら屑を見て、自分の目にある梁に気をとめないのか。自分の目に梁があるのに、なぜ兄弟に向かって、君の目のわら屑を取らせてくれというのか。

偽善者よ。まず自分の目から梁を取り去れ。そうすればはっきり見えて、兄弟の目のわら屑も取ることができよう。

〈マタイ 7·1~5〉

イエスのこの言葉こそ真実であることは、しばしば経験することである。人はしばしば、他人を裁いては、自分の立場を悪くしている。だがそれでも、人はそれを続ける。それは、われわれに抗いがたく備わった性質であるかのようである。

まず、人はいずれにせよ、自分の意識レベルでしかものごとを捉えられないことを思い出すべきである。わけわれは結局、自分の意識でものごとを見る。自分のレベルで考え、想い、行動するのである。

こうして、われわれはまず、自らの意識を高め、拡大するために不断の努力をするべきだということが分かる。そのために、祈りや瞑想を始めとするさまざまな方法が指導されている。それをしないでいて、不幸を嘆いていても始まらない。

しかしそれでも、われわれは一気に完全になることはできない。完全になってから、全ての行動を開始するというわけにはいかないのである。だからいつも、ささやかながらも、ものごとは善意に解釈しようと心がけ、正しく解釈しようと心がけ、また、無責任な判断はしないように心がけるしかない。そうした後には、それこそ神に任す他はないのだと、私は思っている。」

『真実のサイババ』青山圭秀 著 三五館発行 252~254頁より

次に、光の瞑想を紹介する。

「ランプやろうそくに火を灯し、その炎をまっすぐ見つめなさい。

目を閉じた後で、その光を額から頭部に導きなさい。この光により、あなたは浄められる。

光を心臓に下ろしなさい。あなたのハートは蓮の花であり、光が近づくにつれ、その花弁が一枚、また一枚と開いていく。あらゆる想念が浄められ、悪い感情は追い出される。いま、ハートに暗闇の留まる場所はなくなった。

光はより大きく、より輝きを増して、体の他の部分を移動する。

光が手に移ると、もうその手で悪いことはできなくなる。

光が足に移ると、その足は愛の道具となる。

光を舌にもってきなさい。その舌は、正しいことだけを語る。

光を目に移しなさい。目は、善いものだけを見る。

光を耳に移しなさい。耳は、善いことだけを聞く。それらは、明るい、純粋な感覚のみを受け入れるようになる。

光は再び頭部に戻り、頭が光で充たされる。悪い想念は逃げ出してしまう。

光はますます輝きを増し、外に向かう。両親、親戚、友人、あなたの愛する者たちが、愛の光で充たされる。そして、敵や動物、植物、ありとあらゆる生き物、全世界が、光で充たされる。

形あるもの全ての中に、自分にあったその同じ光がある。

あなたは、光の中にある。光はあなたの中にある。あなたは光なのだ。

こうしてもはや、人はその体に限定されず、宇宙全体に広がる。自我を超えて、自分の光が宇宙の光であることを観ること、それが解脱に他ならない。」

同  201~202頁より















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