こだわらないこと

 今朝、玄米を80グラムを水に浸した。3時間後に鍋でお粥を炊いて、二回に分けて食べる予定。

玄米をタッパーから掬って、サラサラとボウルに移していたら、静かな幸福感に包まれた。玄米、一粒一粒が美しく感じて、感謝の気持ちが込み上げてきた。

人にとって、生きる上で、本当に必要なものはとてもシンプルだなあと、しみじみ感じた。

ふと、頭に浮かんできたのは

愛、感謝、役割

この三つ。

立派な家も、高価な衣服も、ほとんど必要ないのかも。

先ほど、仏陀についての動画を見ていて、袈裟のルーツを知った。糞掃衣(ふんぞうえ)というらしい。仏陀が屍体から剥ぎ取って、糞尿がついていた粗末な衣をつなぎ合わせて着ていたことからそう呼ばれたとか。仏陀は、屍体は既に脱け殻であると知っていたので、気にせず衣を頂戴したし、着られればいいと、何も拘りがなかった。

仏陀の悟りは、弟子に伝わり、仏教に受け継がれていく。しかし、ほとんどの教えは、後世に弟子たちに付け加えられたり曲げられたりしたものらしい。

仏陀のまわりには、悟りを理解する人は居なかった。仏陀は、あるがままを受け入れる心持ちになっていたので、何の拘りもなかった。自分が一番の理解者であると知っていたので、誰に理解されなくても構わなかった。心に誰も入れることなく、ある意味、孤独であった。

拘りがない。とは、あるがままを受け入れるということ。

人に教えたとしても、その教えをどう活かすかは、その人次第だし、人を変えることはできない。悟りとは、自分の内側にひたすら入り、静かで平和で、すべてが調和している心持ちになっていくこと。

悟りとはちょっと違うけれど、

『前世療法~宇宙編』に登場した私の前世であるミラさん(宇宙人)は、絵に描いたようなシンプルな生き方をしていた。

まず、私物を所有していない。自宅もない。(マシーンに入力していた建物は、皆が利用できる場所のイメージだった)

旅をして、情報を集め、入力していく役割についているため、身軽だ。着衣もあるにはあったが、着た切り雀のようだった。

それでも、肉体を持ち、軽やかに心豊かに生きていた。愛と感謝がエネルギーの循環を生み、必要なタイミングで必要なことが起き、必要なものがあれば、その都度もたらされる。それは奇跡でも何でもなく、宇宙では当たり前のことらしかった。

私は、今は地球上で物質偏重の価値観の中で、誰かにコントロールされ不足感をベースに生きている。それが普通の人間の姿だ。

でも、潜在意識につながる体験を重ねていくと、ふとした瞬間に、

このままで、十分に幸せ。

ということに気づく。

足りないものはない。満たされている私に気づく。

今、ここに、与えられているすべてに、ありがとう。という気持ち。その気持ちは愛のエネルギーとなり、私から溢れ、周りに循環していく。愛を送り、巡り巡って、また愛をいただく。

目の前の玄米も、ありがとうが循環して、今、私の目の前にある。私が食して、生きるエネルギーに変え、自分の役割をこなす行動に変化させ、誰かに愛を送る。その愛を受け取った誰かは、巡り巡り、次に愛を送り、野菜を育てる方まで届き、今度は人参や大根として、私の目の前に現れるかもしれない。私から出発した時よりさらに大きな愛になって。愛の循環は豊かさしか生まない。

「役割」の部分が、人それぞれということ。

物を作ったり、育てたり、運転したり、守ったり、癒したり、創作したり、無数の役割が愛の循環を作る。

あるがままを受け入れると、こだわらなくなる。

例えば、「成長すべき。」を手放し、今の自分のありのままを受け入れる気持ちになる。欠点も心の暗闇も。

成長を手放すと、不思議と人は成長するらしい。

例えば、「天命、天職」は、探せば探すほど、見つからない。そんな拘りを手放し、ただ目の前のことをコツコツやっていたら、臨終の時に「あれ?もしかして、これが天職だったのかな?」くらいに感じる。

「役割」もそうかも。私にはこんな使命があり、こんな役割が!なんて、ガチガチに身体に力を入れていたら、本来の役割が逃げていきそうだ。

何も力まず、自然にこなしてきたことが、実は人生で一番大切な行為だったりする。本人には当たり前すぎて、「え?これで良かったの?」と、思うような。そんな、小川のせせらぎのように流れる、ささやかなこと。でも、そんなことが、尊い。赤ちゃんの笑顔くらいパワーがある。

赤ちゃんが、これが私の役割だからと、拘って力んで笑ってたら、とても不自然。何の拘りのない笑顔だから、誰かの心をふんわり和ませる。

催眠療法の先生である萩原優医師の

今朝のblogを以下に紹介したい。

とてもほっこりする。


【そんなに力まなくても】

日々の生活でかっこたる信念を持って、

生きている人は幸せなんだと思う。

私は右に左に直ぐに影響を受けてしまう。

柔軟性があるといえば聞こえがいいが、

実は芯がないのだ。

浮き草の様に、右に左に漂っている。

これって、個性がない事なのだろうか。

信念がないことなのだろうか。

わからない。

でも、だから今更、信念を作らなければとか、

人間的に成長しなければ、とは思わない。

人は成長をしなくていいと思えると、

本当は成長するのだ、ともいわれる。

大切なのは、日々を穏やかに過ごせることでは、ないだろうか。

周りの人たちと自然に分かり合える関係を

保つことが最高だと思う。

自分のことはそれ程わからなくても

いいみたいだ。

人の気持ちはわからない、自分の気持ちさえ

わからない。

気が変わってもいいんだ。

その時に心地よさを感じられれば

それでいいようだ。


以上が萩原医師のblogでした。

先生は、昨日、久々にご自身が前世療法のクライアント役をなさって、中国のお坊様だった過去につながったらしい。

きっと、悟られていたんだろうなあ。

悟りとは、どんな心持ちなんだろう?

いろんなことに気づけたら素敵だけど

悟ろうと思ったら、きっと悟りから遠ざかる。

悟ってない自分だっていいじゃないか。

今、ここで、穏やかに幸せに生きていられるなら、私は、これでいいんだ。

そんなこと、気づかされた

素敵なblogの言葉でした。

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