嫌われた理由がわからない時に

 『サラとソロモン』エスター&ジェリー·ヒックス著

帯には、「君の幸せは、周りの状況で決まるものなの?」心が前向きになり、勇気と生きる元気をくれる物語。とある。

エイブラハムの引き寄せの法則を子どもでも理解しやすいように物語にした作品だ。エイブラハム関連の書籍は、図書館で借りてパラパラ読んでみたが、頭にすいすい入ってこない。私には難しいなあと敬遠していたが、上記の作品は、楽しく読めた。子ども心に帰れるのがいいのかも。目の前が明るくなるので、良かったら、一読を。

全編通じて、アンダーラインを引きたくなる珠玉の言葉満載なのだが、敢えて紹介するなら、こちらの文章かな。

「サラ、君が何がなんでも心の扉を開けたままにしておくことができるようになった時、なんとも言えない喜びを経験するだろう。みんな別々の経験を選び、さまざまなことを信じている。そして別々のことを望み、別々の行動をしている。君はただこの事実を認めて、そのことすべてが全体をもっと完璧なものにしているのであって、どんなことも君を脅かすことなどない、ということを理解すればいいんだ。君を脅かさない理由は、単に、君自身で自分の心の扉を開くか、閉じるかということだけが、君の現実を左右しているからなんだ。それを理解できた時、君の行動は、自由で喜びに満ちたものとなるんだ。」175頁抜粋

目の前に起きた現実を不快と捉え、心乱されるかどうか?今朝、早速実験できるチャンスがやってきた!

サラダを作っていて、YouTube動画を見ながら少々焦り気味に作業していた。卵を耐熱容器に入れ電子レンジで温めれば、ゆで卵作る手間が省けるというので、動画通りにやってみた。ら、バーンと破裂音。レンジ庫内が、破裂した卵でワチャワチャになっていた。(T0T)急いでいるのに~。イライラしながら、庫内を掃除。悪いことは連鎖する。洗い桶を床に落としてうるさい音を立てるわ、すり胡麻の袋を開けようとして変に破れて開かないわ。ぎゃ~っ。いつもやらないミスばかり。イライラする~っ。もう、最悪!さて、このまま気持ちを切り替えなければ、私は一日、負の連鎖を引き寄せていっただろう。何をやっても腹が立ち、罪のない夫に八つ当たりしたかもしれない。

しかし、昨日まで、『サラとソロモン』を読んでいたので、そうだ!実験してみよう!と思いついた。

宇宙から流れてきている、❬幸せの流れ❭につながる意図をする。自分が、嫌な気持ちになっている時、私たちは、この宇宙からの幸せの流れを遮断している。流れにつながるだけで、私たちは自分の本質である幸せな状態に戻ることができる。私たちの本質は、宇宙エネルギーそのものだ。なぜなら、そこからやってきたから。同質なので、心地よく感じる。自分が心地よいかどうかで、幸せの流れにつながっているかどうか判断できる。

宇宙エネルギー=幸せの流れ=気功エネルギー

だと理解している。私は、気功エネルギーヒーリングを習っているので、宇宙につながり、エネルギーをイメージしながら登頂アンテナを通し、胸の魂の位置に流し込む。静かで穏やかで安心できてだんだん幸せ~な感覚になってくる。時には、ワクワク感が出てくる。私、なぜか、元気になってる!と実感できてくる。宇宙エネルギーは、場所を選ばず、至るところに降り注いでいる。無尽蔵のエネルギーだ。意図するだけで利用可能なので、どんどん使うとよい。

さて、幸せの流れにつながると、意図するとどうなるか?

あらあら、卵、破裂しちゃった。600W2分じゃ、長過ぎることが分かった。次は短めにすれば成功だね。電子レンジさん、きっと、久々に中を掃除してもらいたかったんだね。ほら、綺麗になったよ。気持ちいいね~。掃除するいい機会になったね。良かった良かった。洗い桶さん、宙を飛んで、ダンス好きね。お茶目ね。すり胡麻の袋を開ける時は、次はハサミ使おうね、綺麗に切れて気持ちいいものね。次はどうすればいか分かった!すべてうまくいっている。すべては完璧な流れになっている。

そもそも、イライラの原因は?自分の中を覗き込む。何事も手早く短時間でこなすべき。というマインドがあることが分かった。ゆっくり時間かけてもいいんだよ。家事を楽しんでもいいんだよ。と自分を許す。

朝から、有意義な時間だったなあ。と、すっかり機嫌を直したところで、ふと、思い出したことがあった。

皆さんは、理由もわからないのに、他人に嫌われたこと、ありませんか?あまりにも理不尽だ!と、相手を恨んでみたり、自分の何が悪かったのか反省しすぎて、自分を過剰に責めてみたり。何れにしても、不快だ。幸せの流れを遮断してしまっている。心当たりがないのに他人に嫌われてしまった時について、書いてみたい。

私は、一時期、地域活動に熱中していた。地域のイベントに参加したり、情報発信したり、楽しんでいた。とある資料館で顔を合わせた人物が、自治体のキーマンで、たまにアドバイスをいただいたり、イベントで顔を合わせれば陽気に挨拶する仲になっていた。仲が特別によいわけでもないが、尊敬する人物だった。しかし、ある日を境に、顔を合わせても、冷たく無視されるようになった。私、何かやらかした?相手は立場が上の方であり、直接問いただす勇気はなく、一人、悶々とした。あの日のあの問い合わせがいけなかったのか。失礼だったか。反省はすれど、こちらには一切悪気はない。理由はよくわからないが、私はひどく嫌われているらしい。もしかしたら、でしゃばって、変に目立って、鼻についたのかもしれない。踏み込んではいけないエリアを侵食したかもしれないが、よくわからないものはわからない。嫌われるのは悲しかったが、仕方なかった。その人物と席を一緒にする機会が訪れる度に、身を縮め、息を潜め、存在を消すようにビクビク立ち回った。よく考えれば、私は悪くないはずなのに、自らものすごい悪者気分に成り下がっていた。つまり、自分を信頼できず、外の評価に左右され、勝手に気まずくなっていたのである。

嫌われて7年近く経過しただろうか?私が退職することになり、知人と最後に飲む機会があった。帰りが遅くなり、知人は気にしてくれて、家まで車で送ってくれると言い張った。その運転手が、例の、私を大嫌いな人物だった。いや、無理でしょ。あの方は私を嫌ってるし、絶対嫌がるでしょ。車に乗せるのが私だと知ったら、怒るにちがいない。何度も断ったが、知人はのほほんとして、聞き入れない。ふと、心境が変化した。その人物の車に乗ってみよう。もう会う機会もないだろうから、これは和解の最後のチャンスだ。そもそも、私は、彼に対し、一切悪気はないのだ。むしろ尊敬してきたのだ。堂々としていればよいのだ。最後に神様が、チャンスを与えてくれたような気がした。

さて、その人物が運転する車に乗せてもらったが、空気がピンと張り詰め、会話が出てこない。ああ、後悔。私は、やけくそ気味で、思い付く限り、一人で何かをしゃべった。舞台で滑り続けるお笑い芸人の心境だった。

無言だった彼が、急にしゃべりかけてきた。近所にできたばかりの相撲部屋の前を、わざわざ遠回りして案内してくれたことがその時分かった。ああ、彼は、心底、この地域を愛し、自治体を運営する大変な立場ではありながら、生涯を捧げ、楽しんでいるのだなと分かった。彼の人となりがすうっと私の中に入り込んできて、やはり、この人のこと、嫌いじゃないなあと素直に思えた。彼の様々な地域での働きに、あらためて心から感謝した。数年振りに昔の気さくな彼が戻ってきて、短い会話をした。5分ほどだったけど、嬉しくて泣きそうになった。もう、彼に会うことはないだろうが、最後の最後に、不思議な偶然で私たちは和解をした。

おそらく、これは、私が自分と和解した瞬間でもあった。

この一連の出来事を『サラとソロモン』の教えに照らし合わせて理解してみる。

まず、突然嫌われたこと。これは、彼の行動と選択の自由である。何か他の出来事でイライラして、たまたま私に当たったのかもしれない。私の何かに過剰反応したのかもしれないが、彼は私を鏡にして、自分の問題と向き合ったのだ。彼の中のわだかまりは、何か、うまくいかない現実への苛立ちを私に投影していたかもしれず、それは全て、彼の自由だ。私は、人それぞれに自由があると、まず認めることが大切だった。私は、それを受け入れられず、ずっと抵抗していた。彼と会う度に、心の扉を閉じてしまい、幸せの流れを遮断していた。

最後の仲直りの日。私は、無意識に心の扉を開いた。幸せの流れにつながった。瞬間、私の作る現実は、私にとって心地よいものに変化した。

私には、ひとつの課題があった。正義感から、なかなか人を許せない性格だった。特に、理不尽なことをされた時、私は徹底的に相手を嫌い、無視した。許す気は100%なかったから、周りで見ている職場の仲間たちにはどれほど嫌な思いをさせてきたことだろう。二度と話せなくなった元同僚は数人いる。ただ、落とし穴は、正義は人それぞれであり、真実にはほど遠い不確かなものであることだ。私は、柔軟さを学ぶ必要があった。

今回の件は、おそらく、反対の立場になって自分の姿をよく見るための体験だったのだろうと思う。理由もわからないまま、許されない自分をずっと感じてきたことで、人それぞれでよいという自由を認めて、人を許すことを学ぶ機会だったのだ。私の鏡役に徹してくれた彼には、感謝しかない。人と人のご縁とは、不思議なものだ。

そう考えると、不快と感じる対象を深堀すると、より自分の姿が見えてくるように思う。幸せの流れにつながり、心地よい現実を引き寄せて生きていくことも心がけた上で

こういうことを私は不快に感じるんだなあ。それは何故だろうか。○○すべきというマインドがあるなあ。これはもう不要だから手放そう。

という行為にもつながり、不快感は、歓迎すべきメッセージなのかもしれない。

宇宙には、陰陽の法則がある。ポジティブもネガティブも半々。光り闇も半々。表裏一体で、どちらも必要。どちらもあってよいのだ。私たちがこの地球で生きる意味は、体験を通し、自分が何者かを知る。ということであるならば、幸せの流れを時には遮断して、窮境と生きてしまう私たちも、それはそれで、ありなんだなあと思った。





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