お墓はどこにある①
3月8日
ようやく、市役所から除籍謄本第二弾が郵送されてきた。2週間くらいかかった。
今回は、前回取得したものを遡って、もう一つ古いものを請求していた。今回届いたものを見て、△県『〇〇〇町史』に記載されていた内容を公の証明書で確認することができた。そして、さらに詳しいことがいろいろ分かってきた。
〇古い戸籍で判明したこと。
・曾祖父の父母の名前(=江戸時代生まれの高祖父母)
・曾祖父が再婚であったこと
・曾祖父の兄も入植の年明治30年に廃嫡していること
・曾祖父の三男(私の祖父の弟)が幼くして亡くなっていたこと
・曾祖父の弟が、明治44年に北海道△△村へ分家により転籍していたこと。
その際、高祖父母も一緒に△△村へ連れていったらしいこと
既に気分は名探偵コナンだ。
〇曾祖父は遊び人だった?という誤解
曾祖父が再婚だったことで、一つの謎が解けた。
前回届いていた戸籍を見ると、明治34年に長男が生まれているのだが、婚姻はせず認知だけ届出していた。そして、明治37年に、二男(私の祖父)が生まれ、同日、ようやく婚姻届を出していた。
彼女を孕ませて、結婚したくないから認知だけという遊びが過ぎる男だったのかな?と想像していたのだが、そうではなかった。明治32年に前妻と協議離婚をしているので、二股をかけていたわけではない。結婚生活が破綻しているので、なかなか再婚に踏み切れなかったのだろう。二人目が出来てようやく踏ん切りがついたのかもしれない。当時、曾祖父は32歳である。いろんな恋愛模様があったことだろう。
婚姻の前年明治36年には、屯田兵現役満期となり、5町歩の土地が支給されている。ところが、養う家族はあまりにも人数が多かった。弟などは、分家して独り立ちする年齢に達しており、曾祖父も戸主として襟を正さなければならない状況だったのだろう。
そして、婚姻届の一か月前に、日露戦争が開戦している。世の中の空気が不安に満ちていたことだろう。大切な家族をどのように守っていけばよいのか、真剣に考えていた頃だろうと思う。8月には、召集を受け北韓の地へ駆り出されている。生まれたばかりの次男はまだ5か月の乳飲み子である。当時の曾祖父や家族の心境を想像すると、どれだけ悲痛な思いを抱えていたことだろうと思う。
〇弟の転籍先地名に導かれる
明治44年に弟が父母と我が子を引き連れて転籍しているのだが、その地名が興味深かった。まず、昔の戸籍なので、文字が手書きで、あまりに癖が強くて読みにくかった。ああでもないこうでもないと、推察できる漢字を当てはめてネット検索していたところ、ようやく解読することが出来た。まるでヒエログリフを解読する考古学者の心境だ。
その地名が「北海道常呂郡野付牛村大字生顔常村オンネナイ原野」と書いてあるのだ。アイヌ語の発音を漢字で無理やり表記するから、とてもユニークだ。
野付牛⇒ヌプ・ウン・ケシ =野の端の意
生顔常⇒モイコツネイ(モエカヲツネ)=意味不明
オンネナイ =長じている・川の意
生顔常など、読めないし、珍しすぎて、「ん?」となる。崩れた癖字から解読できた自分を褒めたい。
ようやく生顔常村と判明したので、現在地を調べた。北見市留辺蕊町に当たるらしい。北見市立図書館(すご~くお世話になっている)のHPで資料検索をしてみると、『留辺蕊町史』昭和39年発行 が見つかった。もしやと思い、国会図書館デジタルコレクションで探してみたところ、ネットで閲覧可能な本だった。自宅にいながら、読んでみる。
〇予想しなかった兄の活躍
なぜ、弟が家族を引き連れてオンネナイへ転籍したのか、とてもよく理由が分かる記述があったので、抜粋する。腑に落ちてとてもスッキリした。
「明治36年4月1日付で後備役に編入された屯田兵は、屯田系自治機構廃止と同時に、名実ともに野付牛ほか一カ村戸長役場の行政下に入った訳である。
ここで着眼したのが、留辺蕊市街の西端1号線から湯根湯14号線におよぶオンネナイ原野一帯の地である。(中略)その許可に接したのは明治36年の春で、屯田の現役満期と時を同じくしたのであった。許可を受けた人々は翌37年、いっせいにオンネナイ原野に入地する計画をたてたが、日露戦争の勃発により一時これを中止(中略)明治37年8月4日、旧屯田戸主全員にわたり充員招集の命をうけた。一村こぞっての応召出征、送る者送られる者の当時の悲壮な情景は、生涯を通じての深刻な印象であったと古老は語っている。(中略)38年12月(北韓軍)39年3月(満州軍)に属した者は意外に早く招集解除となり、それぞれに肉親の待つ家郷に落ち着いた。こうして相内農村は生気を取り戻し、次第に農村として堅実味を加えるとともに、数年前から懸案だった新開拓地進出が実行された。
オンネナイ原野には二十余戸の開拓移民が入地した。したがって1号線以西の穀倉武華原野の開拓は一に隣村相内村に入植した屯田戸主および家族によるものである。なお明治39年以降、農耕移住者に引き続きこれら屯田入植者の係類で、本町に移住定着した顔ぶれを見ると、各種職域を通じて約50戸におよび、いずれも本町開拓の先駆者として活躍した人たちであるが、その多くは本町に骨を埋めている。屯田係類の入町者氏名を列記した。」『留辺蕊町史』より
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兄が北海道入植後にどのような人生を送ったのか、よく分かっていなかった。『相内村史』の方ではあまり情報が無かった。戸主である曾祖父の記述はいくつも見つかっていたのだが、兄は目立たない存在だった。戸主を立ててひっそりと余生を送ったのかな?と勝手に想像していたのだが、全然違った。ステージを相内からオンネナイに変えて、大活躍していたのだった。曾祖父兄弟は、二人とも北海道開拓の最前線で先駆者として名を刻まれるようなヒーローだったのだと思うと胸が熱くなる。
昔の温泉街の地図と、現在のグーグルアースで照らし合わせてみた。兄の旅館が建っていた場所は、売却後しばらくは老舗温泉旅館の別館として利用され、現在は更地となって駐車場利用されていた。
ここで、私は大きな勘違いをしていたことに気が付いた。
新たな戸籍が郵送されてくるまで、曾祖父の両親を、故郷の△県に置き去りにしたまま入植したのだ思い込んでいた。『相内村史』には、曾祖父兄弟の二人の記述しか残っておらず、同行の家族について触れられていなかったからである。規則上は、5人まで同行可能だったので、よく考えれば一緒に連れて来ていてもおかしくないのだ。
先日、『〇〇〇町史』を読んで、江戸時代の手次寺が判明したので、その寺に高祖父母の墓が無いかどうか手紙で問い合わせようと思っていた矢先だった。
一緒に北海道へ来ていた。そうか。兄弟3名と父母で確かに合計5名となる。辻褄が合う。
と言うことは、規則上の人数制限で同行させられないから、兄は妻と離別せざるを得なかったのかもしれない。当時は遠距離婚など難しかっただろうし、二度と故郷の土は踏まないという覚悟で旅立ったのだろう。夫婦よく話し合った末、互いに別々の道を進む結論に達したのだろうか。ああ、ここに兄家族のドラマが見え隠れしている。
相内の本家(曾祖父の長男の長男が住んでいる)に聞けばすぐ分かったのだろうが、残念なことにかなり高齢となっており、認知症で会話が不可能となってしまった。本家の墓は既に墓じまいされている。引き継げる息子がいなかったので割り切ったのだろう。時既に遅しである。早めにいろいろ聞いておけばよかった。こういう事って、自分の親が亡くなって初めて興味を持つようになるものだ。いつか家系図を整理したいと思いつつ、行動を起こせなかった自分が悔やまれる。まあ、何事もタイミングというものがある。私が祖先のことを知りたいと思うタイミングが、今だったということ。
もしや、温根湯の方に高祖父母の墓が残されていやしないだろうか?
高祖父母は明治44年に三男に連れられて、現、留辺蕊町の開拓の原野にやってきているのだ。大正2年から同じ町内の温根湯で宿を営んだ長男(つまり曾祖父の兄)が父母を引き取ったと見てもよいかもしれない。
温根湯温泉沿革には、兄について「〇〇旅館を開業、その後時代の情勢に順応した施設を拡充し、大正9年には旭川第七師団転地療養所として指定を受け、延べ4万5千人の傷病兵が療養した。」と『留辺蕊町史』に記載がある。息子の代で経営が難しくなって旅館を手放すこととなるが、高祖父母を養っていた頃は安定した生活を送っていたことだろう。
グーグルアースで、温根湯を上空から眺めていたところ、我が家と同じ宗派の寺が一件だけこの温泉街に存在していた。
もしかしたら、ここにお墓があるんじゃないだろうか?
さて、ここからどう動いていったらよいだろうか。
上述の内容は、たった一日で判明している。曾祖父に思いを馳せていると(寝ても覚めても曾祖父のことを考えている・・・)曾祖父の魂と意識がつながるのだろうか?
何だか、導かれているような気がしてならない。
今回の家系図づくり&伝記執筆の目標地点は、高祖父母の墓参りでもある。
さて、私は無事にゴールにたどり着くだろうか?
☆父の四十九日法要と「白骨の章」
2024年3月10日(日)
無事、父の四十九日法要を執り行うことが出来た。
自宅に来てくれたD寺住職は、お経の他に、蓮如の御文「白骨の章」を唱えてくださった。
この章は、10年ほど前に、図書館の仕事を介して深く関わったことがあったので思い出がよみがえった。まさか、父の四十九日に「白骨の章」を再び味わうことになるとは思いも寄らなかった。
とある車椅子利用のご老人からのリクエストで、何度もこの本をご自宅に届けに行った。また、この章をカセットテープに録音したもの(音読ボランティアさんが吹き込んでくれた)をお渡しに行った。彼は、この本を一人で読む(聞く)というよりは、この内容について誰かと語り合いたかったのだろう。しかし、未成熟な私は、どこかで分かっていながら意図的に気持ちを汲んであげなかった。彼は時々「死」を口にしていたので、どう接したらよいのか分からなかった。怖かったのかもしれない。私は「生」の方に意識を向けて欲しいと、的外れな対応ばかりしていたと思う。「死」にまともに向き合う勇気が無かったのだ。
今、10年経過し、自分の大きな病気や、父の葬儀を経験し、ようやく蓮如の言葉を抵抗なく味わえる心境になってきた。「死」について語ることは、大切なことであり、また健全なことなのだと今なら理解できる。
信仰うんぬんではなく、ただ純粋に、古の言葉を音楽のように味わいつつ「白骨となれる身なり」のこの私が、呼吸を「吸って よかった 吐いて ありがとう」の心持でこの瞬間、今を輝かせていけたらと願う。
〇「白骨の章」
【全文】
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、本の雫・末の露よりも繁しといえり。
されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二の眼たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ あなかしこ
【現代語訳】
「さて、水辺に浮かぶ根なし草のように頼りになるものの何もない、私たち人間の姿をよくよく見つめてみると、色々考えて合わせてみても、この世の始めから終わりまで、夢幻のように儚い一生である。
だからいまだ千年万年生きている人を聞いたことがない。
一生はあっという間に過ぎ去ってしまう。
今日まで誰が100年200年も生きたという人がいただろうか。
死と聞くと、みんな他人のことだと思って自分のことと思っていませんが、死ぬのは他人事ではありませんよ、私が先ですよ。
それは今日かも知れない、明日かも知れない。
後から死ぬ人、先立って死ぬ人は、雨の日に木の幹を流れ落ちる雫や、枝の葉よりしたたり落ちる露よりも激しく人は死んで行く。
だから、朝、元気に「いってきまーす」と出ていったのに、夕方には変わり果てた姿になって帰ってくる人の身なのである。
一度無常の風に吹かれたならば、2つのまなこはすぐに閉じてしまい、最後の一息は永久に途絶えて、微動だにもしなくなってしまう。
血色のよかった顔色も失われてすっかり白くなってしまい、父母や妻子が遺体に取りすがって「なんで死んじゃったのー、もう一度目をあけてー、お話ししてー」といくら泣き叫んでも、もう二度と返らない。
永遠の別れとなってしまう。
いつまでもそのままにしておけないので、野辺送りにして火葬にすれば、夜中に立ち上る一条の煙となり、ただ白骨だけが残される。
あれだけ必死にかき集めたお金も財産も何一つ持って行くことはできない。
これでは一体何の為の人生であったのか。
人はこれを哀れというが、むしろおかしなことではないか。
人生を最後まで見通すとこういうことになるのである。
私たち人間のはかない命は、いつ死ぬか分からないのだから、これに関係がない人はありませんよ。あなたも早くこの100%直面する後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏の本願に救われ、その喜びからお礼の念仏を称えずにおれない身になりなさい」
【解説】
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」とは、朝、「いってきまーす」と元気に出掛けていった者が、夜には変わり果てた姿となって帰ってくることもあるということです。
そんな人が、朝、今日が最後の日だと思って洗顔しているかというと、そうではありません。
みんな、私たちと同じように思っています。
そんな今日死ぬと思っていない人が死んでゆくのだということです。
お釈迦さまはこれを「出息入息 不待命終」と教えられています。
これは、出る息は入る息を待たずして命終わると読みます。
死と聞くと、まだまだ20年も30年も先のことだと思います。
しかし、命はいつ終わるとも知れません。
息を吸った時、何かの拍子で息を吐くことができなかったら、もうその時が、後生です。
息を吐いたとき、何かの拍子で息を吸うことができなかった時が、もう後生なのです。
後生は、吸う息吐く息に触れ合っているということです。
死はいつやってくるか分かりません。
今に触れ合う問題が死なのです。
(日本仏教学院HP 浄土真宗入門講座 白骨の章の意味より抜粋)
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