お墓はどこにある②~種の発芽

 お墓はどこにある①の後日談である。

☆種まきの面白さ

日々、ちょっとずつ何かが分かってくるので面白い。

これは、まるで種まきのようなものだと思う。地面に種を蒔いておけば、天気や季節の影響を受けながらも、その種のベストなタイミングで発芽する。せっかく種まきしたのに、芽が出ない・・・と嘆くようなことも人生には起こることだろう。しかし、目に見えないが地面の下では、種が冬眠しつつ春を待っているかもしれないし、稲妻(衝撃的出来事)の到来を待って一気にエネルギー変換しようと待機しているのかもしれない。

何も起こっていないように見えて、潜象界(すべての現象の源の世界=陰=ない)から現象界(目に見える=陽=ある)への移行は、この次元ではタイムラグがあるように感じる。何がどう影響して目に見える現象として展開するのか、思考では計り知れないのが、この世界の醍醐味である。分からないから楽しめる。

とかなんとか、分かりにくく書いてしまったが、簡単に言うと、この世界では、行動(種まき)が大切!と言う気づきがあったということ。

種まきが、いつ芽を出すか分からない。明日かもしれないし10年後かもしれない。これはすご~く面白い体験ではないか。感動はここから生まれる。感情をめいっぱい味わいたいなら、行動は必須である。

もちろん何もしない(種まきしない)も、一つの選択であり、傍観することが望む結果を招くこともある。何をしてもしなくてもいい。宇宙から見れば良い悪いは無い。すべてが大切な体験だ。結局は私たち(本質)が体験したいように現実はVR映写されている。

私は、この1か月半の間に、閃きに従って種まきをしてきた。「おぉ・・ここで、こんな芽が出るのか!」という発見の連続であった。そして自宅に居ながらも、距離を越えて、人の縁がつながっていった。「おしえて!」と発信すれば助けてくれる人が現れる。今まで存在すら知らなかった人物や土地が一気に身近になってくる。

この感覚をどのように表現したら伝わりやすいだろうか。私の肉体を構成し、生かしてくれている一つ一つの細胞を再発見した!という感じだろうか。元々、そこに在って命を形づくってくれていたからこそ「私」という自我が55年間もオリジナルの体験を実現することが出来ていた。その事実は変わらない。

再発見とは、「そうだったのか!」と気づくこと。元々は全体であったことを思い出すということ。宇宙のたったひとつの意識が、「わたし」を知りたくて、分離して光や愛の対極を生み出したこと。「そうだったのか!」の気づきを積み重ねることで、分かれてはひとつに戻っていく旅を永遠に続けているのがこの意識の正体である。


☆3月19日

曾祖父の兄が活躍していた地域の図書館へ、メールでレファレンスを依頼していた。兄が町の郷土資料に掲載されていたので、きっと他の資料にも載っている可能性があったからだ。メールを発信してから一週間、何の音沙汰もなかった。まあ、返信が無いということはご縁が無かったのだろうと、9割くらいは諦めていたのだが、図書館側はしっかり調査を進めてくれていた。水面下では何が起こっているのか私の小さな頭では何も分からないものだ。池に小石を投げ入れれば、必ず波紋は起こっているのである。それがどんなに小さな石粒であったとしても。バタフライ効果というものもある。

図書館から返信

「レファレンスいただいています件について、お時間がかかっております。申し訳ございません。当館で所蔵しています資料の中で、●●〇〇 氏の自分史があります。今も温根湯に現存する●●精肉店を開業された方の奥様の手記です。中を拝見しますと、ご親戚ではないかと思いますが、もう少し読み込んでみてからの回答とさせてください。他の業務等が立て込んでおり、しっかり調べ切れていないので、もう少しお時間を頂きたいと思います。すでに1週間が過ぎておりますので、途中経過としてメールいたします。いま、確認できています資料は、・・・」

父方の苗字●●は珍しいから、きっと自分史を書かれた人物は曾祖父の家系から分家した一族の子孫だろうと思われる。まさか、自分史を書かれて図書館に所蔵されているとは予想もしていなかった。この本は相互貸借が可能なら取り寄せて実際に読んでみたい。北海道から取り寄せた除籍謄本の中に、●●精肉店創業者の名が記されているかもしれない。ああ楽しみだ。事実は一気に分からなくとも、少しずつ姿を見せてくれる。このゆっくりさ加減がコトコト煮込まれ滋味スープとなっていくのだろう。いずれ、●●精肉店に手紙を出してみてもいいかもしれない。

☆3月20日(春分)

・本家の娘さんより電話あり。(前回投稿『春分の祈り合わせ』参照)

・図書館からメールあり。

△県〇〇〇町のある市立図書館に、江戸時代からの手次寺の『宗門人別帳』について3月7日に調査を依頼していた。江戸時代からの先祖の名前が記されている貴重な資料だ。手次寺に直接依頼しても断られる可能性大だったので、まずは図書館資料の中に研究したものがあるかどうか聞いてみたかった。その市立図書館は、△県立図書館にまで協力をお願いしてくれて膨大な量の郷土資料を実際に手で捲ってくださった。残念ながら●●家の手次寺の『宗門人別帳』に関係する資料は見つからなかったと連絡がきた。結果見つからなかったわけだが、調査してくれた文献のタイトル量を見ただけで、ありがたくて涙が出た。

この日、空に太い柱のような虹が見られた。

☆3月21日

曾祖父の生まれ故郷である△県〇〇〇町の電話帳を調べ、●●苗字の一件に手紙を出していたところ、奥様から3月13日にお電話をいただいた。(投稿『127年の空白』3月14日参照)

その奥様からまたメールが届いた。

「その後、何か進展ありましたか?主人の兄が少し関係ありそうなことを知っていました。そちらの電話番号を教えてもいいですか?直接、話してもらう方がいいと思います。」

親切にもずっと気にしてくれていたらしい。そしてご主人様の兄という方からお電話をいただいた。この兄H氏は50年前に実家を飛び出して関東に居を構えてはいるがお盆には帰省しているとのこと。お母さまから聞いた先祖の話などを私に教えてくださった。それによると

・明治5年壬申戸籍に掲載されている●●苗字は3件あった。そのうち1件は私の高祖父の名前であった。もう一件の方が彼の直接の先祖である。戸籍では辿れないが、おそらくこの3件のルーツは元々同じなのではないか。先祖が△県に来る前はどこから来たのかは不明。

・(私が送った)手紙に添付されていた曾祖父兄弟の写真を見て、H氏はたいそう驚いた。H氏実家の仏壇の上に飾ってある親や祖父たちの写真と顔立ちがそっくりだったからだ。これが血筋というもの。顔を見れば、皆、どことなく似ている。

・現在△県〇〇〇町にはもう一件●●の本家が残っているが、5代前に子どもが生まれず養子を入れているため、本家ではあるが本来の血筋ではなくなっている。(顔が違う)

・ずいぶん前にH氏の母のところに、北海道から男女が訪ねてきて、家系のことをいろいろ調べていった。そこで初めて、明治期に北海道へ入植した親戚がいたらしいことを知った。(その男女はおそらく北海道の私の本家夫妻ではないかと思う。同じようにルーツ調べをしていたのだ!残念ながら、その調査内容を後世に伝えずに高齢のため意思の疎通がままならなくなってしまった・・・。)

・〇〇〇町内の昔からの一族の墓所に行けば、墓石に墓誌が刻まれているので何か分かるかもしれない。H氏は毎年お盆に帰省するので、「よかったらご一緒しませんか?」とのこと。

・H氏は東京の隣の県に住んで年金暮らしをしている。私の利用している駅から快速で一本で気軽に行ける。「今後も連絡を取り合って、情報交換したい。一度会いましょう」と誘ってくださる。何と嬉しい展開。

電話を切ってから、早速、間を取り持ってくれた奥様の方にお礼のメールを送った。すると、思いがけない返信が。

「お役に立てて何よりです。このメールで写真を送ることはできますか?先日、お彼岸にお墓に行って写真を撮ってきたのですが、今まで一度も意識してみたことのないところに古いお墓がありまして。それが関係あるかもしれません。我が家の墓碑銘と本家のところの墓碑銘も写真撮ってきました。ご覧になりますか?古いお墓は、雨風で傷んでいるので読みにくいですが、「●●」の文字はよめました。」

ええ~っ!?

もうひとつ、お墓が見つかったの?

なんだろう、この流れは・・・・。


☆3月22日(父の月命日)

翌朝、送っていただいた墓石の写真をじっくり確認した。

小さな古びた墓石である。普段から墓参している奥様が今まで気づかなかったと言うくらいなので、藪の中に埋もれてでもいたのだろうか。私が手紙を出したことがきっかけで、意識してあたりを探してくれたのだろう。もう〇〇〇町の誰もその墓石に手を合わせる人はいないようなので、だいぶ前に途絶えた分家のひとつなのか。

墓石正面に「●●」と苗字が大きく彫られている。側面の墓誌はかなり痛んでいて判読が難しい。「明治三十六年三月・・・」「俗名 ●・・・」だけは何とか解読。肝心のお墓に入っている人物の名前が分からない。

曾祖父一家5名は明治30年に北海道へ移住している。明治36年に墓を建立しているなら、残留組の誰かということになる。あらためて、△県から取り寄せた除籍謄本を眺めてみる。明治30年に曾祖父の弟(高祖父の六男)が分家している。もし、この弟が後年も渡道することなく村に留まり続けていたなら、分家して初めて建立した墓なのかもしれない。高祖父の父方の墓が古びてしまったか、または今まで墓石をつくっていなかったか。(江戸時代に庶民に墓石はなかったという通説がある)

高祖父以降は渡道しているので、〇〇〇町の墓所に埋葬されているのは、それより前の先祖たちである。6代前ということ。明治期はじめころに亡くなっているだろうから、農民の墓は土饅頭がせいぜい。だから、墓石にこだわる必要はなく、土に還っているのであるから大地に向かって手を合わせればいい。

それにしても、このタイミングで再発見された、この可愛らしい墓石はいったい誰のなんだろう。私に何か伝えたいことでもあるのだろうか。

今思いつくことで、種まきしておくことにした。

まず、△県の市役所に分家した弟の方の除籍謄本を郵送依頼してみることにした。明治30年に分家した弟は、私の直系ではないので原則、戸籍を請求することは出来ない。後は、疎明資料でなぜ、この戸籍が必要なのかを説明し、理解してもらうしかない。「古い墓石が誰のものか特定するため」という事情が果たして通用するものなのか。断られる可能性大である。しかし、やってみないことには分からない。万が一、故郷に残留した弟の墓であれば、曾祖父の大切な家族である。そのあたりの事情を手紙にしたため、墓石の写真や今まで集めた戸籍、郷土資料をコピーしたもの、系図などを同封し送ってみた。さて、何か分かるだろうか。未知数だからドキドキする。

合わせて、△県の江戸時代からの手次寺(投稿『電話帳は役に立つ』3月7日参照)に勢いで手紙を書いた。

あれから、ずっとグズグズして結局手紙を出せていなかった。個人情報でもあるし、忙しい中で古い資料を調べていただくのも申し訳ない。高額なお布施を出す必要があるなら、厳しいというのも本音だった。しがないパート暮らしであるから、出来れば経費は押さえたい。

しかし、頼みの綱の図書館から該当資料無しの連絡をいただき、立て続けに謎の墓石が発見された流れ上、確かな情報が眠っているのは手次寺だけである。一か八かだ。やらない後悔よりやった後悔の方がまだましだ。経過に簡単に触れ、「先祖のことを知りたいという理由で宗門人別帳や過去帳などを調べていただくことは可能でしょうか。」との内容にとどめたものを投函した。さて、ここからどう進展するだろう。こちらも未知数だ。

さて、彼岸と父の月命日であり、住職が実家にいらしてくださるため、電車に飛び乗って実家へ向かった。住職がいらっしゃるまで1時間ほど時間があったため、母は珍しく「なにか起きた時のために説明しておきたいことがある。」と、各部屋を案内してくれて重要書類の隠し場所や、母の棺に入れてほしいもの。処分していいものなどを事細かに伝えてくれた。

そんなわけで、普段はわざわざ足を踏み入れない父の書斎に入ることになった。その部屋に、父母のゆかりの故人たちの写真が10枚ほど並べて飾ってあった。写真があるのは知っていたけど、忘れていた。というか、今まで興味を持ったことが無かった。意識したことが無いから、存在しないのと同じだった。(これが量子による観測問題?)

その中で、ひときわ美形の若い男性の白黒写真が目に入った。二十代くらいの端正な顔立ちで上品で物静かなエネルギーを感じる。私が40歳若かったら一目ぼれして恋に落ちたかもしれない。それが祖父(父の父親であり、曾祖父の次男)だった。これ幸いとスマホで撮影し、自宅に帰ってから印刷して曾祖父の写真とともに飾った。この流れも不思議だった。母が父の書斎に私を招き入れることなど今まで無かったし、私も敢えて足を踏み入れる必然性も無かった。私が曾祖父のことばかり調べて夢中になっているので、祖父が「私にも少し注目してみてくれよ。」と声をかけてくれたようにも思う。それほど、祖父の写真から熱いまなざしを勝手ながら感じたのであった。

このように種はまいた。さてどう発芽するだろう。

何か新しいことが判明したら、Hさんに電話して報告しよう。きっと私と同じ熱量で面白がって聞いてくれるに違いない。ああ、ルーツ調べ仲間が出来て嬉しい。

そして、あの小さな墓石の持ち主が誰なのか分かっても分からなくても、今年中に一回は〇〇〇町を訪問しよう。そして、墓所のある大地に手を合わせ先祖に感謝の祈りを捧げて来よう。その旅には、曾祖父、祖父、父の写真も持参して我が家のルーツである故郷の風景を見せてあげたい。


☆曾祖父の伝記ついに脱稿

今まで調べた情報を追記しながら曾祖父の伝記を一旦完成させることにした。

今後も、細々と調査が続いていきそうだったので、定期的に補稿していけばいいと思いついた。ルーツ調べにゴールは無いのかもしれない。いつどこで縁がつながったり、種が芽吹くか分からないからである。

父の90歳の誕生日が4月3日なので、発行日をその日としてしっかり奥付も作った。

3月22日の月命日に、ファイリングした伝記を父の仏前に供えてきた。「誕生日プレゼントだから、誕生日に見てね!」と、父の魂に無理な注文をしてしまったが。待ちきれなくて、チラ読みくらいはしているかもしれない。

以下にエピローグの文章を紹介する。

2024310日、父の四十九日法要が行われ、住職は蓮如の「白骨の章」を朗々と唱えた。死を意識することで生を輝かせること。すなわち、根源的な怖れを克服し、「人生で果たすべき最も大切なことを見つけて幸せに生きてください。」と伝えられたように感じた。どちらかと言うと、あの世に帰った存在たちから、この世に生きる人間たちへの、力強いメッセージのように感じられたのだった。

 太く短い生涯だった曾祖父についてのこの記録は、一旦筆を置くこととなった。

北海道や△県から戸籍を取り寄せ、各図書館の協力をいただきながら郷土資料を調査する日々はとても楽しかった。寝ても覚めても、曾祖父のことを考えていた。

伝記のようなものを書こうと思い立ってから約一か月後にこのエピローグを書いている。

この一か月は、まるで曾祖父の魂と対話をしているかのような感覚だった。導かれるように次の郷土資料に行き当たり、開いた頁に当時の様子を彷彿とさせる記述を発見するたびに、曾祖父自身から直接語られているような錯覚に陥った。例えば、戸籍謄本に記載されている届の背景が理解できず、「いったい何があったんだろう?」と心の中で問うと、その日のうちに資料の中に答えとなる記述が見つかるということは何度も起こった。いわゆるシンクロニシティである。本気で求めれば、目に見えない領域から助けはもたらされる。(それが本人の魂の成長を邪魔しないものであるなら。)このように先祖の魂に応援されているのだと感謝する豊かな一か月を過ごしていた。

先祖たちが、どんな想いで人生の困難に立ち向かい、活路を開いて生きてきたのかを知ろうとすることは、すなわち、蓮如の「白骨の章」に込められたメッセージ「人生で果たすべき最も大切なことを見つけて幸せに生きてください。」と同じ様な思いを先祖の魂から受け取ることにつながるのではないかと思う。

2024年以降は、明治維新に匹敵するかそれ以上の大変革が日本だけでなく世界中で起こるだろうとも言われている。曾祖父の世代が、明治の大変革に翻弄されつつも勇気と行動と工夫で逞しく生き抜いたように、彼らの勇敢な遺伝子を引き継ぐ私たち世代もきっと「人生で果たすべき最も大切なこと」に取り組んでいくなら、今後訪れる時代の荒波を軽やかに乗り越えていけるのではないかと思う。」

追記

今朝、この投稿をして、出掛けてきた。今は夕方である。

出掛けたついでに、徒歩30分の隣の区にある図書館へ行って北海道の電話帳で●●精肉店の住所と電話番号も調べてきた。ちょうどそちら方面にある神社へ夫が行きたがっていたので、ふと思いついたのだ。

●●精肉店の住所は呆気なく判明した。さて、かの自分史を書かれた●●さんが先祖を同じくする方なのかは、本を読んでみないと分からない。分かり次第手紙が出せるよう準備だけはしておきたい。

帰宅して、グーグル・アースで●●精肉店の位置を確認してみた。なんと!曽祖父の兄が大正2年に創業した旅館の場所と目と鼻の先ではないか。これは、9割の高確率で血縁に違いない。

ふと、もしかして国会図書館デジタルライブラリーにあるんじゃないの?と閃いた。いち庶民の自分史など天下の国会図書館がデジタル化するかな?と半信半疑で検索したら、あれれ?あった…あるじゃないか!

震える手で閲覧を開始。表紙を捲ってすぐの口絵に、除籍謄本で何度も目にした名前と、私の父の雰囲気にそっくりな人物の白黒写真が掲載されていた。

ビンゴ!

写真は、曽祖父の弟。そして●●精肉店は、その三男が創業しており、妻がこの自分史の著者であった。

早速手紙を書いた。明日投函する。

それにしても、展開が早い。早すぎる。朝の疑問が夕方には解決している。どうしたことだ。



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