真実はどこにある?

 ☆2月22日(木)

父の月命日。

この日、地元のD寺住職が初めて我が家へ来て仏前でお経を上げてくれることとなった。

母は、数日かけて祭壇まわりを精一杯飾り整えた。生花のアレンジ、数々の菓子と果物、生前好物だったもの(コーヒーゼリーや鰻丼!)、手づくりした団子など。仏壇の扉は四十九日間は封じるらしいということで閉じてあった。

我が家は、浄土真宗なのだが、母の実家は禅宗だった。宗派の違いがよくわからず、本やテレビやネット情報、そして幼い頃から記憶にある地方の風習などごちゃまぜにして、母の信念は形成されていた。母にとって亡くなった父は、「消えてしまったわけではなく、何かしら個性を残したままどこかに存在している」として捉えられていたから、すべては父を慰めるために用意されていた。母の中で父は死と同時に、生きているという奇妙な信念バランスの上で成り立っていた。「消えたわけではない」という信念が無ければ、母はこの一か月を過ごしてこられなかっただろう。

住職は私と同じ五十五歳だった。以下は、住職が教えてくれた話である。あくまで宗派の違いによる考え方なので、読み流していただけたらと思う。ただ、人間のエゴについて、ハッとさせられた部分もあったので、自分への戒めのために、記録したいと思った。

住職は、言葉少なく大人しい人柄に見受けられたのだが、母が矢継ぎ早に質問をしたので、だんだん回答に熱が入ってきた。出来るだけ率直に、正しく伝えたいという熱意がひしひしと感じられ、まるで仏教講義の様相を呈した。

母にとっては、心を込めて用意したお供えの数々が「それは人間のエゴでしかない」とバッサリ一刀両断されたかのようでもあるが、今後、母が精神的に自立するためには、一旦ここで誰かが釘をさす必要があったのかもしれない。

グリーフセラピー等の考えからいくと、あまりに率直すぎる住職のお話は、喪失感を抱えた母にとって、時期尚早では?とハラハラするところもあったが、この話題が今まさに必要だったことは、後から判明する。

〇死は穢れではない

仏壇の扉は閉じなくていい。死は穢れではない。死者は汚いだろうか?私たち(住職)は葬儀に参列しても塩を振ったことはない。そもそもお清めに塩を使ったことなどない。穢れは、神道の考えだ。日本の宗教は神仏混合だったので考え方が混ざっている。ちなみに神道では喪に服するのは一年とされているので年賀状も出せない。本当は年賀状は出せるのだが。(穢れ=汚れ と住職は説明したが、ここは疑問あり。分かりやすく一般論をおっしゃったのだろう。)

〇四十九日で喪が明ける

四十九日経過したら喪が明ける。祭壇はきっぱり処分し、日常に戻る。祭壇は普通にゴミとして捨てる。塩を振って清めてから捨てる必要はない。塩を振るということは穢れているという考えからきている。祭壇も汚くはないのだから浄化する必要はない。

〇亡くなった人は食べない

亡くなった方へ対するお供えは必要ない。食べないのだから。もし、何かお供えするのなら、それは生きているご家族が食べるということ。「私たちはこのようにごちそうをいただいて仲良く元気に暮らしています」という意味で供えるなら良いのでは。

〇お経は亡くなった人のためではない

私がお経を上げるのは、亡くなった人に対してではない。生きているご家族と一緒にお経を唱えるため。亡くなった人はもうお経を聞くことはない。

〇お盆に魂は帰ってくる?

地獄の蓋が開いて死者の魂が家に帰ってくるというが、それを見た人はいるだろうか?ナスやキュウリで牛と馬を作る風習は、本来は、(牛に乗って)ゆっくり来てもらって(馬に乗って)さっさと帰ってくれという意味。家に魂が滞在する時間を短くしようとした。つまり死は穢れという思想があった。それがいつの間に、平成か令和になってからなのか、テレビなどで「(馬にのって)速やかに家に帰ってきてもらって、ゆっくり滞在してもらい、お土産を牛にいっぱい積んでゆっくり帰ってもらう」という説明に変わってきた。その方が美しい考え方で受け入れやすいからだろう。本来の意味が変えられてしまっている。

~補足~盂蘭盆とは:「サンスクリットullambanaの音写。単に盆ともいう。餓鬼道などにおちて倒懸 (さかさまにつるされること) の苦しみを受けている亡者のために仏事を行なって,その苦しみを取除くこと。仏弟子目連が,餓鬼道におちた母の苦しみを除こうとして僧たちを供養したという『盂蘭盆経』の伝説」(コトバンクより。住職が「さかさまにつるされること」と説明していたので、参考に。)

〇テレビや本は嘘ばかり

私の役割は本来の意味を説明していくこと。本やテレビで公然と嘘を言われていてびっくりする。それを真に受けた人々は、(浄土真宗として)不要なことをやらされている。葬儀会社の提供する儀式も、本来正しくない。しかし、現在はあの形しかないから仕方ない。

(本来の儀式はとてもシンプルであり、反対に時間をかけていたことが分かった。現在の葬儀会社が提供する儀式は、不要なところにお金をかけて、インスタントに出来ている。元々の意味の大切な部分が分からなくなってしまっているとか。)

〇生花を供えること

「生花を供えることは、死者が独り歩む道を華やかにし良い香りに満たすため、つまり死者が寂しくならないようにするため。ということを本で読んだ。」という母に対し

生花は供えない。現実では確かに利用するが、本来は不要。なぜなら、殺生になるから。花も生きている。生花も人間側の都合(エゴ)。宗派によっては、紙の花を使用することもある。

〇何も知らないということを知る

私たちは、知っているつもりになって間違ったことをする。やっていることが真実に沿っていることなら、苦しむはずはない。苦しいのはそれが真実ではないから。私たちは真実が何も分かっていない。何も知らないことを知る。そこから宗教は始まる。「宗」とは真実という意味。おおもとを知るためのもの。私たちは、大切な家族を亡くすことで、悲しんだり苦しんだりする。そしてそれを切っ掛けにして、「真実とは何か」にようやく目を向けることになる。宗教は、「真実を明らかにする」もの。

〇人の考えは真実か?

自分の考えがエゴに基づいていると苦しい。お供えを亡くなった人が食べるためという考えも生きている人のエゴ。亡くなった人は何も食べない。花の香りも嗅げないし、お経も聞かない。真実が分からないから人は苦しむ。私も例外ではなく、エゴに苦しむ同じ人間だ。「この仕事を辞められたらどんなに幸せか」と思いながらお坊さんをやっている(笑)。寺を継いだ者の中で、好きでお坊さんをやっている者などほとんどいない。在家にはいるだろうが。それでもこれが役割だと思うからやっている。

〇亡くなった人はどうなるのか?

浄土真宗では、極楽浄土の阿弥陀になると考える。阿弥陀とは真実という意味。

~補足~「アミターユス(阿弥陀庾斯)」で、寿命無量ということです。
阿弥陀仏の寿命は限りがないので、時間的に無限ということです。その空間的にも時間的にも変わらない、すべての人を本当の幸せにする真理です。本来はそんな色も形もない、心も言葉も及ばない、言葉を離れた真如ですが・・(日本仏教学院HPより一部転載)

では、地獄とはどこにあるのか。それは私たちが暮らしているこの世界にある。真実が分からず、エゴ(幻想)により苦しんでいる世界のことを地獄と表現している。

〇では、なぜ法要をやるのか?

亡くなった人はもういない。それを受け入れられないから私たちは苦しむ。「死」を理解できないから苦しい。誰も真実は分からない。法要は、死者に何かを供え喜んでもらうために行うのではない。お供えや不要なしきたりに力を注ぐのではなく、故人の歴史を大切にしてほしい。どんな性格で、何を言い、何を成し遂げた人物だったのか。

私はお坊さんをやっているが、それは役割でしかない。役割とは代わりがいくらでもいるということ。私がお坊さんを辞めても、すぐ私の代わりが見つかる。私でなくてもよいのが役割だ。しかし、この役割を脱ぎ捨てれば、掛け替えのない〇〇という私である。これは誰も代わりはできない。そこを大切にしてほしい。


☆住職の話をお聞きして

上述の話は、メモをしっかり取っていたわけではなく記憶で書いたものなので、表現など多少食い違いがあるかもしれない。しかし、住職が一番伝えたかったのは、

「生きている人を、そして自分自身を大切にしてほしい」

ということだったのではないかと思う。

本来の仏教の教えが歪められ、遺族の心情に付け込んで、「故人の魂を慰めるため」という名目のビジネス偏重の宗教の在り方(もちろん一部だが)に苦言を呈してくれたのだと思う。

戒名も結局は寺の維持費捻出のためであり、インドや中国にその風習は無い。江戸時代の寺請制度に端を発する宗教統制が、庶民を翻弄してきた歴史がある。

私の曾祖父は、屯田兵として入植し過酷な開拓に従事した生粋の農民だ。その時代、全国の庶民のほとんどが農業に従事し、現金収入など珍しいことだった。多少の貧富の差はあれど、大多数は貧しかった。そんな庶民は政策によりどこかの寺の檀家となっていた。お金が無いのに、裕福な家系と同様に、昔からのしきたりに乗っ取って葬儀を行うことなど不可能だった。自分たちも食べるものに苦労するのに、お供えにお花に戒名に墓石に・・・と、地元の名士のような葬儀は出来なかったのだ。

ちなみに、江戸時代は、庶民の遺体は普通に野山や谷に捨てられた。まだ土に埋められた土饅頭ならいい方で、墓石が残るのは、かなりの名士ということだ。

浄土真宗は、「家」ではなく「個」を重んじる宗派であるらしい。個人の生活困窮に即し、現実的に弔いが出来るよう、いろんなしきたりをバッサバッサと切り捨てていったのだろうと想像する。ある意味、断捨離として。シンプルにするからこそ、見えてくるものもあっただろう。残された家族が、苦しい中でも、それでも日常を生きていくために。

☆母、マウントを取りたがる

住職が「つい余計なことばかり話してしまいました・・・。」と恐縮しながら帰って行った。母は、玄関で住職の後ろ姿を見送りながら、「扉の段差でけつまずいていったわ。」と苦し紛れに、まるで敵を取るように冷笑した。

母は、実家が禅宗だったので、お供えに力を入れることが当たり前だった。だから、「そういえば母が言っていたわ。門徒さん(浄土真宗の信者)は、何~んにもしないんだって。本当にそうね。」と、少し蔑むように言った。

母は、お供えした祭壇を住職に褒められたかったのではないかと思う。「立派に用意されましたね。故人の魂もさぞかしお喜びになられていることでしょう。」など。実際は、バッサリ「必要ありません!」と言われてしまったのだから、しょげてしまいそうな気持をどう立て直していいのか混乱していただろう。その宗派の正式な住職から言われたのだから、反論は出来ない。しかし気持ちが収まらない。今まで培われた強固な信念が母の心を翻弄した。真実に誘われることは、時として拠り所を一切失うような恐怖もあるはずだ。

住職ははっきりと言った。「人の考えることは全てエゴという幻想です。」と。

母の様子に、ここでマウントを取ってどうする?と私は少々ハラハラした。父の遺影が困ったような表情で、こちらに顔を向けていた。私は、父の家系の宗派を、曾祖父の開拓の歴史も踏まえ、大切に受け入れたいと思った。

私「きっと出身が代々の農家だったから。昔はお金が無かったから、いろいろ割り切るしか無かったんだよ。」

母はきまり悪そうに口をつぐんだ。母の気持ちもすごく分かる。

母「でもね、お母さんはお供えをやるわ。何もやらなくていいって言われたけど、お母さんは続けるつもりよ。だって・・・それではお父さんにあんまりよ・・・」

姉「お母さんがそう思うなら続ければいい。でも、それは生きている人のエゴかもしれないということを分かった上でならいいと思うよ。お母さんがお供えしたり、花を飾ることで、気持ちが明るくなって元気になるのなら意味がある。生きている人が食べるのを我慢してまでお供えにお金をかけたり、体調が悪いのに仏様に必要だからとご飯を炊いたりする必要は無いんだからね。」

母には既にこの傾向が顕著に現れていた。誰かがどこかでたしなめる必要はあったのだ。住職の帰り際の慌て具合から察するに、こんな話をするつもりは一切無かったのだろう。とすると、目に見えない領域の采配で、住職は無意識に話をさせられたのだ。この話を母の耳に入れるタイミングだったのだと思う。これをきっかけに不要な信念の手放しをするかどうかは分からない。ここからは、母の道である。

☆気丈な姉が泣く

私は予定があったので、一足先に帰ることになった。姉が車で駅まで送ってくれた。車内で、姉と私は、住職を話題にした。

私「ちょっとショッキングだった。お母さん、途中で泣き出すのではないかと心配した。この後、荒れるかもね。」

姉「そう?私は、お坊さん、よく言ってくれたと心の中で喝采していたわ。」

姉は、先日2月14日に勃発したバレンタインデー事件について語った。

姉は、毎年父にチョコレートを送っていた。今年、バレンタインデーを迎え、「ああ、もうお父さんには食べてもらえないんだなあ。」と心底悲しくなった。チョコを買うという気力すらなかった。「悲しみでいっぱいな状況なのに、そんなことは、浮かれたことのような気がしたの。だから、仏前にチョコを送るなんて、まったく思いつかなかった。」

母は、毎年姉からチョコが送られてくるので、無邪気にも一日中、宅配便の到着を待っていた。そして、とうとう夕方、姉に催促の電話を入れた。

母「もしかして、忘れていたんじゃないでしょうね?毎年送ってくれているのに、まさか、亡くなったからもういらないと思ったの?それはあんまりよ。お父さん、チョコが大好きなのに。お父さんがかわいそうよ!」と。

姉は、母のこの言葉に打ちのめされた。自分の悲しい気持ちをこの母にどう説明したところで、あまりに考え方が違う。この違いにどう対処したらいいのか途方に暮れた。姉は喪失感という傷の上に、母の言葉によって、さらなる傷をつけられてしまったのだ。

ちなみに妹の私はイベントごとの贈り物には無頓着だ。以前から何も贈らないので、母は私には何も期待していない。ずっと父を大切にしてきた姉が、母の期待を裏切ったばかりにとばっちりを食らったわけだ。あんまりな話だ。

姉は、以前も「亡くなった人より生きている人の方が大事だよ。」と意見し、母を怒らせていた。はっきり言うとお金の使い方についてである。仏様を大事にしたい母の気持ちは、分からなくもないが、父を生前と同じように扱いたいという思いは、時にマイナスに作用した。その極端な例が上記バレンタインデー事件である。母は、姉の繊細な心の動きに配慮するよりも、父がチョコが好きだったという記憶を優先した。もちろん、父が生きていたならチョコを喜んで食べたことだろうが・・・本当にかわいそうなのはどちらなのだろう?母のトンチンカンな正義感も哀れだ。

姉は、先月からこの一か月、あらゆる手続きをメインでこなしてきた。母の行き過ぎを時にたしなめ、なだめつつ(だって、無い袖は振れないわけだから)精一杯調整しながら、母の思いも汲み取ろうと頑張っていた。その点私は外野にいたので無傷だったが、母のストレスの矛先は全て姉に向かっていた。気丈な姉は、調整役に徹するしかなく、しっかり悲しむ暇などなかったのだ。

この日、私を駅まで送り届け、Uターンして実家に戻った姉は、母とともに涙を流したそうだ。たいそう複雑な涙の味であったことだろう。

母「お父さんが亡くなって一か月なんですね。まだ信じることが出来ず、お姉さんと泣いてました。お互いにみんなもそうだと思いますが、思い切り泣けていないので何かすっきりしないんですね。来月四十九日が終わると一区切りです。

初めての命日が終わりほっとしています。お父さんのおかげで皆と会える機会が多くて嬉しいです。」

と昨夜LINEが入っていた。


十二因縁 

「一切皆苦」の世界にあって、釈迦は、

人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを瞑想し、

その原因が、無明(むみょう)、行(ぎょう)、識(しき)、

名色(みょうしき)、六処(ろくしょ)、触(そく)、

受(じゅ)、愛(あい)、取(しゅ)、有(う)、生(しょう)、

老死(ろうし)の12の項目にあると悟りました。

これは後に「十二因縁(じゅうにいんねん)」

と呼ばれるようになりました。

 

  1. 無明(むみょう)

「無明」とは、無知、間違った判断という意味です。

人間の存在発生の時、人は無知であり、

知恵がありません。すべてのものごとのあり方や、

人生についての意義を知らず、

また知ろうともしない状態が無明で、根本煩悩とされています。

*むらおの歴史情報サイト~釈迦は何を教えたか?より


この日、住職はこのことも私たち家族に

伝えたかったのではないかと思った。


あまりのギャップに笑う


夜はZoomで日本催眠医療学会の講座に参加。

【テーマ】

「 催眠療法士やセラピストが受ける

スピリチュアルなマイナスエネルギ―とその対処法  」
【講 師】  橋本 和哉  先生

橋本氏は、正真正銘の現代医療の医師であるが、

面白いのは、その施術方法である。

指先から発せられる「気」を利用して、

患部の状態を特定したり

患者に適した漢方薬を処方する。

はたまた、霊や妖怪が憑依しているケースすら、

エネルギーを利用して解決する。


私は、人からのエネルギーを受けやすく

昨年夏に催眠のセミナーを受講した際に

メンタルを急激に悪化させ、夫に迷惑をかけた。

一種の憑依ではなかったか?と今は思う。

それ以降も、有料セッションを中止したまま

今に至る。

クライアントの抱えるエネルギーと共振するものが

あるから、私も影響を受けるのだろうと

ひたすら、内面の浄化に向き合ってきた。

私の内面が浄化されなければ、クライアントに向き合う

ことは出来ないと思った。


どんなに施術に慣れたセラピストであっても、

橋本先生ですら、相手のエネルギーに

影響を受けることが判明した。

影響を消す方法をいくつか紹介され、

イメージを使うことの大切さを学んだ。 


70人近い受講生の大半が興味深々だったのは

妖怪の憑依についてである。


へ〜 とか ほ〜 とか思いながら

熱心に講義を聴いていて、

ふと自分が可笑しくなった。


昼間は、住職から真実とは何か?との話を聞いて

夜は、今度は妖怪の話を聴いている。


目に見えないし、立証できない領域のことだけど

確実に、何かがあるのだ。

私はその世界にも魅力を感じてしまう。

父の魂だって、今までと形が変わったかもしれないが

きっとエネルギーとして存在しているだろう。


どっちの世界も、どっちに振れても

面白がっている自分を見つけた。


この世は、幻想であるのなら

いずれは死をもって真実に目覚めるのなら

何でもありの、この世界を

楽しんで過ごせばいいのだと思った。


後日談

2月23日夕方から翌日昼まで、

母と連絡が取れなくなった。

姉は23日の昼に母と電話で話したが

その後ずっとLINEが既読にならず心配していた。

24日、私はボランティア団体スタッフとして、

イベントに従事中だった。

姉から連絡を受け、場合によっては、すぐ会場を

飛び出す覚悟で、姉からの指示を待った。

姉は実家の鍵をもっているので、早速車で向かった。

私は心配しながらも、どこか冷めた気持ちでもいた。

母には母の人生があり、運命がある。

私がどうこう出来るものではないのだから、

何が起きても、そのまま受け入れようと思った。

しかし、せっかくの記念すべき団体初イベントは

半分上の空になってしまった。

やがて、昼過ぎに、ようやく母からLINEが入った。

ダウンして、ずっと眠っていたらしい。

なんだ、そうかそうかと、ホッとした。

初の月命日を終え、緊張の糸が切れたのか

はたまた、住職の話にショックを受けて寝込んだのか。

母の心境は分からない。


母からのLINEメッセージ

「先日    住職さんいろいろ言ってましたが

お母さんは逆らうわけではないけれど 

今までやってきたようにこれからもやるつもりです。

お父さんと一緒に仏様の事やってきてたので

自分の時にも同じようにしてくれると

安心していると思いますので。      

お盆の迎え火送り火はやろうと思います。  

  牛と馬も今までのように馬に乗って

早く帰って来て欲しいですし

帰りは牛に乗ってお土産を沢山持って

帰って欲しいと思います。     

お花も生花をお飾りします。

いいお話しもして下さいましたが、

ちょっと寂しかつたです。」


私から返信

「いろんな宗派がありますからね。

自分にしっくりくる考え方でよいと思います。

宗教が違えば、もっと違う考え方になり、 

もっとビックリすることでしょう。

それほど、あちらの世界のことは、

誰もハッキリ分からないということなのでしょうね。


住職が言いたかった一番のことは

今のあなた自身を大切に生きてください。

というメッセージだったと感じました。

役割を脱いだら、誰も代わりはできないという話。

いい話でした。


亡くなった方々に喜んでいただきたいと、

時に自分を後回しにして頑張られる檀家さんを

いつも見られていて、心配されたことも

あるかと思います。


お母さんも、今回ダウンしましたしね。

住職には、お母さんの頑張りがあの日、

痛いほど伝わったのでしょう。


残された家族は、不安定な精神状態になりますから

体調も崩しやすくなります。

時には割り切ることも、何ら悪いことではないし

家族が日常を取り戻し、

健康に笑って暮らしていくことを

お父さんは一番安心し、喜んでくれると感じます。


住職のいい話の部分だけ、

ありがたく受け取りましょう。

私もそうします。


お母さんは、疲れすぎないように

ペースダウンして、まずは自身を労って、

お過ごしください。」


母とのやり取りを通して

私自身のエゴについて再考する

よい切っ掛けとなった。

エゴそのものは、決して悪いわけではないが

どこまでも、幸せを探し求め彷徨う

悲しい旅人になってしまうのだよなあ。





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