夢〜多次元を垣間見る
肉体は疲れていて、とても眠いのに、頭の芯が興奮状態なのか、あまり眠れない日々が続いていた。一回くらいしっかり眠りたいと、昨夜は薬を飲んで寝た。そのせいか、久々にストーリーのあるリアルな夢を見た。意味があるような、無いような不思議な夢だった。何らかのメッセージが含まれているかもしれないので、記録しておきたい。
☆夢の内容
海辺の岬に来ている。
ここから、あの世への道がつながっていることを、漠然と知っている。
やや、全体が白っぽい、開けた平原が広がっていて、岬なので海のはずなのに、異次元が重なって、海のところが平原になっている感じ。この矛盾を、当たり前のように受け入れている。
平原には一本の道がのどかに走っている。
私は、あの世行きのバス停のような所で、連れて行ってくれる交通手段を持っている。
そして、乗り物登場。
なんと、自転車だった。
自転車に乗ってきたのは、西田敏行に似た、ふっくらしたオジサンだった。(笑)
西田敏行は、にこやかに、自転車の後ろに座るよう促してくる。私は西田敏行のお腹に手を回して、荷台にまたがる。
もう一人、乗客がいて、さらに私の後ろに座ってきた。西田敏行の自転車はママチャリなので、もう後ろの荷台はギュウギュウであるが、夢の中ではちゃんと二人座れてしまう。
後から便乗してきた人物は、退職した職場で一緒に働いたことのある青年だった。
(彼には4年前に出産祝いのプレゼントを渡したきりで、もう会っていない。コロナが落ち着いたら飲み会しようねと約束していたが、心のどこかで、もう会う機会は無いだろうと分かっていた。)
その同僚がフワッと私の背後に便乗してきたので、(お、久しぶりやん。)と心の中でチラッと思った。
西田敏行の運転で、三人の乗ったママチャリは、平原の一本道をゆっくり走っていた。特に会話は無い。
途中で、空が曇って、あたりが暗くなってきた。嵐が来る前触れのような雰囲気だ。
まだ、あの世への道半ばだったのだが、私は焦って、こんなことを口にした。
「◯時◯分に、津波がくるから、戻らなきゃ!」
戻りたいと思った途端に、西田敏行の自転車は消えてしまい、私は岬のスタート地点に戻された。
岬には、なぜか仕事場があって、そこで夫が仕事をしていた。
私は夫に、懇願していた。
「◯時◯分に津波がくるから。もうすぐくるから、仕事なんかやめて!行こう!」と。
夫は、仕事場を勝手に離れられないと、グズグズしている。
私は夢の中で
こういう時に、責任感に縛られて、人は自ら自由に動けなくなってしまうものなのだなと、痛感した。
自分を縛るものの正体は何なのか。その目に見えない呪縛について、考えさせられたのだった。
以上が、おおまかなストーリーである。
他にもいろんな出来事があったのだが、忘れてしまった。夢はすぐにメモしないと、どんどん頭から消えていく。
現実に津波が来るという予言的な夢ではないと思う。何かを象徴しているのだとは思うが。
自分なりに、夢からのメッセージを読み解いてみた。
☆夢解釈
●目に見える世界は多次元的重なりの、ほんの一層に過ぎない。
●私たちは、多次元存在でありながら、自ら制限をつくり、そのルールに縛られて、目に見える世界から離れられなくなっている。
●別の次元では、思ったことが即実現する。
☆日常に戻る
1月31日
骨休めの一日。昼間はほとんど横になり、ウトウトして過ごした。特に何もやっていないのに、疲れている。ひたすら、何もせず、眠りたい。
母と姉は、役所へ行ったり、病院や施設へ持って行く菓子折を買ったり、お寺さんへ挨拶に行ったり、メチャクチャ忙しく一日を過ごしたそうだ。
母は、夜半まで書類を整理していて、食卓でウトウトしていたら、父の呼びかけの声で起こされたそうだ。母は毎日泣いていると言う。
私も
昨夜、夕飯を食べている時に、無意識に父がまだ病院に入院しているという感覚になっていた。
ふと我に返り、そうだ、昨日父の葬儀をやったんじゃないか。と自分に言い聞かせた。
どんな感情か分からないまま、なぜか涙が流れた。
悲しいとか、切ないとか、言葉で表現できない複雑な感情が湧き上がり、体は涙で反応するしかなかったようだ。自分で自分がよく分からない。どんな言葉も当てはまらないので、「分からない」としか言いようが無いのだ。
母を思い遣った。
きっといろんな感情が湧き上がり、説明つかないことを言ったり、やったりすることもあるだろう。心や体が思うように働かない時もあるだろう。
大きな喪失を体験した人は、このような複雑なプロセスを経て、ゆっくりゆっくり回復していくのだと思う。傍から見ると、ネガティブに陥っていたとしても、本人には必要な道筋であり、それはとても自然なことなのだと思う。
☆あの世の学校
2月1日
都営地下鉄で、終点の西馬込駅に向かっていた。高輪台駅に到着した瞬間、涙がボロっと流れた。ああ、何が切っ掛けになるか分からないくらい、不意に泣けてくる。高輪台という駅名を見て泣く人は私くらいだろう。
日蓮さん入滅の地、池上本門寺へ参詣。
父は、法名をいただいたことで、お釈迦様の弟子になった。ということは、あちらの世界では、お釈迦様の教えを学ぶ新入生ということだ。
父は浄土真宗で、日蓮さんは日蓮宗なので宗派は違うが、同じお釈迦様の弟子同士。おそらく、何らかの御縁があれば、父と日蓮さんが、すれ違うことくらいあるかもしれない。
と思ったので、日蓮さんにお願いをしに来た。
もし、あちらの世界で、父と御縁があり、顔を合わせるような機会があれば、父をよろしくお願いします。と、父の法名を何回か心の中で復唱し、日蓮さんに聞いていただいた。
あちらの世界で、お釈迦様の弟子入りをするということは、学校の授業のような時間もあるのだろうか。そうなると、出欠を取る時は、法名で「陽和院釋智温くん」と呼ばれるのか。先生役は、宗祖と呼ばれる空海や最澄、親鸞もいるだろうし、特別講師に日蓮さんも登壇する可能性もある。その時に、「ああ、君のことはよく聞いているよ。しっかり励みなさい。」と一声かけられたら、父も心強いのではないかと思う。私の勝手な想像だが、「父をよろしくお願いいたします。」と、祈った。
ちなみに、私は、特に何かを信仰しているわけではない。典型的日本人の軽めの信仰感覚であり、寺社仏閣巡りは好きだが、何かに傾倒しているほどでもない。
催眠療法で前世体験をしているので、チベット仏教の僧侶、キリスト教の修道女や司祭、ネイティブ・アメリカンのシャーマン、自然崇拝の巫女、古代エジプトの神官、半霊半物質の宇宙存在…などなど
いろんな記憶が混在しているため、今世はもう宗教体験は食傷気味である。しかし、各宗教に無意識に親しみを感じるところもある。思考では説明できないが、何だか懐かしいね~。という不思議な感覚である。特に仏教の修行系は、魂が好んでたくさん経験しているようで、つい、感覚的にムフフ♡となってしまう。この感覚、私の友人達になら、共感していただけるのではないか?と思うのだが、どうだろうか。
☆夢の中ではナイト・スクールで学んでいる。
先月初めに『夢体脱』という本を読んだ。著者はヘミシンク体験を切っ掛けに、明晰夢を見ている間に別次元へ行ったり、高次元存在と交流できるようになった。
本の中で、人は夢を見ている間にナイト・スクールに通っていて、必要なことを学んでいると書かれてあった。生徒の中には、現実世界での知り合いもいるし、まったく会ったことも無い人もいる。しかし、夢の中では違和感無く、ずっと知っている感覚になっているらしい。(現実的には矛盾があっても夢の中では辻褄が合っている)
著者は、現実世界の方で役割があったため、ナイト・スクールでその役割を果たすために必要なことを先生から学んだり、生徒同士練習し合ったりしていた。普通の人間はその記憶を顕在意識で記憶しないため、目が覚めると忘れてしまうのだが、明晰夢状態で夢を体験すれば、顕在意識に記憶することが可能となる。ヘミシンクも明晰夢も幽体離脱も、基本的には同じ仕組みのようだ。私は、催眠療法も時空を超えた領域から情報を得る点で、同じ仕組みに基づいていると考える。
なぜ、私がナイト・スクールの記述に釘付けになったかと言うと、私も昔から頻繁に、学校の夢を見る傾向があったからだ。大抵は、校内で、授業が行われる教室を探していたり、学校に遅れそうになって焦っていたり、鞄に教科書を詰めている場面ばかりで、肝心の授業シーンを見ることは稀なのだが、社会人になってからも頻繁に学校の夢を見るので不思議だったのだ。『夢体脱』の本を読んで、もしかしたらあの夢も、ナイト・スクールの断片をかろうじて顕在意識に記憶できていた証ではないか?と思ったのだ。
私がナイト・スクールで何を専攻しているのかはサッパリ分からないが、きっと潜在意識には記録されていて、必要な時に学びを活用できているのではないか?とも思う。やったこと無いのに、初体験でもすんなり上手いことできちゃった!なんて現実は、もしかしたらナイト・スクールで練習を重ねた結果なのかもしれない。
たまに、明け方の微睡みの中で、ハッキリとした声で言葉が聞こえたりする。その単語の意味を知らなくても、起床してからネット検索してみると、意味ある単語だったりする。私が知らないはずの単語が夢からもたらされるのであるから、これもナイト・スクールで学んだことなのかもしれない。(このあたりの体験は、こちらのブログにいくつか記録してきている。)
Chie artさんのYouTubeに登場する小学生のみーちゃんは、過去世の記憶を残したまま生まれたレインボーチルドレンだ。みーちゃんは、地球に生まれる前に、天使の学校に通っていた。地球でうまく生きていけるよう様々なことを学んできたらしい。
私達も記憶に残っていないだけで、地球転生を楽しみにしながら、仲間たちと学んできた体験があるのかもしれない。
そんなこともあるので、あちらの世界に、お釈迦様の弟子の学び舎があってもおかしくないなあと思った次第である。お釈迦様ファンクラブ?お釈迦様推し活?的な。
故人の信念により、様々な学び舎に分かれているのだろう。そこでさらに魂を磨いて、充分学んだら、また地球に転生し、学んだことを実践することで、知識を知恵に定着させる。その繰り返しが輪廻転生だったのだろうと思う。
今は、幽界システムも大幅に変更になったらしく、転生先は地球に限らず、選択の幅が広がったようだ。2020年に亡くなった私の友は、肉体を抜けると一直線に宇宙のアルクトゥールス(魂の中継地点)へ帰星した。輪廻から卒業して行ったのだ。(このあたりの裏付けはエドガー•ケイシーの本に記述あり)
皆様はどうお考えになるだろうか。
コメント
コメントを投稿