父への手紙

 1月29日

いよいよ明日は父の葬儀だ。家族のみが参列する一日葬を執り行う。

この怒涛の一週間はシリーズ3回に分けて、ブログに投稿してきた。読者は私の親しい友人だけなので、だいぶ赤裸々に書いてしまった。今度、友人たちとリアルでおしゃべりする機会があれば、活発な意見交換ができたらと願っている。それほど、現在大手葬儀社が世の中に提供している葬儀の形は、あまりに形骸化している。言い過ぎかもしれないが、気を付けなければ中身がからっぽの箱を過剰に飾り立てているだけのセレモニーになってしまうだろう。箱の包装だけを眺めて「いいお式だった。」と満足することのないよう、本質を見極めていく力を養いたい。

さて、母から「棺に入れてあげたいので、手紙を書いてきてほしい。」と頼まれた。父とは潜在意識を通して、いつでも対話できるので、手紙以上の交流を既に行っている。なので私としては、正直戸惑っている。

また母を満足させるだけの形だけの手紙になってしまう。と、つい辛辣な気持ちになった。母にとっては「娘や孫たちから心のこもった手紙をお棺に入れた」という目に見える事実が大切であり、おそらく今後友人や近所の人たちに「いいお式だった。」と語るための無邪気なプロデュースなのだろう。

手紙は書きたい人は書いていくだろうし、花を贈りたい人は贈るだろう。気持ちの発露はそれぞれの自由。だから、母のこんなところが余計な采配だと思った。手紙を書いてこなくたって、誰よりも父の死を悼んでくれる親族だっていることだろう。目に見えなくとも、本質はどこにあるのか?という物事の捉え方を大切にしたい。と母を鏡にして思う。

とは言え、母はガッチリ物質偏重昭和世代なので、同じ価値観で折り合うことは難しい。というわけで、手紙を書くことにした。(笑)

どうせ書くなら意味のある行為にしたいので、父の人生を走馬灯のように振り返ってみるのはどうだろうか?と思いついた。その時その瞬間にしか書けない文章がある。燃やしてしまうためではなく、私のために書いてみようと思う。


☆父への手紙

父の祖父は、北陸あたりの農家の生まれだったらしい。当時、長男以外は農家を継げないので、独り立ちする必要があった。国の北海道開拓の政策にのっかって、北見に移り住んだ。開拓の歴史は過酷であったようだ。やがて父の祖父は薄荷の栽培で大当たりし、蔵を建てた。

父の父親は、そのおかげでなかなか裕福な薄荷栽培農家の次男として成長。やがて教師を職業としていた女性と結婚。男の子が二人生まれた。ところが父の父親は若くして病死してしまう。私にとっては祖父に当たるが、残された白黒写真の祖父はなかなかの美形だ。ほっそりして、優しく穏やかな雰囲気で、やや几帳面な感じが父にそっくりだ。

その祖父は、祖母が生活に困らないよう小さな店を残してくれた。小間物屋だったようだ。祖母は生活のために、小さな子供二人を親戚に預けて一日中働いた。父の幼い頃は母親と過ごした記憶はほとんど残されていない。お世話になった親戚宅では、まるで王子様のような待遇で、たいそう可愛がられたらしい。どんな風に可愛がられたか、父は後年私に話してくれたのだが、残念ながら私の記憶に残されていない。確か、ぐずっていると、ずっと抱っこしてくれて撫でてくれたり、添い寝してくれたり、親戚から愛情深くお世話をされたようだ。父の甘え上手な性格は、ここで助長されたようだ。

父は昭和9年生まれなので、戦中育ちだ。北海道の北見は空襲を受けなかったようで、しかも農家だったので食料には困らなかった。しかし、母親と過ごせない寂しさはずっとあっただろう。二つ年上の兄とは仲良しで、助け合って寂しさを紛らわせていたようだ。父は兄のことをたいそう尊敬しており、何でも兄の真似をしたがる癖は、後年までずっと続いた。(だから、兄の戒名が6文字なら、父も6文字にしたいのだ。)

父は引っ込み思案で大人しい性格だったので、兄が居ない時は部屋で一人過ごすことが多かった。幼馴染の5人は、そんな父に頻繁に声をかけてくれて、いろんなところに遊びに連れていってくれた。父の孤独な心は、幼馴染たちのおかげでたいそう救われた。父はこの御恩を忘れることなく、70歳を過ぎてから、彼らを毎年千葉に呼び寄せ、自宅に宿泊してもらった。思い出話は尽きることなく、毎回宴は明け方まで続いた。幼馴染の会は7年続いたが、やがて一人、また一人と他界し、父は最後の2名として残された。

父は高校を卒業してから銀行に就職した。そこで母(私の実母)と恋に落ち、28歳で結婚した。やがて千葉に転勤となり、夢のマイホームを建てた。当時は昭和40年代。戦後復興著しく、父は家に次々と幸せの象徴を現実化していった。家電三種の神器を皮切りに、黒電話もステレオも自動車もあった。裕福ではなかったが、中流の生活を維持していたと思う。

小さな頃、母親と共に時間を過ごせなかった寂しさを埋めるように、父の理想とする幸せな家庭を実現していった。娘の誕生日にはイチゴのホールケーキ。クリスマスには大きなパンダのぬいぐるみにリカちゃん。出張に行けばチョコレートを土産に買った。仮に昭和40年代にトレンディードラマが放映されていたなら、当時の若者の夢をほとんど実現したトレンディーなシナリオを地で行っていたのではないかと思う。(父は木村拓哉か!)

典型的昭和の幸せを絵に描いたような家庭で、姉と私はのびのびと育てられた。父は真面目なサラリーマンだったので、ほとんど一緒に遊んだ記憶はないのだが、穏やかでニコニコしていた顔ばかりが思い出される。

何回かドライブに連れて行ってくれた記憶があるので、週一の休みの日は、家族サービスにも余念が無かったようだ。よく覚えているのは、『幼稚園』という雑誌の付録に、厚紙で組み立てるオモチャがついていた。それを父が作ってくれて、記念写真を撮るのが毎月の楽しみであった。仮面ライダーの変身ベルトやバイクのハンドルなど、厚紙ながらも立体的でよく出来ていた。父は毎回几帳面に丁寧に作ってくれていた。

私が7歳の時に北陸に転勤。田園地帯で4年間を過ごした。私たちはとても幸せだったのだが、実母がだんだんメンタルの調子を崩していった。実母なりのストレスがあったのかもしれないし、魂のシナリオがそうなっていたのかもしれない。私が10歳の時に実母は自死した。この時のトラウマはこの後何十年経ても癒えることはなかった。父、姉、私それぞれに、過酷な人生の第二ステージに乗り出していくしかなかった。

父は、12歳と10歳の娘二人を抱え、どれだけ辛かったことだろう。すべてを投げ出したくなった日もあっただろうが、どこかで気持ちを切り替えた。私を養女にもらいたいという親戚の話も断って、結果的には私たちが高校を卒業するまでしっかり育ててくれた。当時の父は、仕事の激務と子育てと配偶者を亡くした悲しみの三重苦により、激やせしており、あのままの生活を送っていたら早死にしただろうと思う。当時の父は、子どもたちに対する責任感だけで、かろうじて生きていたような印象すらある。父の人生の暗黒時代であった。よく働き、私たちに愛情を注ぐことも手を抜かなかった。本当によく持ちこたえたものだと思う。この過酷な4年間、祖母が同居して私たちの面倒をみてくれた。父はおそらく、祖母と生活することで、多少は、幼少期の寂しさの穴埋めができたのではないかとも思う。

妻を亡くして4年後、父は今の母とお見合いの末結婚した。最初に私たちが母に懐いたことが父の決心につながったようだった。37歳初婚の母は、出会った当時はとても美しくて優しかった。私たちは母親の愛情に飢えていたので、心から嬉しく父の結婚を祝福した。また、穏やかな安らぎに満ちた、あたたかい家庭生活が営めると信じて疑わなかった。

私たち家族の人生第三ステージが幕を上げた。さらに過酷な暗黒ドラマが展開されていった。それぞれに主張をぶつけ合い、傷つけ合った。心がどんどん離れていった。私が高校一年生、姉が高校3年生の時に、父にお願いをして家を出た。姉と私は高校の近くにそれぞれ下宿をして、ようやく精神的安らぎを得た。このころの私は何度か自死への欲求に駆り立てられながら、結果的に自死した実母の存在に助けられ命をつないでいた。正直、生きることがすごく辛かった。今思えば、父もせっかく再婚したのに、家庭内不和に巻き込まれ、とてもつらかっただろうと思う。

話はちょっと遡るが、暗黒時代に、幸せなエピソードもあったのだと先日思い出した。嫌な記憶の方がインパクトがあるので、楽しい思い出は何も無かったと思っていたが、人の記憶とはなんとあやふやなものか。

先日、母とおしゃべりをしていて、「父はいつもニコニコしていて、誰からも好かれる性格だった。」という話題になった。その時、ふと中学生の時の記憶がよみがえった。修学旅行に出発する日、生徒たちが港の広場に集合していた。青函連絡船で青森に渡るのだ。広場には、生徒だけでなく、見送りの家族も大勢集まっていた。確か平日だったと思うが、父が見送りに来ていた。わざわざ仕事の合間を縫って駆けつけてくれていたらしいと、40年経過してから気が付いた。反抗期真っ盛りの私は、家族の愛情を湯水のように当たり前に浴びていたから、感謝の気持ちすらなく父の見送りを受け止めていた。今思えば、父の愛情がじんわりと伝わってきて涙が出そうになる。15歳の私は、「親なんかうっとうしい」という気持ちで、ムッツリしていただろう。扱いにくい可愛げのない子どもだった。

その時、父が担任の教師ににこやかに挨拶をしてくれた場面を覚えている。丁寧にあいさつをする父の笑顔を見て、子ども心に父を誇らしく思った。担任の教師は、その時の父の印象がとても良かったらしく、後日のホームルームの時間、生徒たちに「〇〇のお父さんは、笑顔が素晴らしくて、人柄の良さが伝わってきた。こんなお父さんに会えてよかった。ああいう人先生は好きだなあ。」と、熱く語ってくれたことも記憶している。自分の父が誰かに評価されるという体験は初めてだったので、とても嬉しかった。反抗期の私は家ではいつも荒れていて、父のことも嫌いだったけれど、本音は大好きだったんだろうなとも思う。思春期の心情は複雑すぎて、自分でも訳が分からず持て余し気味だった。荒れ狂う反発心をどう制御したらいいのか、まったくお手上げ状態。とにかく素直ではなかった。

この思い出話をしていたら、母が「そのお見送りの時、私も行ったのよ。K町の叔母ちゃんと一緒に。人がいっぱいいたから、足の悪い叔母ちゃんは、必死になって〇〇ちゃんの姿を探していたわ。」と話してくれてビックリしたのだった。あの場所に、母も叔母さんもいたことはまったく記憶に無かった。喧嘩の記憶しかない母との暗黒時代に、大切にされた事実も散りばめられていたようだ。当時の私は、人からの愛情を素直に受信するアンテナがぶっ壊れていたようだ。闇の中にも、光は差し込んでいた。私が見ようとしなかっただけだった。

このエピソードからも、どうやら父の笑顔は魔法のような効果があるらしく、接する人の心を柔らかく溶かし、癒す力があったようだ。最後にお世話になっていた特養の施設でも、スタッフさん達から愛されていた。「いつもニコニコしていて、お礼をいってくれるので、私たちとても癒されているんです。そばにいるとほっとするから、大好きなんです。」と、父を褒めてくれていた。

そういえば、自分で書くのも恥ずかしいのだが、私も、友人知人から、笑顔を褒められることが多い。特に何もしてはいないのに、「〇〇ちゃんから癒してもらってる。」と言ってもらえることもあるので、ちょっと嬉しかったりする。自分では意図してないのだけど、私にはそんなスマイル能力があるのかな?とちらっと思ったりする。もし、父の笑顔パワーを遺伝子に引き継いだのだとしたら、大切な宝物をいただいたものだ。意図して無理やり笑顔をつくっているわけではなく、無意識にやっていることなので、心がけるとか頑張るというつもりはないが。私が笑顔になる度に、父も私の中で生きていて、一緒に笑っているのかもしれないなと思った。

ここまで、走馬灯のように父の人生を振り返ってみて、父の魂のテーマは何だったのだろう?とあらためて考えてみた。シンプルに「感謝」ではないかと思った。感謝の感情を存分に味わうよう、様々な体験を経て、闇と光の織りなすオリジナルの人間ドラマを創造し、満喫したのではないかと思う。

「感謝」にも何層にも渡るレベルがあると思うのだ。ごく浅いものから、深いものまで、濃度は数えきれないグラデーションを描くだろう。父は、幼少期に母と共に過ごせない悲しみ(闇)の中で、親戚に大切にされたり、兄や幼馴染との楽しい時間という光を散りばめることで、繊細な色合いの感謝という色彩をいくつも発見したことだろう。最初の妻との死別(闇)から、再婚(光)、子どもの反抗期(闇)、子ども自立(光)・・・・など。父が作りあげた人生タペストリーは、織り上げた一枚を広げて全体を一作品として眺めるなら、『感謝への道』とでもタイトルがつけられそうである。魂はこのようにしてテーマを決めてこつこつと学ぶものなのだろう。父が織り上げた美しい作品の横糸に、私の人生が織り込まれていることを誇りに思う。

私の人生タペストリーも、まだ創作中ではあるが、確かに父の人生の横糸が織り込まれている。このように作品同士、影響し合いながら、魂は繰り返し成長していく。

宇宙の根源に戻るその日まで。大いなるスタート地点、たったひとつ「ONE」の意識に戻るその日まで、別々であるという幻想ドラマを満喫しながら、「ONE」のこの意識の何たるかを知るための旅を続ける。離れて、戻って、たくさんになって、ひとつになって・・・ぐるぐるとめぐりめぐるエネルギー。そのひとときの夢に、父がいて、私がいる。

父への手紙は、長くなってしまったが、言いたいことはシンプルだ。

「お父さん、ありがとうございました。」

☆☆☆

お父さん、読んでみていかがでしたでしょうか?

私なりの見方なので、お父さんにはまた違った人生の味わいがあったのではと思います。

40年前、激痩せしていたお父さん。お母さんと再婚しなければ、89歳まで長生きすることは無かったと思います。お母さんと出会えて、共に人生を歩めて幸せだったと思います。幼少期に味わった寂しさをお母さんは全て挽回してくれたのではないでしょうか。

最後の8か月は、お母さんと離れて生活することになりましたが、それも互いの関係を見直して、幸せをより噛み締めるためのスパイスになったかもしれませんね。お母さんは「お父さんに生涯かけて幸せにしてもらった。」と言っていました。誰かを幸せすることが出来たお父さんの人生を私はとても尊敬します。

お父さん、大切に育ててくれて、愛してくれて、本当にありがとうございました。お父さんの娘になれて私はとても幸せでした。お父さんのおかげで、私も魂を磨くことができたと思っています。

これから、お母さんはお父さんを亡くした悲しみと対峙していく日々が始まります。喪失感が癒されるまで何年とかかるかもしれません。どうか、そちらの世界から見守り、支えてあげてください。お母さんが余生を満喫して、せいいっぱい楽しんでそちらの世界に帰れるように、いつも愛を送ってあげてください。お願いいたします。

お父さんとは、また、魂の世界で本質の姿で再会できると思うので、その日を楽しみにしています。再会したら、きっと「ありがとう」としか言えないと思うけど。「楽しかったね。」と笑い合うのだろうなとも思います。

そちらの世界はいかがですか?しばらくゆっくりして、89年間の疲れを癒してくださいね。そして、次なる転生に向けて、楽しんで準備をされていってください。お父さんの心地よいペースで。

お父さんが次に地球に生まれてくる頃は、きっとすべての存在が幸せに調和している美しい世界になっていると思います。それも楽しみにしていてください。 

2024年1月30日 愛を込めて


☆追記

葬儀前日

父の湯灌が行われた。

参加者は、母、姉の夫、甥、姪、母の友人

(姉と私の夫は仕事。私は事情があり参加せず)

父は既に白い着物を着て、お棺に納められていた。パカッと開いていた口はきちんと閉じられ、化粧も済んでいたので、「まるで、入院していた時の顔と同じ。眠っている顔そのものだった。」と母。

湯灌は、葬儀社によりいろんなやり方がある。今回は、死装束の脚絆を着けるお手伝いだった。

母は、やはりたくさん泣いてしまったそうだ。「だって、もう触れないのよ。」と。明日、お棺に花を入れる時に、父の体に触れられるようだ。それが父の肉体との最後の触れ合いになる。

葬儀社スタッフさん達が、一週間きちんとドライアイスで保管してくださったからこそ、父の遺体は損なわれず、明日を無事に迎えられるのだと、私も感謝の気持ちでいっぱいになった。

チラッと、「やっぱり高額なエンバーミングは必要なかったじゃない?」と、S氏に突っ込みを入れたくなるが、もう済んだ事だ。結果オーライなら、それでいい。お互いにたくさん学び合った。そういうご縁だったということだ。

ちなみにS氏は、トラブル以降、何回か実家に足を運び、母に会っているので、少し気を許してくるようになったらしい。やはりどんな人間も完璧ではないし、欠けがあるからこそどこか可愛らしい。母はS氏が来る度に、帰りにペットボトルのお茶を差し入れしていた。先日は、母が背中にお茶を隠していたらS氏から手を出してきたと笑っていた。なんだかんだ言っても、仲良くなった様子。母は、S氏を、どうしようもないと言いつつ、不出来な息子を眺めるような感覚になってきたのかもしれない。

とはいえ

母は、私と電話で話しながら、

「花代、二万円、負けさせたわ!」と、誇らしげだ。「あれだけのこと、やらかしたんだもん。当然よ。」と。湯灌の儀で泣いていた母は、涙も乾かぬうちに、S氏に値下げ交渉をしたらしい。なんと逞しい。まるで魚市場のようなやり取りだ。

最新の見積書は、姉の夫と甥がじっくりとチェックし、疑問点をS氏に問い詰めるなど、最後まで気を抜かない連携プレーが行われていた。(今回は、会話を録音に残した。)

さて、いよいよ明日が本番だ。

父が安心して、天に昇っていけますように。



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