目に映るすべての事は宇宙メッセージ

 19日に体調を崩した。熱は無いのだが、何となく風邪のひき始めのようで、体はひたすら休養を訴えてくる。迷ったが、夜のアルバイトを断り、ひたすら寝ることにした。

夜、メッセージを受け取る。

自分の行きたいと思う所へ一人で出かけなさいと。

場所は何処でも構わない。とにかく動けと。そうするとエネルギーが動くので、おそらくパラレルの枝葉を増やし、可能性を創造できるという意図があったのだろうか。私の頭ではいくら考えても分からない。インスピレーションとは、思考で説明できる類のものではない。

翌朝、少し体調も回復していたので、前から行きたかった神社に併設するカフェを調べてみたら、定休日だった。うむむ、残念…今回はご縁は無いようだ。あっさりこの案は手放す。

そこで、ふと思いついて、大きな書店のある東京駅に出かけ、皇居前広場で深呼吸してくることにした。都心にしては、天地が広々と開けているので、エネルギーを循環させやすい。

家を出て、いつものように空を眺めながら歩いた。面白い形の雲が見つかれば撮影しつつ、ゆっくりと進んだ。

野鳥が十数羽、逆V字の美しい形を保って連なったまま、上空を通り過ぎて行った。先頭を飛ぶリーダー役が、カッコイイなあ〜と、心の中で拍手を贈った。

(写真∶ガンの編隊飛行は「蕪栗ぬまっこくらぶ」のホームページから拝借)


やがて、V字の右側の列が途中から離脱。大変だ! 

美しく均整の取れていたV字が、片方短くなり ✓ みたいな形になってしまった。

どうやら真ん中あたりを飛ぶ1羽が、余所見でもしてしまったのだろう。全然見当違いの方へ飛んでいったのだ。あのはぐれっ子は、やんちゃな性格なんだろうか。それともうっかり者?人間でも集団になれば、必ず外したことをしでかす存在が現れる。鳥の世界も同じなんだ。

その鳥の後ろをついて飛んでいた片方の列の仲間たちは、つられて見当違いの方へゾロゾロついていってしまった。こうして、美しいV字の片方の列が途中からポキっと折れてしまった。

ありゃりゃ~

どうすんだか…

ハラハラしながら様子を見守っていると、何と、先頭を飛ぶリーダーが、見当違いの方へ飛んで行ってしまった数羽の方にすかさず(このリーダーの判断は、たった数秒の間に行われた)方向転換し、はぐれっ子たちを迎えに行ったのだ!

はぐれっ子の数羽は、慌てて、元の隊列に戻ったのだが、一瞬V字が、わ〜っと入り乱れた。先頭としんがり役は変わらないが、列の順番は適当なようだった。つまり、前から3番めでも6番めでも、その時々で適当に隊列を組んでおり、こだわりは無いようだ。

一度乱れた列はなかなか調わず、最後はぐるぐると円を描いていた。晴れ渡った空、太陽の光をバックにして、野鳥たちが円を描いている様を感動しながら眺めた。ここに、自然界からの大切なメッセージがあるように感じた。円は歓喜の踊りのようにも感じられた。

直線 = 行動 = 進行

円 = 調整 = 異質なものを和える動き

たくさんの個性が集いながらも、まるで一つの意思を持つように動くことがある。その時はおそらく無心になり(エゴが消えている)潜在意識の奥で、自然と一体となり、無意識に最善の動きをさせられているのではないかと思う。生物のひとつの種として、地球上の循環に逆らわない行動を取って、見事に異質な種同士が生かし生かされ、ミクロの循環がマクロの循環に影響を与え、すべての命が躍動する。そういう風に出来ている。

野鳥の動きから、そんな気付きを得た。

人間は、思考に頼りすぎてしまい、自然界の循環の中で、どんな役割をしているのか認識できなくなっている。現代の様々な不都合にそれが顕著に現れているのではないだろうか。

美しい整列が乱れる ⇒ 円を描く(和える) ⇒ おさまるところにおさまり整う ⇒ 進む

野鳥の動きは、魂の成長のための人類の進化過程にも例えられそうであり、はたまた、宇宙そのものの進化にも話を広げていけそうだ。例えば円を描く(和える)=二極の統合 ⇒ 内面宇宙の進化 と説明することも出来るだろう。

『皇の時代』について、小山内洋子さんの著作を読みたくて、この日東京駅近くの書店に出向いたのだった。(2冊ゲットし、ホクホクしながら外食もせず帰宅した。そう言えば、最近あまり買い物もしなくなった。生活もシンプルになった。本当に欲しい物は実は少ないものだ。)

ざっくり説明すると、宇宙は自転公転しており、于由という目に見えないエネルギーのいわゆる太陽みたいなものを中心に、くるくる巡っている。自転しているから、この宇宙自体に昼と夜がある。今までの2500年が夜の時代であり、今は昼の時代への過渡期である。夜2500年と昼2500年を2回繰り返して1万年でワンセット。今はこの宇宙で46代目の高次精心文明へ入りかけている。于由(宇宙太陽)からのエネルギーが変わってしまったので、もう今までの低次物質文明のやり方ではうまくいかないようになっている。

つまり、今は夜から昼への移行期で、大転換期に当たるため、様々な混乱が現実化され噴出しているのだ。

宇宙の大きな流れをベースに全てを捉え直してみると、なるほど、あらゆる現象の意味がスッキリ理解できて、辻褄が合っていることに驚く。宇宙法則に従い、あらゆる存在は一定方向へ流されて、動かされている。

抵抗して、違う方向へ行こうとしても、それすら宇宙全体から見れば、想定内。移行期に違う方向へ行こうとする役割を担うことで、周りに影響を与え、結果全体の精心的進化へと誘ってくれる。ハッキリ言ってしまえば、悪役も宇宙を進化させるために必要であり、一人の働きがひとつ欠けても宇宙は成り立たないことになる。すべては、今、必要な動きをしていて、全体が調和に向かう。

大きな大きな宇宙の公転(周期7京年)から視点を今に戻してくると、全ての現象を善悪(エゴの都合)で捉えすぎていたことに気付かされる。

あの野鳥の生態からも、宇宙の自転公転の動きによる影響を説明することができる。宇宙法則は、このように全てのベースになっているので、分かりやすい。どこか破綻してしまう説は、真理ではない証しなんだろう。

こんな壮大な気付きを得て、帰宅したところ、母から珍しく電話が来た。

母「お父さん、危ないよ。今朝施設で意識障害になり、入院した。」

その言葉を、意外なほど冷静に聞いている自分がいた。私の冷静すぎる反応に母は驚いて、私が寝ぼけているのではないかと反対に心配された。

この移行期の世界では、私の反応はあまりに情が薄く、冷たい人と評されるのだろうが。私の心はまったく動じなかった。「今日の天気は雨だよ」と言われたのと同じような反応だった。「うん、知ってるよ。だって、晴れれば次は雨が降るものでしょ。」という感覚。

とりあえず、病院からの次の連絡待ちをするため、自宅待機になった。

一人で、ぼんやりしながら、しばらく携帯電話の前に座り込んでいた。

父にとって、最善の旅立ちになりますよう。タイミングは宇宙の流れに委ねよう。私が思考であれこれ考えたり、今お別れは嫌だと抵抗したところで、どうにもならない。父にとっての最善は、私達家族にとっての最善になる。

確かに、頭の中で思考はゴチャゴチャと、何かうるさく喋り続けていた(こうなったらど〜するんだなど、不安や焦燥や怒りを誘い出す思考癖)が、あまり取り合わなかった。思考とはそういう働きをするものだし、思考は私そのものでもない。そう意識したら、頭の中のゴチャゴチャしたお喋りは、遠くから聞こえてくる雑踏の響きのように弱々しく変化していった。 

同時に、いつもなら、思考に誘発されて出てくる感情たちも、踊り子のごとく舞台袖で今か今かと待機しているのが何となく感じられたが、舞台監督(私)が緞帳を上げなかったので、「あら、今日の出演は不要なようね。」と、あっさり引き下がっていった。意外とサバサバしているものだった。

こんな時、出来ることは何も無い。

夜、母から再び連絡が入った。

病院からの電話によると、血圧や酸素濃度が安定し、一旦落ち着いたそうだ。夜中も携帯電話の音が鳴るようにして、眠った。

不思議と久々にぐっすり眠れた一夜だった。


☆人生の後半戦で執着を手放す話

小林正観さんのお話をさっきYouTubeで偶然耳にした。

人の一生は、必ず折り返し地点が設けられている。フルマラソンも同じ。なぜなら、風向きにより、追い風や逆風が発生するので、大会ごとにタイムの条件が合わなくなる。だから、条件が同じになるよう、必ず折り返しさせるルールになっている。

宇宙ルールも同様。

人生前半戦は、執着を糧にどんどん進んでも追い風になっている。しかし、折り返し地点を過ぎれば風向きは逆になるので、執着をどんどん手放していく生き方の方が楽になる。人生前半戦と同じように執着にしがみついて生きていると、かえって苦しくなる。

後半で、風向きが逆になる(夜の時代⇒昼の時代)のが宇宙ルールだと理解すると、スルスルと抵抗なく、出来事を捉えられるようになる。川の流れや、海流に乗って航海する時、とても快適で楽ちんだということは、容易に想像できる。このフルマラソンの例え話はとても分かりやすい。

関連して、幸せは自分が決めるという話。

幸せは、他の誰かが決めてくれる?いや、私が決めれば幸せになる。誰かが、それは幸せではないと判断を下したとしても、そんなの関係ない。私が幸せであれば、間違いなく幸せなのだ。

この例え話も素晴らしかった。

私が駅に向かって歩いている。向こうから人がやってきて、通り過ぎて行った。その人は私にとって、ただ、通り過ぎていった人である。

次に、向こうからやってきた人は、私にチラシを差し出した。私は少し嫌な気分になった。その人は私を嫌な気分にさせる人である。

しかし、チラシを差し出しても、何にも気にしなければ、その人は、ただ、通り過ぎていった人になる。

この、すれ違う人を出来事に替えてみる。

その出来事をどう捉えているかは、私である。ただ、通り過ぎていくも、反応してラッキーだとか、アンラッキーだと、怒ったり、喜んだり、一喜一憂しているのは私であり、出来事はただ、通り過ぎていくものである。

幸せは自分の内側にしか存在しないというのは、このことからよく分かる。

以下は私の連想

空気があるから、私は生きていられる。空気を生み出してくれる森の木々や、自然の循環に生かされている今、無事に呼吸をしている私は、今まさにお陰さまで生きている。ありがとう。ああ、幸せだ〜。呼吸一つひとつを体感するたびに、ただ、だた幸せを実感している。気管を通る呼吸の感触に愛を感じている。私は存在するだけで、深い幸せを味わう。

例えが大げさになった(笑)

上述の空気を、日常の当たり前に置き換えてみよう。

妻がいる、夫がいる。友が、我が子がいる。水道を捻れば綺麗な水が流れる。スーパーに行けば、食べ物が買える。何でもいい。

当たり前として、通り過ぎていくものにしてもいいし、不快な相手や出来事と捉えてもいいし、私が幸せだと決めれば、今すぐに幸せになれてもしまう。これが幸せのカラクリである。

どう考えても不幸だろう?という出来事にも、捉え方次第という例がある。

スピード違反をして罰金を払わされた。なんて不幸だ!それはお気の毒様という出来事を例にしよう。

しかし、前日70キロで走っていた道を、今日は昨日の反省から50キロ制限で走っていたところ、いきなり子どもが道に飛び出してきて転んでしまった。あわやと急ブレーキ。なんと、子どもの10センチ前でタイヤが止まっていて、子どもを轢き殺さずに済んだ…という体験談。前日に速度超過で罰金を取られていなければ、スピードを上げたまま走っていて、大惨事を招いていたかもしれない。そう思い至った体験者にとって、前日の罰金はラッキーな出来事と捉え方が変化する。出来事は変わらない。ただ、通り過ぎていく。個人の捉え方が幸、不幸に変化していく。

正観さんの講演会に10回以上足を運んでいる方は、会場に来る前に車のトラブルを起こしてしまった。彼は正観さんに、このように発言した。

「この出来事は、私が招いたのですね。(私に必要があって体験したのですね)」

トラブル = 不幸

ではないということ。

正観さんは言う

「だから、宇宙には、良い悪いという判断は無いのです。」と。


☆追記

12月21日

入院中の父

血圧は安定しているが、自力呼吸が弱いので酸素マスクをつけている。食べることが出来ず、点滴のみ。胃ろうは母が断った。言葉を出せないが、目で会話ができるらしい(看護師さん談)。手足が硬直して、胎児のように縮こまっている。原因不明。医師によると、点滴のみの場合、三ヶ月だとか。


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