右脳と左脳〜苦しみはどこから生まれるのか

 昨日あたりから、右脳左脳、顕在意識潜在意識などの情報が集中的に届いている。

ふと見たFBなどの投稿、雑誌の片隅の記事、本屋で何気なく手にした新刊、You Tubeのオススメに流れてくる動画、etc.

次はこの学びなのだな。と思う。シンクロニシティとも表現されるが、現実は自分が創るので、意識がフォーカスすると、どんどんその分野の情報が眼の前に出現する。

苦しみの原因は、大雑把に言ってしまうと

思い込みから発生しているのではないだろうか。

思い込みを作るのは、主に左脳の働きだろう。

右脳の働きの特徴は、比較判断が無くなる。すべては繋がっている。境界が消える。すべてを穏やかに受け入れている境地になる。つまり、私たちが求めて止まない、覚醒の境地とも言える。

右脳左脳は、バランスだと思う。左脳(自我、エゴ)の働きが無ければ、私たちは現実に対処できない。ただし、左脳優位に生きていくと、環境破壊や戦争にまで発展する。どこかでバランスを取り戻す必要がある。きっと誰もが気がついている。ただ、どうしたらよいのか分からないのだ。生き方を変えるのは、多大なエネルギーを必要とする。余程の出来事が起きない限り、おそらく私たちは変わらない。自我はそういうふうに働くからだ。

先程、ふと思ったことを書いてみる。

思い込みを手放す切っ掛けについて。

先程、とある大きな駅に到着し、お手洗いに入った。清潔で、個室になっている。私には当たり前の条件。

そして、ふと思い出したこと。

ヒマラヤにダライ・ラマの灌頂を受けに行った方々の旅行記を本で読んだ。ヒマラヤは、いつか訪れたい憧れの場所だ。現地までバスに乗り、過酷な旅を続ける間に、西洋人たちは思い込みを手放しておおらかに成長していく。その切っ掛けのひとつが、トイレ事情である。

道中のトイレは、ちょっとした木陰や草むらの中。建物に付属のトイレは、あったとしても、真っ暗だし凄い臭いだ。最初は怯んでいた西洋人たちも、だんだん慣れていく。だって、キレイで安心な個室など、存在しない地域を旅しているのだ。どうしょうもない。トイレはこうあるべきという思い込みを手放さない限り、旅は続けられない。

この行を読んで、私にできるかな?と思った。日本での当たり前は、海外に出かければ、当たり前ではなくなる。自我を降参させるには、よい機会になるだろう。

私の体験では、入院が、思い込みを手放す切っ掛けになった。

私は、毎日入浴して髪を洗わなければ、耐えられないという思い込みがあった。洗わなければ不潔だし、不快感に耐えられない。だから、災害や断水などを酷く怖れて生きてきた。

27歳の時に初めて1ヶ月ほど入院した。かなり昔だから、今は違うだろうが、腹部の手術だったので、入浴洗髪をさせてもらえなかった。

ところが、全然、問題なかったのだ。もちろん欲を言えば、身体をキレイにするに越したことは無い。しかし、私の意識は現状を全て受け入れていたし、それよりも、数々もたらされる事に感謝しか感じなかった。入院中は、おそらく覚醒と言われる脳の状態になっていた。

落ち着いていて、静かで、穏やかで、幸せに溢れていた。涙は感謝を感じた時に流していた。毎日が感動だった。

あまりの出来事に、左脳がほとんど機能しなくなっていたのだろうか。身体が回復モードになると、脳波がスローアルファ波になる。それは催眠状態や、瞑想状態になっている脳波だ。普段働かない右脳が活性化されていたのかもしれない。

つまり、脳の状態に私たちは左右され、苦しみを生み出している。まだ、起きていない未来や、過ぎ去った過去に拘って、ついつい不安に陥ってしまう。

今ここを感じることを思考は出来ない。

今ここは、至福である。

その鍵はどうやら右脳にあるらしい。


☆清水友邦さんのFB投稿を紹介


「左脳の言語中枢が低下して思考が静かになって右脳が活性化した時、日常的な意識の自我が消滅します。

その状態を、あらゆる苦しみを離れた永遠の安らぎの境地「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼びます。


中国古代の道家の文献『列子(れっし)』に「忘坐(ぼうざ)」という話が出てきます。


宋の陽里という所に華子という人がいました。

華子は「忘れてしまう病」にかかりました。

道を歩いては歩いていることを忘れ、部屋で座っていても座っていることすら忘れてしまいました。

先のことは考えられず、過去のことを憶えていられませんでした。


華子の妻子は彼のことを心配して医者、占い師、祈祷師とあらゆる手を尽くしましたが治りませんでした。

途方に暮れていると、魯(ろ)国の学者が華子の病を治せると断言したので治療を乞いました。

「ただし、この方法は門外不出の秘法なので、決して他の者に見せるわけにはいかぬ。」と言い残して華子と学者の二人きりで七日間家に籠もりました。

果たして七日後、華子の忘れる病は完治しました。

喜んだ家族は魯の学者に財産の半分を差し出しました。


ところが、元に戻った華子は、急に怒り出し、妻を追い出し息子を殴りつけ、病を治してくれた学者に矛(ほこ)を持って追い回し始めました。

訳も分からないままやっとの思いで華子を縛り付けて、なぜ怒るのかと問いただすと華子は恨めしげにこう言いました。


「俺が病にかかっていたとき、天地の存在を忘れるくらい心が落ち着いていた。ところが病が治った途端、過去数十年の生死や損得、好き嫌い、喜怒哀楽の感情が一気に吹き出して、その記憶に飲み込まれそうになった。これから先の俺は死の恐怖と、悪しき記憶に乱されながら生きていくことになってしまった。忘却という一瞬の心の安らぎを得られない境遇を嘆き、怨んであのような真似をしたのだ。」


孔子の弟子の子貢(しこう)はこの話を聞いて不思議に思い、孔子に話してみると孔子は「お前には理解できないだろう」と言いました。


『列子』の忘坐の話は左脳優位になった話です。

人間には右脳と左脳という二つの意識があります。

左脳には言語、計算、分類、区別、分析、 判断、記憶など様々な機能があり、社会の常識や、仕組みなどを理解して、過去の記憶の中から情報を取り出して、分析、整理します。

未来を予測して身を守るための行動へと反映しています。


しかし、他人から低い評価を受けたり、否定されると左脳の言語中枢は自分の都合の良い思い込みの物語を作って自分を守ろうとします。

自我は過去の記憶で成り立っているのです。


左脳は過去の記憶の中から情報を取り出して、絶え間なくおしゃべりを続けるので、今ここに安らぐことができません。

左脳優位が行き過ぎると、「華子」のように恐怖や不安、怒りなどのストレスにさいなまれます。


左脳の機能が低下する脳卒中に襲われた脳科学者がいます。

脳科学者のジル・ボルト・テイラー博士は、自宅で脳の血管が破裂して歩くことができず、話すことができず、読むことができず、書くこともできず、また自分の人生の出来事を思い出すことができなくなってしまいました。

そんな危機的な状態の時に、不思議な体験をしました。

自分の身体の感覚と空間の境界が消え、無限のエネルギーと一体となったのです。

自分自身を固体として認識できず、自分が溶けたエネルギーの流動体として認識していました。

過去・現在・未来という直線的に過ぎ去る時間がなくなり、永遠の今だけがありました。

何事もそんなに急いでする必要はないと感じるようになりました。

自分が巨大になり広がっていくのを感じていました。

ストレスがすべて消えて静かで平和で解放された、至上の幸福、やすらぎに包まれていました。

その体験を涅槃(ニルヴァーナ)と表現しています。


左脳の言語中枢の活動が減少して頭の中のおしゃべりが鎮まり、右脳が活性化すると至福に入るのです。

日常生活の心の状態は、すでに終わった過去にこだわっています。

未来を夢想したり良くない事を想像して不安になったりしています。

思考は今ここにいられません。

今ここに在るとき不安や恐怖は存在できません。

今この瞬間から外れて過去の記憶に囚われたり、未来を想像している時に心は不安や恐怖に襲われます。


思考に同化することをやめて、今この瞬間に意識を向けると、思考や感情に覆われていない本当の自分が現れます。

今まで真実と思い込んでいた世界は、思考が作り上げた夢だった事に気がつきます。」

「夢から目を覚ます事」

これがあらゆる精神的な道の共通項です。

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