あちら側の世界

 人は100%肉体を脱ぐ日がやってくる。

なのに、何故か、命の灯火が消えた後の事を語りたがらない。学校でも家庭でも。

夕飯の食卓で、その類の話題で盛り上がる家庭は珍しいかもしれない。

宗教がその役目を担っているのだろうが、天国やら地獄やら、諸説あり、文化背景もあり、混乱する。信者獲得のため、恐れの感情を煽り依存させるところも見え隠れする。死後、より良い世界に行くために、〇〇せよ。との教えは怪しい。神は、そんなに心が狭いのだろうか?死後が怖くて、今を生きることに集中できなくなる。そんな宗教必要だろうか。

子どもの頃は、夏になると特集されるテレビ番組で、ぎ○さん などの霊能者の話を怖いもの見たさで視聴していた。私などは、そんな程度だ。

さて、昨日の出来事。

ランチタイムに、母が急に死後の世界について、熱く語り始めた。

母は、父の死を思い悩むあまり、(父は施設に入っているが、しっかり生きている)我が家の本棚にあった、昔々の ぎ○さんの本を再読したそうだ。霊能者ぎ○さんの説によると、人は死後、37年間転生できず、あの世の道をひたすら歩き続けるのだとか。残された家族が仏壇に供えた花が、その道端を彩り、手向けた線香の香りが良い香りを届けるとか。母は大真面目で、「棺桶に、登山の時によく使う木製の杖を入れてあげようと思うの。37年間歩き通しなのだもの。杖があった方が楽よね。後は、お父さんが好きな囲碁の本も。」

私は、母の真面目さと父への真っ直ぐな心遣いを感じて、胸がギュッとなった。ぎ○さん、そんなこと書いたのかよ…あまりに偏りすぎの信念ではないだろうか。魂はもっと自由な存在だ。千の風になって の歌の方が本質に近いと私は思う。

ただ、あちら側の世界は、目に見えない。誰かが書いた本を参考にするしかないのが現状だ。

私は、母が気の毒になってしまい、つい余計なことを言ってしまった。

「へえー。ぎ○さんは、そんなことを書いているんだね。私は、人は亡くなると、病気も不調も消えてしまい、ものすごく元気になると聞いたことあるよ。自分が好きな年代の若々しい姿になれるんだって。もしお父さんが、三十代の体を選んだら、杖は荷物になって旅路の邪魔になるかもよ。」

母は「あら、そんなに都合がよいようになってるわけ?」と、不信そうな表情をした。側で聞いていた姉が、母を庇うように、私に目配せをした。「ただ、母の信じる世界を尊重してやれ。」と姉から無言の苦言が届いた。

未来に必ず訪れる父との別れの日を、今から覚悟して、心の準備をしようと努力している母の気持ちを考えると、切なかった。ぎ○さんの説が正しいか誤りかは、知らない。でも、最愛の人の魂が三十七年間、ひたすら独り道を歩き通しだと信じてしまったら、母が可哀想だと思った。母は、長旅を考えて、考えて考えて、きっと杖を持たせてあげれば、少しでも歩きやすいのではないか?と思いついたのだ。眼鏡や補聴器も無いと不便だろうと考えたそうだが、お棺を火葬にする際に、溶けたりして火葬場に迷惑をかけるので、燃えやすいもので選択したようだ。それで、本と杖なのだ。

私は、ぎ○さん以外の本を母に読んでもらえたらいいなあと思った。そこで、今日、大きめの書店に行って、死後の世界を解説した本を探してみた。木内鶴彦さんの臨死体験や、桜井識子さんの本など、私的には面白いと思うのだが、情報量が多すぎる。普段読書しない母に渡しても、積読になるだけだろう。小林正観さんの本など、いいかな~と数冊立ち読みしてみたが、母を想定すると、しっくりこなかった。

母は、昔から少し霊感のようなものがあり、亡くなった方の魂を感じる体験がある。先日、母のイケメン弟が闘病の末亡くなった。死の三日後に、夢に表れ、挨拶していったそうだ。「その時に夢に現れた弟さん、元気にピンピンしてたでしょ?」と言いたいのを私はグッとこらえた。

私がいろんな本を読んで、こんな感じ?と想像するあちらの世界は。

肉体を脱ぐ→光が現れる→そちらの方へ進む→トンネルを抜ける→お花畑→川→むこう岸に知り合いが迎えに来ている→あちら側へ渡る

このあたりまでは、臨死体験者にだいたい共通するプロセスだ。

その後は、死者が生前信じていた通りの想念の世界に分かれるのではないだろうか。意識エネルギーの世界は想ったらすぐに実現するらしい。

だから、自分が信じる世界が、道を三十七年間ひたすら歩くだったら、そうなる。私は嫌だけど、そういうのが好きな修行チックな魂もいる。良い悪いはない。父がそうしたければ、杖を片手にお遍路すればよいけど、父は果たしてそうするだろうか。母には悪いけど、大好きな囲碁の仲間がいっぱいいる、安らぎの世界へ行くかもしれない。

ちなみに、私なら、地球の輪廻転生システムのトラップをかわして、真っ直ぐ宇宙を飛んで行きたい。経由地のアルクトゥルスへ魂を飛ばして、二年前に旅だった友の魂に挨拶し、それから故郷の星へ帰ろうと思っている。地球体験は、「面白かった~!」という思い出にはなるだろうが、後悔や執着はもう残さない。全ての体験に感謝して、何も残さずに飛んでいきたい。墓も戒名も何もいらない。棺桶に何か入れてもらったって、持ってけないし。残された家族の思いやりの心だけは感謝して受け取るけど、物質的な形は正直、何一ついらない。だって、風に名前や記念碑は不要だ。私は風のように千変万化する永遠の意識エネルギー。瞬きほどの時間の記憶を この物質次元に、引掻き傷程度の爪痕を残したところで、私には何の意味も無い。無理矢理何か残したとしても100年もすれば朽ちて消えて行く。(残された家族が、自分の気持ちが楽になるのなら、好きなようにやればいいだけ)

ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

私が私の人生を通して得た数々の気づきを 

大宇宙が分かっていればいい。

それがすべての意味。

母はやっぱり、三十七年間、死後の世界での道をひたすら歩きたいだろうか。それが母にしっくりくるなら、そうなんだろう。そこに母の魂の学びや喜びがあるのかもしれない。ゆっくり自分の内面と対話しながら、人生の気付きを整理するのもいいだろう。独りになるのも、豊かな時間だ。魂の存在なら三十七年なんて、あっという間に過ぎ去るだろう。落ち着いて考えたら、それもいいかもしれない。人それぞれに思い描く死後の世界があっていい。死んだらいずれ分かることだ。

結局は、母の信念を尊重することにした。もし、母の魂が必要なら、母に一番ベストな情報が、よきタイミングでもたらされるだろうから。

私がそうであったように。

まだまだ先の話だけど、もし父に万が一のことがあったら、『千の風になって』の本を母に渡そうとは思う。

「お父さん、死んだら風になりたいって、以前、言っていたよ。」と。


昨日、バスに乗っている間、上空に羽を広げた鳳凰のような雲があり、30分以上、消えることが無かった。雲はたいてい流れて行ったり形を変えるので、不思議に思って撮影したもの。

鳳凰の斜め後ろから眺める感じで、顔や目の形も浮かんで見えた。

バス停に到着して、しばらくしたら奇麗に消えた。無事に帰れるように、道中、私を送ってくれたのかな。

目に見えない世界を感じると、とても豊かな気持ちになる。この世界はとても美しい。

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