チベット死者の書と催眠療法
『チベットの死者の書』を読んだ。
177頁ほどの薄さなので、昨日の午前中に1時間ほどで読了。
この文庫本も、魂の兄から、誕生日に送られた書籍の中の一冊だ。
恒例のスカイプ宇宙会議において、私があまりに、河口慧海の『チベット旅行記』に心酔していることを披露したため、わざわざS市にある慧海コレクションを保存する博物館まで赴いて、図録を探しに行ってくださった。ところが図録は売り切れであったため、兄の愛蔵本コレクションの中から、こちらの本を譲ってくださったのだった。何と有難い。思いやりが心に沁みる。
『チベット死者の書』については、確か、数年前にアーカイブのNHKスペシャルで見た記憶があった。内容はあまり覚えていないが、日本の通夜や葬式、四十九日に比較して、さすが仏教の本場は死者に手厚いのだなあ~。と、そのあまりの熱気に当てられた。日本の僧侶が本気ではないと言いたいわけではない。ただ、導師としての熱量を比較すると、あっさり澄まし汁と、こってり豚骨スープくらいの違いがあるように感じた。その頃の私は、死は忌み嫌うもの最たる対象であったので、どちらかというと、怖いもの見たさの感覚で、視聴していた。
今年に入ってから、チベット冒険譚に夢中になっていった経過は、過去のブログに書いた通りである。数ある前世の中に、きっと修行僧やラマ(チベット仏教の僧侶)の人生もあることだろう。なぜか分からないが、チベットの風景や仏教に関する何かを目にすると、深い郷愁を感じてしまう。「ああ、懐かしゅうございます・・」と、私の奥深くの存在が、涙する不思議な感覚となる。
まだ、前世療法でしっかり思い出したわけではないが、本格的に催眠を学ぶ前に、セルフヒプノにより、チベット?あたりの僧院で過ごす小坊主時代を垣間見たことはある。10歳くらいの男の子で、同年代の親友(夫の前世と思われる)と支え合うように生きていた。その親友は、腹痛で苦しむ私を夜を徹して看病し、お腹や背中をさすり続けてくれていた。当時は薬など手に入るわけもなく、病にかかればあっけなく死んでしまった。この小坊主も、早逝している。しかし、感覚として、その小坊主の心境は、たいそう穏やかなものだった。親友との魂のつながりへの深い感謝を胸に、幸せを感じながら息をひきとったように思う。物質的に恵まれてはいなかったが、心は驚くほど清く豊かだった。今思えば、チベット仏教の死生観を智慧として学んでいたため、死は再生への出発であると理解していたのだろう。その親友とも、また肉体を持って会うことが出来ると信じていたから、「また、来世で会おうね!」と安心して旅立ったのではないかと思う。
もし、この小坊主が10歳で亡くなり、四十九日を意識体として過ごしたなら・・・・貧しい小坊主の立場であるから、導師による枕経を受けることは無かっただろうが、素直に三段階のバルドに進んでいったのではないかと想像する。この魂は、肉体を持っての体験をまだ必要としていたため、解脱することなく、再生のバルドへと進んだ。仏の境地とは、涅槃に赴くということであり、めでたく六道輪廻を卒業することでもある。私はまだ、肉体を伴うリアルな学びに執着があったのだ。現世のエゴ意識では、生きる事は苦痛であっても、死の関門を通り抜け、反転する世界(魂の世界)へ戻れば、生の苦痛は貴重な体験であり、「また、人間やりたい~!」と願ってしまうくらい、中毒性があったのかもしれない。特に、親しいソウルメイトである夫との、配役を取り換えてのドラマ体験は、面白くてたまらなかったのだろう。
また、清く軽いエネルギーの魂は、天界に近すぎてすぐ戻ってしまう。魂の学びの観点からすると、解脱体験を本格的に味わうには、う~んと俗世間でもまれて、汚れ傷ついて、ボロボロになって、地の底を這うような重いエネルギーを身に纏う必要があった。仏教では、輪廻転生システムから早く離脱して、人間卒業することを勧められているようであるが、魂の観点では、敢えて逆方向を目指す段階もある。これは、催眠療法から得た私の感触である。六道輪廻を必要とする段階もあり、しっかりそこで学んだら、解脱して次のステージへ進む。その魂が、今世で何を学びたいか。その違いであり、各段階に、良い悪いは一切ない。もちろん優劣も無い。
さて、「バルド」というワードが出て来て、「?」と思われた方のために、チベット死者の書の概略を書いておく。この智慧を知っておくと、死は恐怖ではなくなる。この書は、死者のために書かれたというより、生きる人のために書かれたと観ることも出来る。
☆チベット死者の書とは
「死後の四十九日間、死者がパニックを起こさないよう切り抜けられるように導く教え。
チベット仏教の仏典。中有(死んでから次の生を受けるまでの期間)において聴聞することによる解脱。英訳は世界的ベストセラーに。臨終に際しラマによって枕経として読まれる実用的経典。
臨終の時から四十九日間にわたり、死者の耳元で話し読み上げられる。人間の感覚器官の中でもっとも原始的な耳は、死の後にも機能し続けて、死後の身体の中で働いている意識がイメージを構成するのに大きな役割を果たしているという認識をチベット人は古くから持っていた。
迷いの道である輪廻から解放されて解脱し、涅槃に入ることを目標。解脱の最大のチャンスが死の直後であると考えられてきた。「死後にやってくるバルド(意識だけの状態)の体験を通していまだに未熟だった人も生命の最も深い真理を理解することができる。だから死は全てを奪うものではなく、ほんとうの豊かさを与えてくれる機会だというのです。」
肉体を失った意識はもろもろの外界の刺激から離れることによって穏やかになり、もっとも根源的なものに触れることができる。チベット人にとって死は仏の意識(菩提)にもっとも近づくことができるまれなチャンスである。そのため死について積極的に話題にもするし、余命宣告されても動じることなく受け入れる。深い瞑想と死は限りなく同じ状態であると考えられている。
手段を尽くしても解脱が達成できなかったときに、輪廻する世界のより良い方を選択し次の胎へと生まれるよう導く方策も。
死後の三つのバルド
①死の瞬間のバルド~生命の本性であるまばゆい光が現れる
この光の中に入っていけば、仏の境地を得る。
↓
もしも、これまで積み上げて来た様々な行為の力によりこの光から引き離されてしまった場合は、次の方策へ
②心の本体のバルド~慈悲に満ちた優しい寂静尊→恐ろしい憤怒尊が現れる。死者の意識は最大の危機にさらされる。これは心の作り出した幻影。
↓
それでも仏の境地を得られなければ、次の方策へ
③再生のバルド~それぞれの世界を示す薄明りが現れる。ここまで来てしまった死者の魂には慈善の策として六道輪廻のうち、より良い世界へ生まれ変わるチャンス。
49日間にわたって現れる光やビジョンはすべて死者自身の意識が作り出したもので一切が幻影であると何度も強調される。チベット人による意識のありようについての智慧の書。ここに説かれている光とは、宗教や人種を問わず死に瀕した人が見る臨終の光や音に通じる。
チベット人の心はずっと平穏。普段から死を生の一部として意識し、来世に備えて体、心、言葉で善い行いを積むように心がけているため、死を前にしても動じることはない。死は服を着替えるような感覚で恐れるものではない。
一方、私たちの世界では、物質的に豊かでも心は不安定だ。死の間際まで死をまったく無視して生きるため、死に直面すると、恐怖し、長く生きようとする。死に対する知識を取り戻すべき時がきている。生は死の一部であり、忌むべきものではないことに気づき、自分の人生を見直す契機ともなる。」
(上記概要は、ウィキペディア と ジブリ学術ライブラリー『チベット死者の書』とは 石濱裕美子さんの記事から要約・抜粋した)
☆催眠療法との共通点
死者へ聴聞を通し導く(耳元でお経を唱える)のであるが、「このような場合は、次のような祈願の言葉を唱えるべきである」と、状況に応じた祈願文が連ねてある。これこそ、まさに、催眠療法の際に、セラピストがクライアントを誘導するスクリプトに相当する。バルドとは肉体の感覚を離れた意識状態である。催眠状態は、半分眠っている時のような意識状態なので、時空を超える意識エネルギーとなっている。
意識の領域では、想ったものが、ポンと出てくる。催眠療法では、まずイメージの練習をするのだが、リラックスして目を瞑った状態で、「あなたの手のひらにレモンの輪切りがひとつ。それをぎゅっと齧りましょう」とセラピストが声掛けすると、たいていのクライアントはレモンを脳裏に描き、口中に唾液が充満する体験をする。口をすぼめて、「すっぱいです~。」とおっしゃる方が多くいることからも、言葉で聴かせる誘導は、効果的なのは言うまでもないだろう。安全地帯である花畑も、前世へ続く階段も、ハイアーセルフも、亡くなった方の魂も、「必ず現れますからね~。」と確信を持って誘導すると、クライアントは五感のいくつかを使って、何かを確かに捉えるのである。意識の世界の深遠さは、このように計り知れない。
前世療法では、臨終体験の後で、中間世と呼ばれる魂の行くべき場所へ誘導することになる。クライアントは、そこで穏やかで静かな心持となり、例えば、雲や、まばゆい光を見ることになる。いろんな中間世がある。セッションにおける臨終から中間世の過程は、平均10分程度であるが、この過程をメチャクチャ丁寧に誘導したのが、『チベット死者の書』という催眠スクリプトなのではないかと、強引かもしれないが、そう示唆してみたいのである。催眠スクリプトの観点から、死者の書を読み解いていくと、たいそう面白い。
「ああ、善い人〇〇よ。汝は聴くがよい。汝には、今、正しいチョエニ(存在本来の姿)の光明が、無垢のままで現れている。それの本体を覚るべきである。」24頁より
この光と一緒になれば、解脱できるのだと、導師は耳元で説いていく。第一の光明で解脱できなければ、第二の光明が現れるよう、さらに導師は、熱心に説いていく。何としてもこの魂を解脱させてやるぞ~!という熱意あふれる誘導スクリプト?である。涙ぐましいくらい、これでダメなら、次、その次、と、ドラえもんのポケットよろしく、次なる手をひねり出してくる。導師は、最後まであきらめない。最善にたどり着くよう、魂の四十九日の旅程に寄り添い続ける。ここにも、催眠療法士との共通点を見出すこともできる。催眠療法は、3時間ほどの施術であるが、クライアントにベストな事が起きていると信じ、ひたすら彼の潜在意識に寄り添っていく。
催眠療法との違いは、セラピストは「(セラピストの信念に)誘導しない、与えない、教えない」という姿勢を貫く。ただ、クライアントを潜在意識につなげたら、顕在意識と潜在意識のバランスに配慮しながら、催眠の深さを言葉がけで調整しつつ、クライアントの中から湧き上がる気づきを尊重する。病すら、クライアントに必要があって起こっている場合もあるので、病を取り除くことがベストとは限らないと理解している。クライアントにとっての真実は、他の誰に左右されるものではない。「ああ、そうだったのか。」とクライアントが人生をありのままに受け入れるところから、癒し、浄化、回復などが起きてくるからだ。
チベット死者の書は、熱心に解脱へ導く誘導であることから、「解脱 イズ ベスト」という導師の信念が色濃いセッションとなっている。仏教の教えも、モリモリである。ただ、この『死者の書』に書かれた内容は、誰にでも公表してよいと、作った人は考えていなかっただろう。熱心なチベット仏教徒であり、生前に親しいラマから、多くの導きを得てしっかり修行を済ませている信徒向けの導き方法であったろうから、解脱は信徒共通のゴールなのである。この前提を見失ってはならないだろう。「解脱 イズ ベスト!!」でよいのである。その目的で書きあげられたお経(スクリプト)なのだから。
宗教であるが、普遍的な要素もあるのではないか?と私は言いたいのである。
☆ヘミシンクとの共通点
ヘミシンクについても、軽く触れておきたい。ヘミシンクには独自のフォーカスレベルがある。これは、理解しやすくするための便宜上の分け方である。
例えばフォーカス10は肉体は眠り意識は目覚めた状態。
フォーカス12は、知覚・意識の拡大した、空間から自由になった状態。このあたりでは、直観でガイドからメッセージを受け取ることも可能になる。
昨年S市へ旅行に行く直前に、ヘミシンクでガイドと交信した。そこで、有益な情報をいろいろ与えられたのだが、そのガイドが名乗った名が、偶然、S市で一日の旅程を共にする人物の旧姓+下の名だった。このことは、初対面で出会ってから判明し、大層驚いた。潜在意識では、既につながっていたことの証である。顔を合わせて一瞬で意気投合したのは言うまでもない。
フォーカス15では、時間から自由となり、過去世や幼少期、胎内記憶と繋がる体験をする。このあたりが、私が催眠療法で扱う意識レベルである。ヘミシンクでも、過去世につなかったことはあるが、情報量や癒しの効果は、催眠療法の方が受け取りやすいように私は思う。
そして、フォーカス21。ここが、今日取り上げたいレベルである。あの世とこの世の架け橋と呼ばれている。日本人で言えば、三途の川。(此岸と彼岸の両方)
私は、この21の体験は無いが、催眠療法で言えば、グリーフセラピーや、前世療法の臨終から中間世での体験がここに合致するのではないかと思う。この21で、死者の魂と再会し、メッセージをもらうことが出来る。体験談によると、ここで亡くなった方が、無事に光の国へ行くことが出来たことを確認したとある。死者の意識は、どうやら三途の川の領域(生者と死者が意識レベルで面会できる場)から、さらに上のフォーカスレベルへ移行するようだ。
この上のフォーカスレベルでは、死者の生前の信念によって分かれ、心地よい魂グループが集い想念で創り上げる世界に移行するようである。おそらく、熱心なチベット仏教徒の想念が集まって作り上げる涅槃もあることだろうし、キリスト教徒が創り上げる、ザ!天国!美しい花園もあるだろう。日本人の死生観が読み取れるのは、『小桜姫物語』が詳細を語るだろう。
ヘミシンクでは、地球での転生のみならず、宇宙転生や、なんなら、宇宙の果てまで到達するようだ。魂が分離する前の宇宙源を体験してきた話は、ロバート・モンローの著書で知ることが出来る。坂本政道さんの宇宙人過去世の話も興味深い。
『チベット死者の書』の説く「解脱」。第一の光明と合一した先に訪れる涅槃とは、いったいどんなところだろう。六道輪廻を卒業するレベルなので、「もう地球転生は飽きちゃった。別のところで新しい体験をしたいなあ。」という魂たちの行くフォーカスレベルであろうか。つまり、別次元の他の星系を含め、神と目される高次元領域も視野に入れ、さらなる魂体験(幻想)を続けるのか、一旦、宇宙源へ還り、全体へ溶け込むのか。
チベット仏教徒が行き着いた先の涅槃とは、どんなところなんだろう?今度、フォーカス21へ辿り着いたら、そこに居る誰かに聞いてみたいものだ。
☆生きるための「死者の書」
上述のように、好きなように、本書を俎上にのせてしまったが、お伝えしたいことは、まさに、この記述である。
「このように、確固たる口調のもとに、死を超えて存する生の体験を説き、生死の枠づけを超えた存在の意味をわれわれに語りかけるのが、『チベットの死者の書』なのである。
親しい友の一人の感想
「いやあ、これは死んでからも大変なんですね。死んでからがこれだけ大変だとなると、よっぽど上手に死なないと。それにはよっぽど今を上手に生きないといけないということなんだね。」
この普段の日常生活を真摯に生きている友人が賢明に導き出した知的納得は、死者の側から死のカーテンが取り払われた時に生の意味を考えることの重要さを、この『チベットの死者の書』が教えてくれていることを示唆しているのではないか。(中略)現在を少しでも良く生きることの向こうに解脱が見えてくるのではないだろうか?」
*222~223頁 文庫版解説より
☆最後に
面白いところは、死後の世界から逆算して、自身の生をあらためて眺めることが出来るということなのだ。何度も引き合いに出して申し訳ないのだが、催眠療法も同じところに価値があると考えている。前世療法において、その生の体験だけでなく、臨終から魂の行くべき世界まで味わって、今に意識が帰ってきた時、クライアントは、いわゆる再生を体験してきたことになる。生き直して、今、ここに、掛け替えのない生が存在していることを理屈でなく腑に落とすことが出来る。
死からスタートした生。それは、死に向かって生きていた不安とは、まったく逆転したエネルギーを得ることとなる。生の喜びを純粋に味わうことで、今、私はどう生きていこうか?と、晴れやかな気持ちになるのではないかと思う。幾度となく繰り返してきた生と死と、その体験の積み重ねが今にある。
死は生への通過点。私たちは永遠の意識エネルギーである。死にたくても、本質的な死はないのである。
このテーマ、『千の風になって』にも通じるものだった。立て続けに私の元へ集まってきた書籍の数々から、魂レベルの大いなる導きを感じずにはいられない。
さて、今をどう生きる?
いよいよ、バガヴァッド・ギーターへ
学びは続く…
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