人生のシナリオは決まっている

 私たちは、決められた人生のシナリオを演じているだけなのだと知ったら、あなたは驚くだろうか。それとも、やっぱり!と膝を打つだろうか。

人生には様々なトラブルが付き物だ。思い通りにならなくて、イライラしたり、がっかりしたり・・・。でも、実はそのトラブルも、必然だったとしたら?今日はそんなテーマで書いてみたい。

昨日、YouTubeで、桜庭露樹さんの過去のラジオ番組を聴きながら楽しく手作業をしていた。桜庭さんは、小林正観さんのお弟子さんで、お話がとても面白い。冗談9割大切な話1割というくらい、リスナーを散々笑わせた上で、ほろりと人生指南をしてくださる。桜庭さんは、「僕は入り口担当ですから。」とおっしゃっていた。小林正観さんも、講演会の9割はダジャレばかりで、最後の10分くらいで大切な話をされるスタイルだったそうだ。正観さんのダジャレを聞いて大笑いしたくて、聴衆が集まっていたらしい。

昨日お聞きした番組では、「人生のシナリオは決まっている」というテーマで話をされていた。とても面白かったのでザックリ紹介したい。

桜庭さんは、ご自身の体験を面白おかしく語っていた。3人でご飯を食べに行った。超カッコイイ男性の白いネクタイに、醤油が一滴はねてしまった。向かい側に座っていた女性が咄嗟におしぼりで、ネクタイがシミにならないよう拭こうとした。慌てていたので、テーブルの上に置いてあった醤油差しを倒してしまった。醤油は派手に女性の白いスカートを汚した。女性の隣りに座っていた桜庭さんが今度は女性のスカートをおしぼりで拭いて差し上げることになり、三つ巴でてんやわんやになった。女性は慌てふためきながらこう言った。「ああ~。最悪だわ。この白いスカート買ったばかりなのに。桜庭さんに会うために買ったのに。」桜庭さんはそれを聞いて、内心驚いた。その女性が自分に好意を持ってくれていることを、このトラブルが起きなければ知ることがなかったからだ。その後二人が仲良くなったのは言うまでもなく・・・

この縁結びは、何がきっかけだったのか。たまたま3人が会食したから。たまたま同席した男性が超お洒落で、白いネクタイを着けてきたから。たまたま醤油が一滴はねたから。たまたま向かいにその女性が座って、たまたま絶妙な位置に醤油差しが置いてあり、たまたま・・・実は、この日3人で会食することも、白いネクタイを着けることも、席の配置も、醤油差しの置かれる位置も全て人生のシナリオ通りだった!と桜庭さんは語る。もちろん、登場人物の三人は、そのシナリオを知る由も無い。ただ演じさせられている。自分が選択したようで、実は何等かの力に動かされている。

あれがあったから、今がある。そう思い至ることは、あなたにも山ほど心当たりがあるのではないだろうか。スピリチュアルに興味が無い人でも、人と人のご縁の不思議な繋がりに、しきりに首をかしげたくなるようなことは、一つや二つ、あるに違いない。「そう言えば!」と思い出したあなたのそのトラブル。実は、決まっていたのだとしたら?

話はだんだん、スピリチュアルになっていく。

私たちは、生まれる前に、どんな人生にしたいかを自分で決めてくる。そしてそのシナリオに沿って、魂の仲間同士で、事細かに打ち合わせをする。ここで出逢って、こういう役割を担って等々。その際、本人は絶望するような辛い体験がしたかったとする。(その方が魂の学び度合は大きくなるので、大抵は辛い出来事をシナリオの中に用意する。)その辛い出来事の相手役(憎まれ役)は、どうしても親しい魂仲間にしか依頼できない。親しいからこそ、「よし!困難な役だけど、他ならぬお前のためだ。一肌脱いでやるよ。」と快く引き受けてくれる。その人生で自分にとって憎むべき相手は、実は魂の世界に戻れば、大親友だったりするのだ。愛が深いからこそ、その役をこなしてくださるのだ。すべては、あなたの魂の成長のために。

一人の人間の一生で関わる人の数は、だいたい二万五千人だそうだ。その二万五千人が転生の度に配役を変えて、シナリオを演じ合っている。劇団員の顔ぶれは同じで、演目を変えて巡業公演をし続けているようなものだ。数ある演目の一つが、あなたの今世。今、あなたがまさに「私」と意識している人物の人生ドラマである。主人公はあなただ!

正観さんは、転生前のシナリオ作りが面倒だったので、「前世と同じシナリオでいいや。」となったそうだ。正観さんの前世は、江戸時代の石田梅岩だった。梅岩も正観さんも、時代は違えど、同じような一生である。つまり、人に話して伝える役割ということ。正観さんは、一年中全国を講演をして飛び回っていた。梅岩は歴史上の有名人物なので、史料が残されている。そのため前世と同じシナリオかどうか検証可能だ。そして、梅岩のお弟子さんたちが、今世でも弟子として正観さんを慕って集まっている。桜庭さんも梅岩から学んでいた弟子の一人であり、俺はこの人物かな?と想像する弟子が江戸時代に居るそうだ。

私は、石田梅岩は、知らなかったのだが、聞き覚えがあった。そう言えば先日靖国神社で引いたおみくじの言葉が梅岩だったことを思いだした。私は目に見えない世界の計らいにより、吉田松陰つながりで靖国を参拝していた。

今、手元におみくじを広げてみて、あらためて梅岩の教えを読んでみた。

「広き世界に住みえずして、狭き住居するは、悲しきことなり。

ひろき世界に住みえずして、せばき住居するといふは、土地のことにてはなし。

広大なる心を微塵のごとくなくしてくるしむことを云ふ。」石田梅岩


そうか。だから松陰を祀る神社で梅岩の教えなのか。この流れはつながっているんだなと、襟を正す思いにかられた。

桜庭さんといい、正観さんといい、大切なことを難しい言葉を使わずに、笑いを軸に、世間一般の人々に広く伝えようとする使命は、江戸時代から脈々と受け継がれていたのだった。同じ魂なのだから、その分野が得意なのは当たり前なのだ。彼らは転生する度に、腕を磨いているわけだから、正観さんのダジャレが極まっていくのも当然の道筋だったわけだ。

同じシナリオの焼き直しである人生を歩んでいる魂は意外と多いかもしれない。前世で経験があるから、次の人生でもその技術を活かして継続して学びを深めたいという魂は多いだろう。

例えば、盲目の天才ピアニスト辻井伸行さんなどは、前世までに散々ピアノに取り組んできたので、目を瞑ってでも弾きこなせる能力を引き継いできたのであろう。さら芸術性を追求するために、五感の一部を失ってみて新たな可能性の扉を開いたのだと思う。彼なりの魂の挑戦である。人間はこのように可能性にあふれている。ということを、人々に知らせ勇気づける役割とも言える。

そう言えば、私の人生もシナリオどおりなのだろうな。と思い当たることは沢山ある。人生を方向づけた出来事は、大抵は困難で辛いことばかりだった。しかし、それがあったからこそ、今の私がある。

例えば、人生半世紀を過ぎて、ようやく天職のようなもの(催眠療法)に出逢えたのも、大きな病気が原因だった。薬の副作用で苦しんで、薬に頼らない医療に興味を持ち始めた。苦しんだから行動につながったわけだ。きっと辛くなければ私は動かなかった。現状維持でそのまま過ごしていただろう。行動を変えるには、私の性格上、辛い体験が必要だったということだ。自分にとって嫌な出来事は、シナリオへ導く道標のようなものなのだ。

私たちは、大抵、魂のシナリオを知る事は無い。そこで、起こる出来事に翻弄される。心の働きによって、喜んだり、苦しんだり、悲しんだり。自分のものであって、自分の思うようにはならないもの。

しかし心の持ちようによって、清め、鍛え、磨くことが出来、「心は天よりもさらに高く、地よりもさらに深いところまで行くことができる」(梅岩)

今後も、目の前に起こる出来事に心を揺らし、右往左往することだろう。人間なのだから、心の働きは自然に湧き上がるもの。それを味わえばいいのだと思う。魂は、この千変万化する感情の坩堝を楽しみたくてここにやって来ているとも言える。怒っても、悲しんでも、悔やんでも、嫉妬しても、高飛車になってもいい。どんどん味わえばいいのだ。そもそも、正義も悪も無い。それは単なる設定であり本質は皆、輝く光だ。

そして、梅岩や松陰や正観さんのことを知り、心を清めたいと願って学び始める人は、それもシナリオどおりということ。それをやりたくてやっている。

人生の荒波にもまれ、無明の状態にあるから未熟だとか、宇宙の真理を知って悟ったから偉いとか、どちらが良い悪いではない。その魂が何をテーマに学びたいのか。という違いがあるだけで、そもそも、意識存在は宇宙源ひとつしかない。意識を無数に分散し、あなたと私と観照者という三者関係を創り出したからこそ、成立する人生ドラマのなのだ。

魂は、思いどおりにならない体験を通し、それ由にあふれ出てくる様々な感情を味わい、魂の決めた流れに従って、ドラマを楽しんでいる。不快な思いをさせてくるあの嫌なヤツも、この人生を終えて魂の故郷に戻れば、信頼する大親友だったことを思い出す。ありがとう。と言う感謝の気持ちしかない。例え、殺し殺されたとしてもだ。

その心ゆさぶられる体験は、あなたの人生テーマに深く関わっている。その体験をすることで、どんな学びをしたのか。どんな道に誘われたのか。誰と縁結びされたのか。振り返ってみると良く分かる。すべてが、オールOKであったことが、きっと見えてくる。

この投稿をここまでご覧になってくれたあなた。きっとあなたの人生のシナリオで、これを目にすることになっていたのだ(笑)あなたが、今まさに現実に翻弄されて苦しい状況だとしたら、「へえ~。人生は魂のシナリオで、自作自演で学んでいるのか。この感情は味わえばいいんだ。」ということに、気づきましょうということかもしれない。そこから、何か行動を起こしてもいいし、何もしなくてもいい。あなたのどんな選択も意味がある。あなたの掛け替えのない人生なのだから。あなたのシナリオを信頼すればいい。

そして、私は、そんなあなたを応援するという配役を担っていきたい。場合によっては、憎まれ役かもしれないけど・・・。

もし、このシナリオを順調に楽しみたいのだとしたら、老婆心ながら、お楽しみポイントをお伝えしておく。ふと思いついたら、さっと行動すること。魂との交信は直感を通してなされている。「なんとなく、こうした方がいい気がする。」「根拠もなく、ふとあの人の顔を思いだした。」など、何気なく浮かんできたアイディアを大切にする。そして、「まあ、いいや。また今度やろう。」と先延ばししてしまうと意味が無い。思考は合理的なので、いろいろダメ出しをしてくるので、考え始めてしまうと、動けなくなる。(動かなくて済むように言い訳が出てくる)ふとした思いに、素直にさっと行動することが、魂の声に従うことに繋がる。「ふっとさっと」をぜひ、試してみてほしい。まずは小さな事からでいい。人生どんどん面白くなってくるから。


☆石田梅岩について

江戸中期の思想家で、石門(せきもん)心学の創始者。独学で神儒仏の諸思想を研究した。35歳ごろからそれまでの自得の信念に動揺が生じ、諸方に師を求めるうち、儒仏に通じた小栗了雲(おぐりりょううん)(1668―1729)に巡り会い修行に励む。40歳のとき、いったん開悟したが、さらに1年余の修行を経て自性見識を離れた境地に達した。43歳で奉公を辞し、45歳の1729年(享保14)京都の自宅で、聴講自由で席料無料の看板を掲げて講席を開く。初期は聴講者も少なく世評もまちまちであったが、その教えは彼の誠実な人格と相まって庶民の間に信奉者を増し、弟子らの布教活動によって各地に広まり、その学派は石門心学とよばれ、近世思想界に大きな影響を与えた。

☆吉田松陰と梅岩との関係

松陰は幼少期、心学を学んでいた。妹にも「仏法信仰はよき事なれど仏法に迷わぬように、心学本などをおりおり読むように。心学本に、のどかさよ ねがいなき身の神もうで 、神へ願うよりは、身に行うがよろしく候」としたためている。


☆私の前世は江戸時代の思想家だった?

一年ほど前だが、「なぜ私は本を書きたいのか?」というテーマで前世療法を受けたことがある。当時、電子書籍出版に向けて動いていたのだが、途中で様々な邪魔が入り、頓挫していた。なぜうまくいかなかったのか、私は出版にドロドロと執着心を燃やしていた。

その時見た私は、武士の格好をしていて、そこそこの家柄で、どこかの地方のお城に出向き、文書庫に自由に出入りしていた。それなりに学問を究めていた様子だった。自分なりの思想があり、公務の合間に考えを書き付けていた。和紙も墨もふんだんに使える恵まれた地位にいたようだ。

当時は自由に出版し世に広める自由は無かった。子や孫の代に役に立てばとの思いで、せっせと記録していたようだ。まさに今、私がblogに記録しているように。同じようなことをやっていたわけだ。

ただ、そこは人間の性だろう。自分の考えを人に知ってもらいたいという欲があった。本音は出版できたら一番嬉しかったのだろうが、それは公務をしている立場上許されるものではない。もしかしたら、思想が偏っていて、幕府の政策批判につながるようなものだった可能性もある。

ある日、持論を知人に披露してしまう。人に知ってもらいたいという欲望が抑えきれなかったのだ。それが仇となる。思想犯として捉えられ、書き付けて来た紙の束は証拠として没収される。そして拷問の上、刑死する。「肉体は殺されても、この情熱は、誰も消すことは出来ない。」肉体は単なる入れ物であって、魂の思いは、永遠に生き続けるということ。また、時代を変えてリベンジしようと、前向きな気持ちで息絶えたことが伝わってきた。前世魂と対話したところ、「どんな考えを書こうが、殺されるような時代ではない。自由な時代に生きているのだから、やりたい事を思いきりやったらいい。」とメッセージをいただいた。

既に成仏している前世魂は、当時の思想に未練は無いようだった。綺麗さっぱり執着を手放しているので、彼の思想を私が引き継いで、今世に広める必要は無いようだ。私は私の書きたい事を書いて、不特定多数の誰かに向けて発信する。おそらく、書く、広めるという情熱が、前世魂から引き継いだ唯一の傾向であろうと思った。ただし、今は本に限らず、SNSにより気軽に発信することが出来る。前世魂からは、「本を書きたいなら書けば?」くらいの、こだわりのない気持ちが伝わってきて、私も本という形式へのこだわりから自由になることが出来た。今、こうしてblogで自由気ままに書いているのだから、これでいいんだなと気持ちがスッキリしたのだった。

そして、最近の吉田松陰、石田梅岩つながりの現実化をあらためて感じてみる。「人はどうやったら自由に幸せに生きられるのか。」きっとそんなテーマに興味を持っていたに違いないと思う。梅岩の心学の本は読んでいただろうし、松陰と会った事は無くても、尊敬していたのではと、何となく思う。(松陰の墓参りをした時、魂が懐かしさに震えていたので)

心学つながりの、心友。

ふと、そんなことを思った。


☆スナフキンからのメッセージ

「大切なのは、自分が何をしたいのか、知っていることだよ。」

トーベ·ヤンソン

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