ぼくを探しに
昨日の朝のこと。
母に対して、イライラする気持ちが湧き上がっていた。
母は、父が入院したために、現在一人で家で過ごしている。「誰ともしゃべらずに家に居るのはむなしい。ボケてしまいそう。」と言う。そして、「自分がお父さんから目を離したからいけないんだ。これからは24時間目を離さないようにする!」と決意を語る。肉体を持つ人間であれば、そんなこと出来るわけもないのに、24時間張りつめていることを自分に要求する母が哀れだ。
そんな母に優しくしてやりたいと思うのだが、どうしてもイライラが噴出してくる。気が付くと、心の中で母に説教をしている。優しくするより説教したい私がいる。
現実は、ただ話を聞いている。出来るだけ、母の気持ちを肯定し、寄り添うように努めている。意見してやりたい気持ちはぐっとこらえる。説教はあくまで想像の中で無意識に行っている。だから、セラピストのように心から寄り添えているわけではない。相手が家族であると、エゴが噴出しやすい。それだけ近い関係だからだろうか。家族の関係とは、理性で済ますことが出来ない。どうしても感情が邪魔をしてくる。本当に難しい。
この無意識の説教は、催眠療法の副人格療法(パーツセラピー)にも通じる気がする。また、想像上とはいえ、深いところでは母の意識とつながって会話しているようにも思う。本当は母を鏡として、私(自我意識)と私(私の知らない私)とのやりとりになっているのではないかな?とハッとさせられた。
この想像上のやり取りを通し、あからさまになったのは、相手を好ましい状況に変えたいという私のエゴだ。その動機のために説教したいと言う欲望が出てくる。しかし私がいくら仏陀の有難い言葉などを駆使したとして、相手が変わるものだろうか?既にここで、私はエゴの罠にはまっている。
☆実際に母とやり取りした会話
私「ずっと介護して頑張ってきたね。今回のお父さんの入院は、お母さんが心身休むことができるようにお父さんが無意識に起こしたんじゃないの?少しでも長く一緒に居たいから。ずっと頑張り続けていると、お母さん、倒れてしまったかもしれないよね。またお父さんと暮らしたいなら、今は人生のバカンスだと思って、ゆっくり過ごしなよ。」
母「お父さんが居ないとむなしい。空っぽになってしまう。」
私「空っぽ、いいじゃない。新しいものが入ってくるには、スペースを開けておかないと。空っぽになるのも、必要なことだよ。ずっと張りつめていると長く続かないよ。お父さんとずっと一緒に居たいのなら、休養も必要だよ。」
母「出来るだけ皆に迷惑をかけないようにしたい。お父さんを家で最期まで面倒見たい。でも、お母さんはお父さんより早く亡くなると思っている。」
☆母の言葉から伝わって来たこと
母は、父の役に立つことが自分の使命だと思っている。父が居なければ自分が存在する意味が無くなるのではないかと恐れている。だから、父の命があるうちに自分を完全燃焼させて、先に死を迎えたいのだろう。誰かの役に立っていなければ、自分に価値はないと言う信念でずっと生きて来たから、その拠り所である父が居なくなると、自分が消えてしまうような不安があるのだろう。もっと自由になって、自分の楽しいと思うことをすればいいのにと提案しても、むなしく首を横に振る。どうして、そんな不自由な檻にいつまでも入っているの?自由になれるのに。そんな母に私はイライラをつのらせている。
☆私が母に説明したいこと
母に幸せになってほしい。幸せは外側からもたらされることはない。誰かの存在や、出来事が条件で幸せになることはない。それはエゴの領域で感じる一時的な高揚感であり、長続きしない。すぐに欠けた何かを探し出し、それを埋めようとする。永遠にその繰り返し。例えば、ずっと〇を求めていたとする。〇さえあれば私は幸せなのにと思う。でも〇が手に入ってしまうと、△が無いことに気づく。△が満たされると、□が無い事が気になってくる。□をやっと手に入れると次に・・・・。これがエゴの働きだ。私たちはいつまでも幸せになる事が無い。完璧に満たされた未来はいつも先にあり、現状として、欠けた現実を否定して生き続ける。ずっと何かを探し求めている。
もちろん、そのような人生を送ることに意味が無いわけだはない。自分が欠けていると思うから、努力もするし、行動の原動力にもなる。欠けを満たした時の喜びや達成感は、何ものにも代え難い。(ただし、すぐ次なる欠けを発見して、不満が出てくる。)
この思考パターンは、不安や恐れがベースになっていることが多い。こうなると嫌だから、こうする。こうなると怖いからこうしておく。等。この思考でいる限り、どんなに努力しても、自分を受け入れることが出来ない。何か足りない私を叱咤し続けることになる。
心から幸せを感じたいのなら、エゴを鎮めて、本質の自分につながることだ。深い意識の領域には、欠けたものなどない、全てに満たされた私がいる。ただ、思いだすだけでいい。
母は、自分が幸せになることを、自分に許せばいい。信念の檻に鍵はかかっていないのに。いつでも自由に抜け出せるのに。
☆母にイライラする自分を深堀する
イライラは、母をありのまま受け入れていない自分が原因だ。幸せではない母を幸せにしたいと思う。幸せに見えない母を変えようとする否定エネルギーがイライラとして出ている。
母の現実はベストであり、母には母の魂の学びがある。父のお世話をすることで人生を費やし、過労で倒れようが、不自由であろうが、その葛藤で苦しもうが、そこから母が気づいて得たものがこの人生の価値だ。そして、気づくきっかけは、母が自力で引き寄せるものだ。
母の本質は、完全な光だ。母を欠けた存在だと見るから、導かなければ、教えてあげなくては、変えなくては、幸せにしてあげなくては、〇〇しなくては。という否定エネルギーで、強引に動かそうとする。母が欠けているという思い込みは、自分が欠けているという過去の信念に同調する。そのエネルギー共振が、心地悪く重い気持ちになって、イライラに発展する。
ここまで深堀して、自分の中のドロドロを感じ切る。やがて、ふと微かに緩み始める。
そうなんだ。やっぱり相手は鏡の中に映された自分自身だ。そういうことなんだ。私がその信念に気が付いて手放せるように、母がその役を担ってくれている。そもそもその姿(幻)は、私なので、鏡に映った世界だけを変えることなどできない。自分が変われば、鏡に映された世界も変わる。
そうか~。そう考えると、イライラは、分かりやすく私に知らせてくれる指標なのだ。「そろそろ、本質に戻りましょうね~。そのために、充分学び尽くした信念は、もう手放していきましょうね~。その学びはもう終わったのですよ。感謝して、手放しましょう。」と教えてくれているわけだ。イライラは罪悪感を伴うし、心地悪いので、何とかしなきゃと思う原動力になる。こうやって自分の内面と向き合う気持ちになれるわけだ。感情って、上手くできている。エゴの働きって、こう考えると、凄い学びになっている。イライラに感謝だ。そして、教えになってくれている外の世界の全て(現実と言う幻)にも、ありがとうなんだ。
ということがやっと腑に落ちる。
☆4つの質問
対話の際にこれは使えるな!と思ったのが、バイロン・ケイテイさんの4つの質問のワークである。参考までに抜粋して紹介する。
「なぜ、私たちの思考や感情はものごとに固執してしまうのでしょうか?その大きな原因の一つは、すでに起きてしまった現実に対して、「そんなはずはない」「それは間違いだ」「本当はこうあるべきだ」などと、頭の中で必死に抵抗してしまうからではないでしょうか。つまり、現実を受け入れられない自分の思考そのものが、苦しみを生んでいるのです。その点に関して「ワーク」という気付きのメソッドを編み出したのがケイティさんです。
4つの質問
①その考えは本当でしょうか?
②その考えが絶対に本当であると、あなたは言い切れますか?
③その考えがある時、あなたはどんな気持ちになりますか?
④その考えが消えたら、あなたはどうなりますか?
このワークでは、つらい思考にしがみつくことからくる因果関係を探り、問い直しによって、自分の自由を見つけて行きます。起こるべくしておきた現実、どんな思考もそれを変えることはできません。だからといってそれを大目に見るとか認めるということではありません。それはただ、物事を抵抗なしに、内面の葛藤というストレス無しに見るということなのです。ただし、これを自分でやる時には、ハートの感じる領域で真剣にやらないと、浅く、つまらないものになってしまうのでご注意ください。
しかしいったん精神的な苦しみが自分以外の「世界そのもの」にあるのではなく、世界に対する「自分の考え」にあるのだということが分かると、あらゆる問題は自分を理解するための機会となり、よりよく生きるためのギフトとなるのです。」
『がん患者を支える催眠療法』萩原優著 194~196頁より
☆絵本『ぼくを探しに』
(作・絵 シェル・シルヴァンスタイン 講談社1977年発行)
昨日の朝、イライラしながら、無意識の中で母に説教をしていて、そんな自分に気が付いて、上記のような流れで反省に至ったところ、ふと潜在意識から浮き上がってきたのが、この絵本の思い出である。
~作品紹介~
「何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないカケラを 探しに行く」
転がりながら、歌いながら、足りないカケラを探します。カケラを見つけますが、小さすぎたり、大きすぎたり。そしてとうとう、ぴったりのカケラに出会います。
「はまったぞ ぴったりだ やった!ばんざい!」
ところが・・・・。
不完全な自分を知った時、自分探しの旅をする。ピッタリの相棒を見つけても満足はできなくて、いつまでも探し続けながら人間は生きて行く。このストーリーに出てくるカケラは、人によって違う。読む人によって、それぞれの人生ドラマが思い起こされることだろう。
この絵本は、20年近く前にとある方から贈られたものだ。
その時、私は過労から鬱病を発症し、休職をすることになった。職場の同僚達とはずっと仲良くしていて、一緒に旅行に行ったり楽しんでいたのだが、私が面倒な病気になった途端に、蜘蛛の子を散らすように、そばから居なくなってしまった。心から私を心配してくれる人はわずかであり、人生で本当に大切な人は、実は少なくてもいいのだなという気付きを得たものだ。人間関係が分かりやすく整理されたので、かえってスッキリとした爽やかな気持ちになれたことを覚えている。偽りの関係は無駄に続けても疲れるだけだ。思えば、互いにエゴを満たすだけの関係だったのだなあと思う。
職場の同僚の中で、普段あまり親しく接していなかった方から、この絵本を贈られた。なぜ、この人はあまり仲良くしていたわけでもないのに、私に本をくれたんだろう?と今でも不思議に思っている。この絵本は、読むには読んだのだが、そのまま本棚に仕舞ったままになっていた。本をくれた方の名前すらもう覚えていない。ただ、ほとんどの同僚が離れていった渦中で、彼女だけが絵本を通して、私のささくれた心に寄り添ってくれたような気がしている。
そして、20年の歳月を経て、ふとこの絵本のことを思いだした。ああ、彼女はすごく大切なメッセージを私に伝えようとしてくれたのだなあと、今更ながら実感し、感謝の気持ちがあふれてきた。人はどこからきて、どこへ行くのか。人生を通して何を学ぶのか。そんな魂の課題のようなものを、そっと提示してくれていたのだ。彼女の深い思いやりをようやく理解できたのだ。彼女によって種まきされた課題は、無意識に沈んだまま、消えることなく発芽時期を待っていた。私がきちんとそのことを受け入れられるようになるまで、共に冬の季節を乗り越えてくれていたわけである。
20年、様々な病や人間関係や、不都合な出来事を体験しつつ、冷たい嵐に翻弄されながらも、私は魂の進むべき方向へ導かれていった。この嵐の冬を体験しなければ、発芽できなかったのだと思う。この法則は自然界にフラクタルとして現れている。厳しい冬の寒さがあるからこそ、美しく開花する植物。甘みを増す果物。樹木の実生は、厳しい自然淘汰を経るからこそ、強くすくすく育つという事実からも、魂の成長は春夏秋冬のサイクルがあるから実現するという法則が理解できる。
「厳しい冬は嫌いだから、あたたかい春だけを満喫したい!」と言う魂もいるかもしれない。植樹の例を出すと、人工的に植樹された苗は虫にやられて病気になりやすく、自然の実生は、虫に食われないそうだ。自然淘汰を経て発芽しているから、そのそも強いということ。あたたかい春だけを体験した種は、原因と結果の法則でいけば、森の中で生き延びることなく枯れやすいかもしれない。
その種をどうしたいのか?魂の選択なので、良い悪いは無い。厳しい冬を経て、種を丈夫に発芽させたいと願う魂は、そのような現実を引き寄せているということなんだろう。人生の春夏秋冬も、夏秋冬春にして、晩年を春にして終えたい魂もいるだろう。若いうちに厳しい季節を経験しておいて、土台を整えてから晩年を謳歌するプランがあなたの人生かもしれない。
だから、「私の人生は苦難ばかりで、他の人の人生は恵まれていて、不公平だ!」と嘆いても、魂の立場からすれば、「その比較は何の意味もないですよ~。あなた自身が選択した人生なんですからね~。」と笑われるだけだ。エゴの視点は近視眼的で比較が大好きだから、「私にはあれもこれも無いよね。不安だ。辛い。悲しい。」と苦しむことを要求してくる。でも、いくらカケラを埋めようと求め続けても、その視点で物事を判断する限り、カケラは埋まらないのだ。
この絵本を読んで、すぐにそのことに気づける人もいるだろうし、私のように20年かかって、ようやく意味を理解する人もいるだろうし、人それぞれだ。今思い返せば、この20年の体験は、学びの宝庫であり、この人生で良かったな~と思っている。渦中に居る時は分からない。もちろん、しっかり苦しんでいる。そんなものだ。
そして、カケラを追い求める幻のドラマから抜け出せた時に、28日の投稿で紹介した般若心経の教えに到達するのだろう。
肉体がある限り、エゴの仕掛けてくる罠にはどうしてもはまってしまう。何かと比較して、「私が私が」となって、苦しくなっている自分を発見する。相変わらずの私だ。こうやって私は学んでいるんだなあと思う。それを楽しんでいるのかもしれない。
恐れを手放し、愛と感謝で生きること。少しずつだが、実践していこう思う。
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