ポジティブもネガティブもあっていい

写真: 明治神宮の御神木

山崎拓巳さんの対談をYouTubeで聞いた。それについて、ふと思ったことを書いておく。

世の中では、ポジティブシンキングが大事だと言われている。山崎さんは、「ポジティブがいいものではないし、ネガティブが悪いものでもない」と言う。

ポジティブに振れすぎれば、ネガティブも濃くなる。光が強くなれば闇も濃くなる。

この考え方は、昨年10月のトリシアさんのセミナー「シャドーワーク」でも語られていた。

白い紙に、縦に3本、間隔を置いて線を引いてみてほしい。真ん中がゼロポイント(中庸)、右がネガティブ、左がポジティブとする

下から、右に左に波線を上に向かって描いてほしい。波線の振れ幅は真ん中を軸にして、左右対称にする。私たちは、このようにポジティブとネガティブを行ったり来たりして感情を味わっている。ポジティブだけ、ネガティブだけはあり得ない。ネガティブの最高値まで右側にグワッと振れれば、左側のポジティブ値にもグワッと振れる。自身の闇の奥の深い領域へ辿り着くと、反動で、自身の光輝く部分も際立ってくる。

ドラえもんの道具に、楽苦メーターというのがあった。のび太くんが、楽ばかりすると、同じぐらいの値で、苦しい思いもする。

陰陽の法則もこの考え方に通じる。陰陽はグルグル循環し、陰は陽に、陽は陰に転じる。太陽と月が巡り、昼と夜があり、男と女がいて、喜んだり悲しんだりして、ハッピーになったり、落ち込んだり、留まることなく流転していく。どちらが良いとか悪いとかではない。宇宙の仕組みであり、世界を成り立たせる基本である。そういう風になっている。

私たちの本質は真ん中。中庸、ゼロポイント。

左右に触れた波線は、必ず真ん中地点を通過する。楽しくても、楽しさは続かない。どこかで、楽しくも苦しくもない状態になる。

苦しみも、極まれば必ず転じる瞬間がくる。

自然にバランスがとられていく。

ずっと苦しいです~。と言う人は、ネガティブの際まで行けば大丈夫。底まで行き着けば後は上昇するのみ。苦しみをしっかり味わい尽くせばよい。

まるで台風に翻弄されているように左右に振れているのが自我。真ん中(本質)が台風の目にあたる。

本質はポジティブでもネガティブでもない。強いて表現すれば、静かで穏やか。生まれも消えもしない、永遠の意識エネルギー。そのエネルギーは至高の愛なのだと言われる。

山崎さんは、「ゼロポイントの状態は、いわゆるフローと言われる状態にある時じゃないか」と指摘する。

夢中になって何かをしていると、時間を忘れてしまう。気がつくと何時間も経過していたという経験を思い出していただきたい。その時、「私」という意識はあっただろうか?きっと「私」が消えていたような感覚になっていたことだろう。フローは、自我意識のある顕在意識を通り越し、判断の膜を潜り抜け、潜在意識の深い領域に入っている状態だ。

山崎さんは、「ポジティブがいいわけじゃない」と言う。真夏の太陽が真上から照り付けると、屋根の下に出来た影が濃くなるのと同じ。自我の感じる「楽しい!」は、大きいほど「苦しい」が影のように濃く現れてくる仕組みを知っている。反対もしかり。だから、「ネガティブが悪いわけじゃない」とも強調する。どっちもあっていい。どっちも大切なのだ。

ネガティブは悪いものだと思ってしまうと、その感情を感じないようにしてしまう。しかし、そのエネルギーは、感じ切るまでは消えない。

幼い頃に感じ切ることなく意識の奥に隠されたエネルギーは、インナーチャイルドとなって、切り離されたまま潜在意識に残される。そして時々浮上し、生き辛さの原因になる。催眠療法では、年齢退行の手法でアクセスする。臓器(細胞)に感情の記憶として残され痛みや病となることも。催眠療法では、体細胞療法でそのエネルギーにアクセスする。

プロの施術を受けなくても、日頃から感情を感じ切ればよい。ポジティブもネガティブも感じることを受け入れる。この感情は体の部位なら、どのあたりでどんな感覚かな?と意識する。胸が重苦しく感じるとか、喉が締め付けられるとか、何か反応があるので、そこを体感とともに感じる。色や形をイメージしてもいい。丁寧に感じていると、どこかのタイミングで弛んでくる。これで、エネルギーは解放されるので、上述の三本線で言えば、真ん中に戻る。

ネガティブな感情は感じてはいけないと思い込んでいる人が多い。小さい頃から、「男なら泣くな!」「弱音を吐くな!」「そんなこと考えてはならない!」など、親や学校、世間から矯正されてきた。感じなければ無かったことに出来ると思われていたのだろうが、それは一時凌ぎに過ぎない。その場は丸くおさまっても、後から生き辛さとなり、本人に感じてもらうまで何度も浮上してくる。感情を感じたその都度発散するのが一番健全だ。溜め込むとバランスを取るために、病になったり、ややこしいことに発展しかねない。

萩原医師が、とあるセミナーで語っていた。確かこんな内容で、印象的だった。

「インドの高僧や、最高の悟りに至ったという覚者であっても、怒るんですよ。悟ったから、感情が無くなるわけではない。肉体に宿っているなら、必ず自我は残る。自我があるなら、怒ったりするのは自然です。覚者と呼ばれる僧侶も、弟子がちゃんとしていないと、ガ~っと怒る。その代わり、感情を引きずらない。怒った後は、サッパリと忘れてしまうんですよ。」

これを聞いて、驚いた。へ~。悟るとネガティブな感情を感じなくなるのかと勘違いしていた。いつもニコニコ、平和で穏やかな境地になるのかと。どうやらそうではないようだ。

仮にもし、ネガティブもポジティブも感情が振れなくなるなら、肉体に入っている意味が無くなるので、人間を卒業してしまうんだろう。つまり、死。次なる魂のステージへ移行していく。死は卒業であり、新しい世界での誕生でもある。終わりは無い。

そもそも、肉体に宿り、自我を利用して、感情を味わいドラマを演じるというリーラ(神の遊び)は、ゼロポイントが通常モードである本質(宇宙源、たったひとつの意識)が、やりたくてやっていることなのだ。

何でこんな遊びをしたがるのか?萩原医師は「退屈だからじゃないか。」と言う。思わず、笑ってしまったが、自分に置き換えれば納得だ。確かに映画でも、淡々と何も起こらないストーリーなら、観たくもない。つまらない。何か起きるから、面白いのだ。

いつもゼロポイントの状態になればいいのか?私たちは、そこを目指せばいいのか?

それは、自身の魂の計画によるだろう。

実存的変容は、そうなりたいからと努力してなれるものでもないことは、数日前の投稿で書いたが、悟りもそう。萩原医師は「恩寵による。」と言っている。

私は悟っている。と言っている時点で、悟ってはいない。意識している限り悟りは遠ざかる。

夢中になっている状態をゼロポイントと書いた。私たちは、意識して夢中になるだろうか?さあ、今から夢中になるよ!と切り替わるだろうか?無理だ。気がついたら自我が消えている。行為と一体化している。あの状態は、気がついたらそうなっている。なりやすいよう条件を整えることは出来るが、境目はハッキリしない。ふと我に返った時に、夢中は消える。

お釈迦様も言っている。修行で悟りには至らないと。

悟る人は何をしなくても悟りに至る。悟らない人は何をしても悟りに至らない。

この現実が神の遊びで創られた幻想であり、その夢の中で、いつまで遊んでいたいのか。それは分離した(と勘違いさせられた)「私」という意識が、遊び疲れて満足するまでなんだろう。

人それぞれであり、魂の計画書(ドラマの脚本)次第。このあたりで目を覚まそうかなというプランであれば、きっと現実の中に、使命とか、感情の浄化とか、悟りを意識する何かが起こり始めるのだろう。

昨日は使命について書いた。

使命は魂の計画だから、計画通りになると魂だって喜ぶわけだ。ただ、プラン通りに行かなくて、あちこちフラフラ、道草しても、予想外のハプニングが起きても、全部OKだ。

使命を果たし結果を出しました!というゴールを観ることがそもそもの目的ではなく、様々に体験し豊かな感情を味わい、新たな気付きを得ていく過程こそが、宇宙源からすれば宝物なのだから。

映画に例えれば、結末を知っていても、わざわざ観に行くのは、起承転結の一連の流れこそが面白いと感じるから。主人公がめでたく結婚する結末だけを観てもつまらない。心ときめく出会いから、喧嘩、試練と別れ、障壁を乗り越えた再会など、ドラマが面白いのは、その一連のストーリーに価値を置くからだ。

使命も、本質も、悟りも

それを知るも知らないも、どれもOK。

いいも悪いも無い。

誰の人生も、宇宙から見れば、大きな丸を描かれて受け入れられている。

宇宙源からのメッセージがあるなら、きっとこれだけだ。

あなたの人生を大切に生きてください。



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