三つの指標
日曜日は、春の散策日和だった。
雨の一日から一転、空は青く澄み、暖かい陽射しに誘われ、あちこちで桜が蕾を綻ばせていた。
彼岸の墓参りに出掛けた。手術が無事済んだことの報告と、見守ってくださっていることへの感謝をお伝えし、手を合わせた。花は、奮発してアヤメ入りの華やかな束を供えた。清楚で美人さんの義母によく似合うと感じた。
私は心の中で、義父のお役に立てていないことを詫びた。嫁として、一般常識で考えれば、お叱りを受けても仕方ないレベルである。このあたりは、今年中に自分の内面としっかり向き合いたい。義父が苦手(理由も無いのに恐怖がわき上がってくる)な原因を催眠療法などで、きちんと見極めたい。最後までしぶとく残されている私の課題だ。
電車でスカイツリーまで移動し、そこから、浅草まで1キロほどをのんびり歩いた。
隅田川の川面が太陽の光を反射して、キラキラ光っていた。美しいなあとうっとりとしながら眺めた。広大な景色が眼前に広がり、解放感を味わった。まるで、鳥になったような気分だ。心は一気に東京湾まで飛んで行けそうだ。
私が川面の煌めきをうっとり眺めていたところ、橋の上ですれ違った若い女性の声が耳に入った。
「うわっ、川、汚い!」
へぇ~。この景色を汚いと見る人もいるのかと、面白く感じた。もし彼女が旅行者であり、自然に恵まれた地域にお住まいなら、彼女が知る川の水は透き通る清流なのだろう。そして東京に住む私にとって、川の水は濁っているのが当たり前だ。
目の前にAという同じ現実が起きている。出来事に違いは無いのに、浮上する感情は、人により違ってくる。同じ体験はあり得ないということだ。Aという出来事を楽しい体験とするも、つまらない体験とするも、その人の経験や価値観、思い込みにより左右されてしまう。
人間は幸せに生きていきたいと切望する。神社仏閣に参拝するのも、自分や家族の幸せを祈る目的がほとんどかもしれない。
幸せってなんだろう。それも人それぞれだろう。お金、健康、安定、結婚····それが叶ったとして、その現実は前述のAに過ぎない。自身の感情という反応により、幸せを感じられないこともある。一時、幸せを感じたとしても長続きしない。また次なる刺激を求め、欠けている何かを埋めようとあがく。そんな雲をつかむような、実体の無いAを触媒にして、私たちはひたすらここには無い何かを探し求めて、幸せな未来を願って生きている。
川の水が濁っていても、綺麗だな~と感じることも出来るし、汚くて嫌だな~と感じることもできる。絶対的な判断は存在しない。幸せもそうだ。
『天路の旅人』沢木耕太郎 著 をこの数日、夢中になって読んでいた。あまりに面白い本なので、またあらためてテーマに取り上げようと思うが、「チベット、インド、仏教、砂漠、ラクダ、巡礼、西方浄土」などのキーワードに魅力を感じられる方は、きっと好きな本だと思う。前世でチベット修行僧などの人生を経験された方であれば、この本を読むと、胸が熱くなってくるに違いない。記憶が無くても、魂は覚えているので、あなたの反応で分かる!565頁ある分厚いハードカバーだが、夢中になりすぎて、読み進むのが惜しくなるくらい。いつまでも読んでいたい本だ。
主人公の西川一三は、第二次世界大戦末期、中国大陸奥深くまで潜入した密偵である。チベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまし広大な中国大陸を横断。チベット、ネパール、インドまで赴いた人物の大型ノンフィクションである。とはいえ、スパイ戦争物ではなく、秘境冒険譚であり、チベット仏教の修行や巡礼が良く分かる内容になっている。
今回取り上げたいエピソードは、過酷な旅の一コマである。西川が、巡礼僧になりすまし、仲間と一緒にラクダに荷物を運んでもらいながら長期間の旅をしていた。ある時、西川は飲み水を得るため、川の水を汲みに行った。水はドロドロに濁っていた。また、川上では家畜が小便をしていた。西川は、その水を汲むのを躊躇していた。旅の同行人が心配して様子を見に来た。「流れている川の水は汚くないよ。」と彼は言って、平気でその水を汲んだ。西川は、自分がまだまだ蒙古人になりきれていないと、大いに恥じたのだった。この場面が妙に印象に残っていた。
ドロドロの水を綺麗だと思うか、汚いと思うのか。育ってきた環境で大きな隔たりができてしまう。日本では、綺麗な飲み水を得られるのは当たりまえだが、砂漠地帯などでは、ドロドロのオアシスでも、貴重な命の水なのである。さらにインドでは、ガンジス河に火葬された人の灰も、動物の死骸も流されているのだが、ヒンドゥー教徒にとっては聖なる河であり、喜んで沐浴するのだ。
今朝の萩原医師のブログを読ませていただいて、胸に響いた箇所を抜粋し紹介したい。
「最近は「三つのさ」を意識している。
〇 穏やかさ
〇 美しさ
〇 静けさ
この三つを指標にしていれば、
先ず、間違いがない。
この言葉は感じる事だから、
潜在意識へつながる。
そこではやたら決めつけないことに通じる。
普通にとらえると困ったこと、
悩みごとはどんな意味があるのか。
何を知らせようとしているのか。
そう思っただけで、
そこにとらわれない何かが
動き出す。」
~以上 萩原医師のブログより~
ああ、この三つの指標はいいな~と思う。
何とでも解釈できる川の水を見て、綺麗だとか汚いだとか
何とでも解釈できるAという現実に、幸せだとか不幸だとか
一喜一憂する。
正義の判断すら、時代が変わればいくらでもひっくり返ってしまう。
時の権力者に罪人として処刑されたイエス・キリストは、今や信仰の対象に。
怖れの対象が愛の象徴になっている。
戦争捕虜を殺すと罪になるが、爆弾で大勢を殺しても罪にはならない?
右往左往、右往左往。
振り回されるのは顕在意識の領域だ。とらわれた意識だ。もしかしたら、肉体に付随する本能やDNAに刻まれた祖先からの影響もあるかもしれない。人間である限り、自我(エゴ)は消えない。肉体を持って魂の体験を実現するには、どうしても自我が必要になる。肉体があるがゆえ、私たちは二元を揺れ動きドラマを起こして様々な感情味わう。そういう仕組みになっている。
今日(月曜日)は、世田谷区に用事があったので出かけたついでに、急に思い立って豪徳寺と松陰神社を巡ってきた。プチ一人旅だ。
松陰神社で吉田松陰先生御言葉みくじを引いてみた。
凶だった。一瞬、落ち込んだ(笑)。
しかし、書かれていた御言葉が心に沁みた。
「苦の甚だしかりものは、楽も亦甚だし
苦の小なりしものは、楽も又少なし」(安政元年冬)
⇒苦しみが多い後は楽しみも同じように多い。苦しみが少ないことの後は楽しみも同じように少ない。今苦しい事も後に振り返れば一笑に付せること。常に心を前向きに人生を過ごすことが大切です。
ああ・・松陰先生!私、これ分かります!この半年で、私はこのことを学びました!今、私は何事をやるにしても、ただただ体験が楽しいんです。何を目にしても、そこに輝きを見るのです。一憂に振れても、それはそれ。前より時間がかからずに真ん中に戻れるようにもなりました。それもこれも、病気のおかげでした。この半年の体験は、私にとって、もはや苦ではないんです。全部学びになっているので、超ラッキーだったなあって思っているんです。もし、少々風邪をひいた程度だったら(苦の小なりしもの)健康の有難さも人の優しさも実感できなかった。(楽少なし)私には、この体験が必要でした。世間では苦の甚だしかりものと捉えられるかもですが、魂目線で言えば、これって最高のギフトです。
私は、松陰先生の墓前でおみくじを開き、心の中でお話をした。不思議と人払いされて参拝客がそのエリアに入ってこない時間がしばらく続いた。
「あなたの志を大切にしなさい」と言われたような気がした。
そういえば、前述の本の主人公である西川氏も、吉田松陰が大好きで、多大な影響を受けていると書かれてあった。意図して松陰神社へ来たわけではないのだが、なんとなく、引き寄せられたかのように、ここに来て墓前に手を合わせている私が居るのであった。本を通して、西川氏の過去の意識とリンクしていたのだろうか。潜在意識は繋がるから、あり得ることだ。
不思議だな~と思いつつ、商店街で松陰コロッケを買って帰途についた。もし西川氏が時を超えてここに居たなら、「松陰先生が食べ物の名前に!?」と、目を白黒させただろう。西川さん、甘いですよ。しょーいん君瓦煎餅も、松陰饅頭もありますからね。
まだ、一喜一憂して、騒いでしまう私ではあるけれど、その揺れ動く感情体験は、大きな学びにもつながっている。それは間違いない。人間だもの。それでいいんだと思う。それをやりたくて、肉体に入ったのだから。今、まさにやりたい事を楽しんでいる真っ最中ということなんだ。
そして、魂が二元体験から充分学んだら、そろそろ「三つの指標」を心がけるようにステージを移行していくのかもしれない。
その時期は魂が知っている。宇宙の流れのままに。変容を促されていく。四季が移り変わっていくように。そういうふうになっている。
吉田松陰は後に日本の近代化の礎となる若者を短期間で育てた。投獄され、若くして刑死。刑場に赴く際に、周りの執行人たちに「ご苦労様」と声掛けしたとか。死の間際も、穏やかで美しく静かであった。こうして松陰先生は時代の大きな役割を終えて、二元世界を卒業されていったのだ。
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