一水四見
今朝、Instagramを眺めていたら、一水四見について書かれた投稿があり、ハッとさせられた。
一水四見とは
人は水を水と見る。
魚は水を住みかと見ている。
天上人は、水上を歩くので、水を水晶の床と。
地獄の餓鬼は、膿に満ちた河と見ている。
それぞれの立場により、見え方が全く違うということらしい。
私は、水は水でしょ?としか思ったことはなかったけれど、
私がもし、お魚だったら、水をどう感じるのかなあ?とか、
天上人は、水の上も歩けちゃうんだ。気持ちいいだろうな~とか。
餓鬼の見方が、確かに自分の中にはあるなあ。と反省してみたりとか。
この四見をイメージとして取り込んでみると、世界は広がり、何より、いろんな角度から世界を楽しめる(味わえる)ことは、面白い!と思った。
一度に二度美味しい。いや、四度美味しい!この想像力は、お得感満載な能力だ。
私たちは、幼い頃から、周りに合わせるように、違ってしまわないようにと教育されてきた。違うと大人から怒られるので、違いは、恐怖になった。怒られると怖いから、周りと同じになるよう努力し、空気を読んで、その場その時の正解を必死で探すようになった。
自分が分からなくなった。いつも、誰かが唱える信念が私の正解だったから。だから、間違えてばかりの自分が大嫌いになった。
その時の正解は次には不正解になった。その都度声の大きな人に翻弄され、同調圧力に苦しめられた。私は、他の皆には正解を見分けられる超能力があるのだと本気で思っていた。正解が分からない私は、まるで異星人だと感じていた時もある。いつもアンテナを立てて、神経を研ぎ澄まし、頭はフル回転だから、いつもヘトヘト。大きな声の人が怖くて、いつ怒られるかとビクビク生きてきた。
反対に、信念とあまりに違う対象には、嫌悪感を感じて、排除しようともしてきた。外側だけでなく、自分の内面も、理想に合わない部分は奥深くに、二度と見なくて済むようにと、閉じ込めてきた。閉じ込めてしまった部分は膿を溜め、時々噴出した。
地獄の餓鬼が水を膿に満ちた河と見るように、他の人には何てことない出来事が、私には苦しみの感情を想起させ、その自動反応に翻弄されてきた。生き辛さを抱えて半世紀生きてきた。
催眠に出会い、ようやく内面と対話するようになった。傷だらけのインナーチャイルドを時間をかけて癒してきた。
まだ、違いに対する恐怖感が、私の中にあるかもしれない。と、ハッとした。今世だけでなく、過去世も含めて。魂に刻まれた恐怖感がある。異端者として何度も殺されているように思う。(催眠療法では、江戸時代の思想家で拷問の上死刑になった前世を見ている。違い=殺される。という思考パターンがあるかも。)
私は、最近、「共感」という言葉を頻繁に使ってきた。
セラピストとして、クライアントに共感したい。だから、病や痛みの体験もするのだと。出来る体験は何でもしてみたい。それが魂のやりたい事だから。共感力を高めることを、魂の学びと捉えてきた。
共感って言葉は、そもそも違うという前提から生まれている。
私は、まだどこかに、「同じでなくてはならない。」という信念を持っていたように思う。これは、私の中にある思い上がりのような気がする。エゴの領域でしか、共感を捉えていなかった。
真の思いやりや、優しさから、共感という言葉を発していただろうか?あらためて、自身の内面を探ると、チクッとする刺のような感覚を発見した。
共感の意味を私は理解していなかった。
同じでなければならない。という信念を手放す時がきた。まだ恐怖感が沸き上がってくるけど、ゆっくり内面を癒しながら、進んでいこう。これを手放さないと、私は共感するために、実体験するというパターンを繰り返さなくてはならない。そうしないと私には分からないと思い込んでいる。肉体を切り刻む体験は、充分やった。もう必死に正解を探そうとしなくていい。
「もう、頑張らなくていいよ。(源泉に)委ねなさい。」数日前の催眠練習会で聞いたメッセージが、ずっと胸に響いている。私も魂の癖を手放す時がやってきたようだ。自我が降参するような大きな出来事が起こる時、私たちは、初めて源泉からの声を聞くようだ。
ある意味、自我を降参させるために、大きな病を現実化してきたのかもしれない。
共感は、思いやりや優しい気持ちがあれば、誰にだって出来る。人には想像力という能力が備わっている。
未来にはきっと、共感というワードすら、その概念すらいらなくなる。
共感しなきゃ。という意識はあまりに不自然だ。傲慢な響きもある。
私たちの意識は、当たり前に共にあり、寄り添っている。深い意識で繋がり合うひとつの宇宙だということに、みんなが目覚めていく。
違っていい。違いは素敵。みんなと違う私もとても素敵。
本当に優しい心で、世界を人を受け止められたらいいなあ。まだ、エゴの住人である未熟な私は、そう願う。
行き着く先は、宇宙の愛、無条件の愛なんだろうか。
セラピストとして人に接していくことは、きっと、このあたりを学ぶためなんだ。
私は、誰かを助けるためというよりは、より自分を知り、学ぶためにやっていくのだろう。
宇宙は、自身を知りたくて
意識を無数に分離して
あっちから見たり、こっちから見たりしながら
観察している。
宇宙は、例えば、水という物質を創造し
その水を、あらゆる立場で味わうことが
嬉しいのだ。
こういう見方も出来るんだ!
その情報を集めて、喜んでいる。
こうやって学んでいる。
バラエティーに富んだ見方が出来るほど、宇宙は、自身を新発見できるのだから、こんなに面白いことはない。
宇宙は、知りたいのだ。
宇宙意識のフラクタルが、私意識。
宇宙と同じことを私もやっている。
マクロがやってることは、ミクロもやっている。
だから、私も宇宙だし、微生物の中にも宇宙がある。
一水四見
深い言葉だ。
☆一水四見の解説
「さまざまな苦しみや悩みから脱却するためには、正しいものの見方が大切です。
しかし、人間は、正しいものの見方をすることはなかなか難しいと思います。
学校や会社の中でも、あるいはグループにおいても、一人でも気にいらない人がいると落ち着かないという経験があると思います。
しかし、そこには単に「その人」がそこにいるだけです。結局のところ「嫌い」という私自身の心が「あの人さえいなければいいのに」という見方に傾いていき、そこから苦しみが生まれてくるわけです。
そうすると、互いに傷つけ合い、最後には苦しみ合う結果になってしまうのです。
「認識の主体が変われば認識の対象も変化する」 仏教の考え方の一つ『唯識』に「一水四見」という言葉があります。
一口に水といっても四つの見方に見える。つまり、同じものでも見る立場や心のもちようによって違うように見えてくるという意味です。
① 天人には水がきれいに透き通ってガラスのように見える。
② 人間の私たちには、そのままの水に見える。
③ 魚たちには住み家と見える。
④ 餓鬼には燃えた血膿に見える。
これは「人」「人間」「魚」「餓鬼」という立場で「水」を見た場合、それぞれ異なって見えることを例えたものです。
これを私たちに当てはめてみると、私たち人間は、みんな生まれ育った環境や境遇、受けた教育、経験したことや考えてきたこと、興味を持ったことなどさまざまで、それぞれその人独自の世界観があり、価値観があります。
それが大きなひとつの「ものさし」となって、いろいろな事を認識しています。
それでは、自分が見ている世界は、他人から見てどのように見えるのでしょうか。同じものを見ていても、気づかないことがあるのではないでしょうか。
世界というのは、実は同じ一つの世界にみんながいるのではなくそれぞれがそれぞれの世界を作り上げてそれぞれの世界を見ているということです。
つまり、人それぞれが各々の世界をもっていて、どこかの接点で同じ共有をしています。そこから「つながり」が生まれてくるわけです。
人生の中で、いろいろな苦しみや悩みに出合った時、ものの見方を私自身が変えることによって、見えなかったものが見えたり、気づかなかったことに気づかされたりして、世界が拓かれていくのだと思います。」
(光華女子学園HPより)
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