意識の変化~入院体験中

 いろいろ感じたことの記録

☆看護士さんたち

平均年齢20代半ばくらいだろうか。シャンプーしてくれた方は、三年目だと言っていた。若いがしっかりしている。皆、楽しそうにお仕事をしている。自然に身に付いた奉仕の精神と慈愛を感じる。彼女ら若い世代は、私たち昭和世代と違い、既に風の時代を生きるベースがあるように思う。エネルギーが軽く、ピュアだ。笑顔が美しく、見惚れてしまう。彼女らを見ていると、天使らが、この大変革の時代に合わせ、ものすごい数転生してきているような気がする。コロナの大混乱を乗り越えてきたのも、現場に大量のライトワーカーが配置されていたからではないか。報道されるのは、悲惨な出来事ばかりだが、魂の役割を担う若い世代が、愛を持って地球全体を包んでくれている。心救われるエピソードも数えきれないほどあったことだろう。

☆屋上で日光浴

歩けるようになってから頻繁に屋上庭園へ昇り、太陽の光を浴びている。やはり、外の空気は濃くて美味しい。免疫力向上に太陽の光は必須なので、暇な時間帯は自然と屋上へ足が向く。修復モードの身体がとても喜んでくれるのが分かる。


屋上には、様々な患者が来ていて、たいていは、静かに座りスマホを眺めたり、飲み物を飲んだりして過ごしている。昨日は、点滴の下がったポールをがらがら引きながら、屋上を行ったり来たり熱心に往復している若い女性を見た。「頑張ってるね!」「頑張ってます!」すれ違いざま、誰かと会話する声が聞こえる。黙々と歩行訓練中。大変だなあ。と思いながら、ふと我が身を振り返ると、私も胸から流れる血液(体液)を出すチューブを装着しているから、透明な管に血の赤い色が生々しい。誰かから見れば、私も痛々しいのかもしれない。皆、それぞれに、痛々しいドラマを抱え、ひとときを共に過ごす。特に交流は無いが、共感し合えるような、ゆるい一体感を感じる。屋上には癒しのエネルギーが降り注いでいる。

私も、誰も居ない時には、体操したり、大祓詞を太陽と東京湾に向かって奏上したりする。光に反射してキラキラ輝く海を見ていると、もしかして、ここは天国なんじゃないだろうか?と思ってしまう。周りは、穏やかさ、静けさ、美しさに満ちている。


昨日、一人で樹木のように日光浴していたら、セキレイが、私のすぐ傍を歩いていた。セキレイは野鳥なので、こんなに人の近くに寄ってくることは無い。やはり、修復モードに入っている人間は自然に近い周波数を発しているから、野鳥も警戒しなくなるのだろうか。てんとう虫も歩いていた。彼らと心地よく調和し、共に太陽や風の恩恵を享受する。それにしても、目に映る世界は、確実に光を増し、美しく輝いている。世界を一層愛おしく感じる。


☆黄色いお魚さん


一階ロビーにアクアリウムがある。外来で通っていた時からのお気に入り。水槽の中には様々な魚が泳いでいるのだが、特に黄色いお魚さんとは仲良しだ。私の友達。毎回、彼の姿を見つけると、ホッと安心する。入院中は外来患者が帰ってしまった15時過ぎから、入院患者は一階へ降りることが出来る。私は、アクアリウム前のベンチに座り、黄色いお魚さんを眺めながらしばらく過ごす。心癒されるひととき。特に会話するわけではないが、その小さな存在を嬉しいと感じる。一緒に居られること。それだけで満足する。


☆病院内売店

コンビニを半分くらいの規模にしたような、小さな売店。入院患者にとっては、オアシスだ。特に買う物が無くても、ついふらっと寄ってしまう。たいてい私は雑誌コーナーで、わずかに並べられた文庫本の背表紙を眺めたり、ちらっと雑誌の表紙を確認したりする。何度見ても飽きない。紙の本は落ち着く。

売店には、15時以降になると、様々な患者が降りてくる。私は、ヘルパーさんに付き添われてやってくる車椅子の老人達の会話を盗み聴くのが好きだ。「○○さんから、ナンプレの雑誌買って来てって言われたの。あ、これでいいわ。表紙可愛いもの。」「何見ます?あ、△△があるわよ。美味しそうね。」など、何気ない会話から、いろいろ想像して楽しむ。○○さんは、きっとベッドから離れられない体調なのだろう。だからヘルパーの付き添いがあるとは言え、売店まで降りられる彼女は、病室仲間の中ではヒーローであり、いろいろ小さな買い物を頼まれて来たのだろう。彼女は、誰かのために買い物する行為がとても嬉しいのではないかと思う。ヘルパーと患者が、あれこれ会話をしながら、丁寧に買う物を物色している姿を見ていると、ほっこりする。一時的な人間関係だが、人は自然と支え合う。出来る事で、誰かの役に立ちたいと思う。どんなに小さな事でも、何か出来たら、やはり嬉しいのだと思う。

☆意識の変化

入院すると、いろんなことがシンプルになるので、感情がより純粋になるようだ。

日常生活で、スーパーに出掛けた時は、忙しく混乱したりしていて、バタバタと買い物を済ませてきたが、買い物を純粋に楽しむ(今、ここに意識を持ってきて味わう)と、一瞬一瞬が喜びの行為であることに気づくだろう。

残念だが、健康体であった時に、私は気づけなかった。昔は、自我の声を静める方法を知らなかった。(今なら、瞑想とか、催眠療法など、魂の声に耳を傾ける方法は分かるのだが。)ついつい、自我優位で生きてしまった。そのため、どんどん本質の生き方から離れ、病気になってしまった。

人は、失ったり、自由を制限されて初めて、その価値に気づくのだ。

私は今回、わずかに一日ベッドに縛り付けられたことで、たくさんの気付きを得ていた。歩けない、手も伸ばせない、一人では、体勢も変えられないし、食事も水を飲むのもできない。

24時間後に、再び自由を取り戻した。「うわぁ、歩ける。」「すごい、自力でトイレに行ける。」「ああ、自分の手で好きな物に触れることができるんだ。」と、一々感動が押し寄せてきた。階段を昇る足に対し、有り難くて涙が流れた。

日常の私が何気なく過ごしていた日々が、じつはものすごい恵みに溢れていたことに、ようやく気がついたのだ。そして私の命は、たくさんの数えきれない繋がりの中で生かされていることにも気づかされた。

感謝の涙が流れた。

日常に溢れている幸せは、いつの間にか見えなく、感じなくなっていく。私たちを健全に育む自然の声が聞こえなくなっていく。

そして、残念ながら、私たちは失って初めて本当の幸せに気づく。どれだけ大きな愛に支えられ生かされてきたのかを実感する。

自然災害や戦争、犯罪、事件、事故、病気····

失う切っ掛けは様々だ。それはいつ我が身に降りかかるかは、一切わからない。諸行無常が宇宙法則だ。

この日常が永遠に続いていくという錯覚の元で、私たちは忙しく生きている。しかし、それは奇跡の一日なのである。「いってきます」と言ったまま、帰ってこない家族もいるだろう。「ただいま。」「お帰りなさい。」を言える幸せを私たちは見落としている。

現実は自分が創っていると言う。

至高の愛のエネルギーであった魂は、地球で制限を味わい、すっかり本当の自分を忘れてしまう。一旦忘れたところから、いかに本当の自分を思い出していくか、という挑戦をしているのが地球体験中の今である。

私たちは、愛そのものであった。

魂は、そのことを思い出すためのイベントを人生にいくつか用意する。これが魂の計画書。ブループリントである。

私たちは、この一生を終える時に

「自分をどれだけ愛したか」

「自分以外をどれだけ愛したか」

「何を体験したか」

の三つの問いに答えさせられるとか。

ブループリントの大命題がここにあるならば、自分を大切にしない生き方をしていたり、生かされている感謝を忘れてしまった場合、

「そろそろ思い出せ!」

と、本当の自分(魂、ハイアーセルフ、真我、内なる神)が、自我(エゴ)を崩壊させるような、ショッキングな出来事を引き寄せるのかもしれない。

それが、人により、災害だったり、大切な方との死別だったり、私のように病気だったりするのだろう。

インパクトが大きいほど、人は気づきやすくなる。そして、どんなに過酷に見えても、必ず乗り越えられる。自分が設定しているのだから、自分が乗り越えられるイベントしか起こりようが無い。こうして魂は成長していく。結果、愛の周波数を高めていく。

だから人生に起きる出来事は、抵抗せず、受け入れた方が生きやすいのだ。そこから何に気づいたか、何を学んだか。特に愛の観点から感じてみると、様々なものが浮かび上がってくる。

前回の投稿

ノヴァーリス『青い花』の一節

「すべて、見えるものは見えないものに、

聞こえるものは聞こえないものに、

感じられるものは感じられないものに付着している。

おそらく、考えられるものは

考えられないものに付着しているだろう」


この一節について、しみじみ味わってみる。

確かに、この入院体験を通し、今まで感じていなかったことを感じている。

私は既に

生きるに必要なすべてを与えられ、

愛され

すべてに繋がりながら生かされている。

私は穏やかな幸せの中にいる。

試練はギフトであったことに気づく。

さあ、ここから魂をどのように成長させていけるのか。

これからの生き方を問われている。

どうやら、愛を表現するフェーズに入ったようだ。内なる神との共同創造の段階へ。

自分を、人を、自然を、地球を、宇宙を愛し、愛を受け取り、その循環の中で

変容を遂げた蝶が、いよいよ飛び立とうとしている。

私なりのメタモルフォーゼを記録してきた。

人それぞれに、変容の過程は異なるが、誰かにとって、小さな気づきに繋がれば、嬉しい。

いつか、あなたの変容の物語も聞かせてください。



☆手術を3回体験することの意味

2020年3月、一回目乳ガン手術により右全摘出。この体験により、しがみついていた仕事をキッパリ辞める決断が出来た。目に見えない世界に興味を持ち、学ぶ過程で催眠療法に出会った。魂の進む方向性が見えてきた。魂仲間と続々再会を果たした。

2023年1月、二回目乳ガン手術により左全摘出。この体験により、「青い花」「平生業成」の気づきに至る。一回目も同じように入院体験をしているのだが、まだ、私の中では準備が整っていなかったようだ。その頃は、病は身体からのメッセージであることも、エゴを自分だと思い込んでいることも、内に真なる自分がいることも理解できていなかった。

私の魂は、段階的に病というイベントを起こして、学びを実現していく計画を立てたのだろう。時間をかけて、じっくり取り組みたかったのだろう。

私の病イベントが一回で済まなかった理由はここにある。急激な変容ではなく、ゆるやかな変容を選択したのだ。約3年かけて、いよいよここまでやってきた。明らかに見えていなかった大切なものを見るようになった。

これは、私の魂の計画なので、あなたにはあなたの魂の道がある。

しかし、もし何回も同じような試練が起こると、悲観している方がいたら、私の例を思い出してほしい。必要なタイミングで必要なことが起きていると分かるだろうから。何らかのヒントにはなるかと思う。

そして、何と!私には次のイベントが待っている。三回目の手術。胸腺腫摘出。入院も一週間くらいの予定だ。来月になるだろう。

次にどんな学びが待っているのか、今はサッパリわからないが、この宇宙の流れに身を委ね、与えられた体験をしっかり味わっていきたい。

自我としては、もう4回目以降はさすがに勘弁してくれないかなあと思わなくも無いが、私の気づき次第で未来も変わるに違いない。

今、私に出来ることは、魂が取り組みたい今世の課題に、しっかり向き合っていくこと。本当の自分を生きることだ。

どんな出来事にも、必ず意味がある。自分と対話しながら、「ここから私は何に気づいていくのだろう?」と、何度も問いを繰り返す。そして、生き方を修正し、学びを深めていく。地球卒業のその日まで。こうやって生きていく。


☆参考

平生業成とは

「親鸞聖人の教えの一枚看板が「平生業成」と言われるのは、世界に宗教多しと雖も、親鸞聖人しか教えられていないのが「平生業成」の教えだからです。 「平生」とは、死んだ後ではない、生きている今、ということです。 「業」とは事業の業の字を書いて、仏教では「ごう」と読みます。 親鸞聖人は、人生の大事業のことを「業」といわれています。大事業といいましても、松下幸之助が一代で世界的企業を興した事業や、徳川家康の天下統一の事業などではありません。 人生の大事業ですから「人間に生まれてきたのはこれ一つのため」という万人共通の大事業のこと。「人生の目的」ということです。 人は何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、苦しくともなぜ生きなければならないのか、ということです。すべての人にとって、これ以上大切なことはありません。 最後の「成」とは、完成する、達成するということです。 人生には、「これ一つ果たさねばならない」という大事な目的がある。それは現在、生きている今、完成できる。だから早く完成しなさいよ、と教えられたのが親鸞聖人ですから、親鸞聖人の教えを「平生業成」の教えというのです。」

浄土真宗 親鸞会HPより抜粋

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