悟れば病気にならないのか②

 前回は、清水氏の投稿を紹介した。

今朝、FBで、またまた病についての興味深い投稿を見つけたので、紹介したい。また、最後には志賀氏の神様周波数について新たな情報も少し追記しているので、お楽しみに。

色んな立場から、病の解釈を比較していて、とても面白かった!

私の解釈も、片寄っていたのかもと、ある意味スッキリしたのだった。

私は催眠療法を習っているので、ホリスティック医療の考えに流されがちである。しかし、それが病を完治させる適切な療法かと言うと、やはり一面的に過ぎない。どちらかに片寄るのではなく、現代医療もバランス良く取り入れ、車の両輪として進んでいくのが良さそうだ。

また、私としては、仏教の考え方についつい馴染みがちである。好んで読んできた本の影響を受けているからだろう。

以下の清水氏の文章を偏りの無い心で眺めてみると、結局は、人間である以上、病の意味を確実に捉えることは不可能であるように感じる。

はっきりしたのは

「わからない」ということだ。

わかった気になって、信念に縛られて進むより、何ものにも縛られない自由な心となり、

わからないからこそ、いろんな気付きの一つひとつが貴重であり、私の人生の掛け替えの無い彩りとなるのだと、素直におおらかに進んでいけたらと思う。

病が無ければ、こんなに日常が愛おしく感じることは無かったかもしれず、ただ、何気なく過ぎ去っていったかもしれない。それも良いかもしれないが、私の魂はおそらく、もっと何かを掴みたかったのだろう。

今のところ、私にとって病は

より、豊かに人生を味わうために起きていると解釈している。

病のおかげで、人との出会、学び、旅など、新しい経験が可能となり、毎日に張りが出た。肉体を大切にすることも心がけるようになった。

本当の自分を取り戻し、いつかは、魂の故郷へ帰っていく。旅立ちの日がいつかなど、誰にもわからない。肉体は必ず死ぬ。これだけは、確実なことであり、避けられない。どんな覚者であろうと。皆平等だ。


以下、清水氏の投稿より

「病気は学びであって魂が成長をとげる為に必要なレッスンなのだ。」というニューエイジ的な考えがあります。


しかし、病気の原因を精神的な側面にだけ還元してしまうと、行き過ぎた自己批判をもたらすことがあります。病気になったことで自分を責めてしまう人がいるのです。


たしかに病気の原因には感情的、精神的な側面もあるでしょう。ですが、それは数多くある神話の一つにすぎません。


病気にどのような意味があるのか単純に決めつける事はできません。


以下、ケンウィルバーの「グレース&グリット」から引用


1.キリスト教原理主義

病気は基本的に、何らかの罪にたいして神の下したもうた罰である。病気がひどいものであるほど、その罪は言語道断なものということになる。


2、ニューエイジ

病気は学びだ。あなたが病気になったのは、あなた自身の霊的成長と進化を続けるために、そこから学ばねばならぬ重要なことが何かしらあるからだ。精神だけが病気を起こす。それを癒せるのも精神だけだ。


3、西洋医学

病気とは基本的に、生物物理学的要因によって生じる生物物理学的混乱である(ウイルスからトラウマ、遺伝的傾向や環境における引き金となる要因まで)。あらかたの病気では、心理的または霊的な治療について悩む必要はない。なぜならそういった非正統的療法は、通常役に立たないし、実際、適正な医学的治療から患者を遠ざけることにもなりかねないからだ。


4、カルマ理論

病気は悪いカルマの結果である。つまり過去世での何らかの非道徳的な行為が、現世において病気という形となって実ったのだ。病気は過去の悪行のあらわれとしては「悪い」ものだが、病気のプロセスそのものが、過去の罪を燃やし尽くし、きれいにするという点では「いい」ものだ。つまりこれは浄化なのだ。


5、心理学

ウッディ・アレンいわく、「怒ったりなんかしないさ。そのかわりガンになるんだ」。これは、少なくともポップ心理学においては、抑圧された感情が病気を引き起こすということを意味している。つきつめると、病気は死の願望ということになる。


6、グノーシス派

病気は幻影だ。現象宇宙は夢であり影であり、幻影の世界から自由になるとき、人ははじめて病気からも自由になれる。それは夢からの目覚めであり、幻影の宇宙を超越した「ひとつ」のリアリティを探すときでもある。〈スピリット〉だけがリアリティであり、〈スピリット〉の中に幻はない。


7、実存主義

病気それ自体には何の意味もない。したがって、それに付与する意味は個人が自由に選ぶことができ、当人はそうした自らの選択に責任を負えばいいだけだ。人は有限にして死すべき存在であり、病気を自らの有限性の一部として受け入れることだけが、正しい態度だ。たとえその病気に個人的な意味を付与しているさなかにあっても。


8、ホリスティック医学

 病気は身体的、感情的、精神的、そして霊的な要因から成り立っている。そのいずれも分けて扱うことはできないし、無視することもできない。治療には、これらすべての次元が含まれるべきである(だが実際には、これがしばしば「オーソドックスな治療の回避」と読み替えられる。たとえそれが助けになるかもしれないとしても)


9、魔術

病気は報いである。「わたしは病気になって当然だ。なぜなら誰それが死ねばいいと思ったからだ」「あまり優秀であってはいけない、きっと何か悪いことが起こるぞ」などなど。


10、仏教

病気はこの現象界にあって、回避しがたい出来事だ。なぜ病気があるのかを問いかけるのは、なぜ空気があるのか問いかけるようなものだ。生、老、病、死はこの世の現象である。これらの現象はみな移ろい行くもの(無常)であり、苦であり、また誰にでも公平に訪れるものとして位置づけられる。悟り、すなわち涅槃を純粋に覚醒することによってのみ、病気は究極的に乗り.越えられる。なぜならそのとき、この現象界そのものもまた超越されるからだ。


11、現代科学

病気が何であれ、それには特別のひとつ、ないしいくつかの理由がある。それらのうちのいくつかは必然的であり、その他はランダムないし純粋な偶然による。どちらにしても病気には何の「意味」もない。あるのは偶然と必然だけだ。

引用終わり 


 病気になると自分になにか落ち度があったと、自分をせめることがあります。


しかしあらゆる生物が病気になります。

病気になった動物や植物も心がけがわるかったのでしょうか?

 

仏典によるとゴータマ仏陀は鍛冶屋のチュンダに出されたスーカラ・マッダヴァという料理を食べてから、酷い下痢に悩まされました。

「スーカラ」は野豚「マッダヴァ」は柔らかいと訳されるところから仏典を文字通りに受け取れば、仏陀は豚肉を食べて食中毒になったようです。

仏陀が豚肉の食中毒で死んだのでは体裁が悪いです。「スーカラ・マッダヴァ」がキノコだとする説も有力ですが二千五百年前の昔のことなので定かではありません。


いずれにしても仏陀は神通力で回避したり、たちどころに病を回復させたりはしませんでした。


結局、ゴータマ仏陀は終焉の地クシナガラで痛みと苦しみの中で息絶えたのです。


 聖ラーマクリシュナは、喉の激しい痛みのある喉頭癌で死去しました。ラマナ・マハリシは夜間、村中に響く声をあげて苦しみ、それが続いたのち胃癌で亡くなりました。同じくインドの覚者ニサルガダッタ・マハラジも癌で死去しています。


 聖フランチェスコは血を吐き、痛みとひどい苦しみの中で息絶えました。聖ベルナデッタはルルドの泉を掘り当てましたが自身の病気に奇跡は起きませんでした。最後は骨の癌か結核により35歳で亡くなっています。


 クリシュナムルティは膵臓癌でこの世を去りました。癌と知ったとき「私はどんな悪い事をしたのだろう」と彼は呟きました。 クリシュナムルティは病院でモルヒネと点滴を受けながら一人の人間としてこの世を去りました。


 病気で亡くなった聖人は山ほどいます。


中には聖人が罪人と同じ病気で死んでは困ると考える人々もいました。そこで、解釈も山ほどあります。


いわく「前世で犯した罪やカルマを相殺したのだ」

「まわりの人のカルマを引き受けたのだ」

まるで聖人はカルマを吸うスポンジのようです。

「苦痛の中でも神を失わないことを教えるために方便として病気になった」

「最後に自我を焼き尽くす為にわざと病気になったのだ」

「病気で死んだのは彼らは真の聖人ではなかったからだ」などなど


 解釈はともかく「こころがリラックスしていれば病気にならない」

「病気になるのは心に問題があるからだ」など病気の原因を心の問題に特定してしまうのは、かならずしも正しい考え方とはいえないでしょう。


何れにしても、悟った聖者もそうでない人も物理的な肉体は例外なく、三次元の物理法則に従って公平に朽ちていくのです。


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☆追記

昨日、本屋で志賀一雅氏の本をちらっと立ち読みしてきた。神様周波数7.8Hzのこと。

面白かったのは

志賀氏自身の自分の体を使った実験。

腰痛だったか、怪我だったか、うろ覚えなのだが、肉体が痛くて苦しんでいた時に、試しに脳波を計ってみたそうだ。よほど、ガンマ波が出ているだろうと予想していたところ、

何と、いくつかの脳波の中に、神様周波数がしっかり出ていたそうなのだ。神様周波数は、肉体を修復する周波数であることは、blogに書いた。(12月16日投稿を参照)

つまり、肉体は痛みを感知すると、自然に肉体を修復しやすいように、免疫を高める周波数を発していることになる。

このことは、私が二年前に入院した際に、いわゆる悟り状態になっていたことを裏付けるであろう。私は、肉体を回復させるために、全身を神様周波数で満たして振動していたことになる。これは生物なら誰にも起きる自律神経の働きなのだろう。

志賀氏は、痛いのは辛いが、痛みに反応して神様周波数が出るのだから、痛み止めを使わない方が治りは早い。とのこと。だから、手術後、安易に痛み止めを勧められることはなく、また翌日以降は、無理やり歩かされるのだ。病院側は、どうすれば治りが早いか、自然治癒力の力を分かっていたことになる。

あらためて、肉体に備わる力に驚かされた。

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