人の体験を尊重すること

 


昨日の出来事

バイト先で、せっせと本を書架に戻す仕事をしていた。

その最中、一人の職員さんから声をかけられた。

仮にBさんと呼ぶことにする。

Bさんは、昔、私が図書館で正職員として働いていた時の知り合いで、地域の別の図書館の館長だった。当時、図書館はとても忙しくて、区民からのクレームは病的なほどで、ストレスから心身の不調を抱えた職員は多かった。世の中全体が、不満の矛先をコンビニ店員や、相談窓口職などに(お客様に強く出られない職業の人たち)ぶつけることが増えていた。私も、お客様の悪意のエネルギーにやられて二週間寝込んだこともある。

図書館は、専門職の色合いが濃く、どちらかというと、職人の集まりのような雰囲気だった。人間的にバランスが取れているというよりは、個性的な(圧の強いような)ベテランが幅を利かせていたように思う。

そんな中で、唯一といっていいくらいBさんは、穏やかで優しい人柄が際立っていた。怒ったところは見たことが無い。どんな小さなことでも親身になり相談にのってくれる懐の広さがあった。このような優しい心を持ったBさんが、館の長として、様々なクレームや山積する難題に対処していくことは本当に辛かっただろうと思う。私は図書館時代の友人は全て縁が切れてしまったのだが、Bさんだけは忘れなかった。ずっと尊敬の気持ちを持っていた。

あれから10年以上経過。今年に入ってからBさんが私のバイト先に異動してきた。もうBさんは長ではなく、定年退職したため平の立場になっていた。

Bさんは大ベテランなので、図書館のことで良く分からないことがあると、Bさんに相談するようになったのは自然の流れだった。彼女はいつも優しく聞いてくれた。ただ、「私、ここでは新人なのでね。」と、出すぎないようにまわりに最大限配慮していることは伝わってきた。Bさんの良さが、ギュッと縮こまっているように感じた。

まだ、この職場は、地の時代のエネルギーが色濃いようだ。つまり、改善しようにも、即決が出来ない。誰かの顔色をうかがいつつ、目立たないよう探っていく感じ。日本人的というのか、昭和的というのか。立場をわきまえることが沁みついてしまっている。

風の時代は、縦のつながりではなく、横のつながりになるらしい。エネルギーもどんどん軽くなっていく。イメージとしては、仲間の誰かが、アイディアを出したら、まわりは面白がって、どんどん実現に向かっていく感じ。立場とか、誰かの顔色をうかがうとか、どんなにいいアイディアでも、あの人の言う事は実行しないとか、そんな重苦しいエネルギーではない。上下はなく、互いに尊重し合う。違いはギフトとなり、刺激し高め合う。相乗効果で新しい創造が叶っていく。つまり、右か左かの二択ではなく、(私は正しい、あなたは間違っている。というジャッジではなく)二つのエネルギーが交わることで、化学反応が起き、第三の道が拓けていく。

さて、時を昨日に戻そう。

Bさんは、フロアーで作業中の私にそっと声をかけてきた。

私が数日前に相談したことについて、必要な事実関係を確認してくれたのだった。「さて、問題は、これを誰に話すかよね。私はここでは新人なのでね。」Bさんは、弱弱しく微笑んだ。私はちょっと胸が痛んだ。グレーのままにしておいた方がいいこともあるのかなと思った。この件は、立場的にキーマンらしき人にも相談していたが、改善はなされず、どうやら忙しさに紛れ棚上げされているらしかった。すごく単純なことなんだけど、スーッと通らない。きっとこの事にも意味があるんだろうな。私はここから、地の時代と風の時代の仕事の違いを学ばせてもらうのかもしれない。移行期は、エネルギーが混在するから、仕方ない。

そして、話しながら、Bさんの顔を見て、ビックリした。

Bさんは、ボロボロ涙を流していたのだった。

「どうしたんですか?目が痛いですか?お疲れなんじゃないですか?」私は驚きを隠せず、おろおろした。

「どうしたのかしらね。最近、涙が止まらないのよ。目薬もさしているんだけどね。」Bさんは笑いながら答えた。そして、その間も涙を流し続けていた。マスクをつけているから目立たないけれど、尋常ではない。

「いろいろ、大きな環境の変化もあったしね。」Bさんは、ガッツポーズをして、自ら気合いを入れ、カウンターへ戻っていった。

ああ・・・どうしたらいいんだろう。Bさんは、精神的疲労がマックスであるようだ。もちろん、眼の疾患ということもあるかもだが。

私も、過去に涙ばかり流していた時期があった。そして鬱病となり、休職となった。きっと交感神経優位(闘いモード)が続くと、自己治癒力が涙を流させ、リラックスを促してくるのだろう。涙は体からのSOSだ。このサインを逃すと、病として体に現れてくるかもしれない。

そう言えば、バイト仲間の一人が体調を崩し、長期の休みに入ったばかりでもあった。心優しい明るいキャラクターの女性であったが、だんだん元気を喪失していたのが気になっていた。「自分は迷惑ばかりかけている。失敗ばかりしている。」という発言が多くなっていたので、おや?と思っていた矢先でもあった。

私は、催眠療法を習っているし、彼女たちのお役に立ちたいと心から思った。せめてお話を聞いて、少しでも楽になってもらえないだろうかと。どうしたらいいんだろうか。いきなり「私、催眠をやってるので、やりませんか?」と誘う?なんだか違うような気もする。うんうん悩む。とてもデリケートな個人の問題である。いくら技術を持っていても、どう活かしていいのかが分からない。そして、仕事中はお互いに忙しすぎて、個人的な話をする暇がまず無いのだ。

頭で考えても、いい解決策が見つからない。仕方ない。思考はエゴの領域だ。「催眠で役に立ちたい」も結局はエゴだ。人を助けたいと願えば、助けられたい人が引き寄せられてくる。つまり、私が助け続けなければならない現実を創造することになる。そうではなく、彼女たちが、明るく元気にのびのびと生活しているイメージを描く事の方がプラスに働くだろう。現実化の仕組みからいくとそういうことになる。

まず、Bさんの、ハイアーセルフに思いを届けることにした。「Bさんのお役に立ちたいのですが、私はどうしたらいいですか?」

手は動かしながら(本を書架に戻す作業)だから、さぼっているわけではない。作業に集中している時、脳波はα波になるので、いわゆる催眠状態となる。この状態だと、直観を受け取りやすい。

そして、ふと湧き上がってきた思い。

「Bさんを尊重しなさい。あなたが、Bさんの体験を邪魔してはなりません。」ということだった。

Bさんのこの体験は、Bさんの魂が必要で起こしていることだ。頑張り屋さんのBさんは、もしかしたらこの体験を経て、自分の心身を優先し、大切にすることを学ぶのかもしれない。外側にエネルギーを注いできたものを内側に向けるための転換期を迎えているのかもしれない。出来れば病気になってほしくはない。でも、Bさんの意識変容に必要であれば、必然として病を現実化するだろう。真面目な性格であればあるほど、インパクトのある出来事が起きなければ今までの生き方を振り返ることは難しいだろう。

そして、私の体験から言っても、鬱病やがん闘病は、人生のギフトだったことをあらためて思い出す。時間はかかったけれど、少しずつ生き方を変えることが出来た。病と言う切っ掛けがなければ、ずっと苦しい現実の中でもがいていただろう。私は、病から、たくさんのことを学んだ。その過程で「本質を生きる」ことに誘われた。「あなたは、本当はどう生きていきたいのか?」という問いに真摯に向き合っていくということだ。

私は、自分の真ん中に問いかけた。

「では、私の催眠療法は、どうやって人の役に立つのですか?」

私からの答え

「催眠療法は目に見えない世界でのご縁で結ばれる。あなたの施術を必要とするなら、自然にお膳立てがなされ、貴方の前に現れる。自然の流れに委ねなさい。」

つまり顕在意識で良かれと思って強引にお誘いするような施術ではないということだ。

そう言えば、確かに、なんら営業努力もしていないのだが、月に数回はセッションの機会を得ている。全部向こうからやってくる。宇宙の采配としか思えないようなご縁ばかりである。どの人も、「私はこの機会に導かれてきた。人生で絶好のタイミングだった。」と言った。

あの人の助けになりたいな、と、私から「どうですか?」とお誘いしたものは、全然セッションに結びつかない。連絡が途絶えてしまう。意図的に仕掛けようとするとご縁が結ばれないのだ。これは100%。そうだった。「あの人を助けたい!」と思ったものは、全部。

本当だ。ご縁は目に見えない世界でセッティングされるのだから、私はそれを信じて待っていればいいのだ。かえって自分(エゴ)で動くと邪魔になるのだ。そういう世界で私は役割を担っているんだ。

私「では、私はBさんに何も出来ないのですか?」

答え「いるだけでいい。あなたが穏やかでリラックスして、その場に居ればいい。何かしようと思わなくていい。あなたのエネルギーが、場を癒やす。優しい波動で挨拶し、笑顔でいればいい。そのままでいい。」

この価値観は、なかなか伝わらないかもしれないが、きっと世の中はこういう流れになっていくと思うので書いておく。

極論かもしれないが、困っている人、可哀そうな人を見た時に、どうするか?

地の時代なら、例えば戦争。

戦争反対のデモに参加する。募金する。支援のために駆けつける。など、具体的な行動が美徳とされた。可哀そうな人を見たら、自分も一緒になって悲しみ、苦しい感情を共有する。結果、一緒に波動を落とす。

風の時代は、「人の体験を尊重する」

その人の魂の学びに必要な事が起きている。戦争ですら、そこから学びたい魂が体験をしている。特に地球は光と闇の両方を体験できるため、飛躍的に魂が向上する。より完全知を得る貴重な学校なのである。

自分に出来ることは、自分に集中すること。自分を愛で満たせば、そのエネルギーがあふれ出す。まずは自分を幸せにすることが世界を幸せにすることに繋がる。逆だったのだ。自分が高い周波数を発することで、意識のフォーカスは移行していく。その魂がどの周波数に満ちた世界を体験したいかは、それぞれの自由意思に委ねられる。どの体験も貴重であり、宇宙源に受け入れられている。この世界は多次元であり、無数のパラレルが存在する。平和な愛に満ちた世界を味わいたければ、自分がそういう在り方をすればいい。

助けなければならない存在など、いないのだ。

苦しむ人を助けたい!と心から願うなら、苦しむ人ばかりが住む世界に移行してしまうのだ。だって、苦しい人がいないと人助けができないからだ。何と言うパラドックス!

人には人の学びがあり、段階がある。正しいも間違いもない。「あなたは、今、それを体験し、そこから学びたいのですね。」ということだ。

だから、Bさんが、精神的に疲弊し、涙を流しているこの体験は、大切なのだ。もしも、Bさんが催眠療法により、生き方を変えるきっかけを得る必要があるのなら、そういう現実化を彼女の宇宙の中で起こすだろう。発病し、しっかり休養する必要があるなら、誰かが彼女を救おうとしても何も変わらないだろう。


私の宇宙も、あの人の宇宙も、交差しているが、それぞれの宇宙だ。

私は、あの人の宇宙の中では、別の私で

あの人は、私の宇宙の中では、別のあの人で

互いの学びに則して役割を演じているに過ぎない。

そして、起きる出来事に一喜一憂しながら、様々な体験をしているこのリアルな現実に、ある日ふと気づくのだ。

「あ、夢だったんだ。」と。

たった一つの意識が見てる夢にすぎなかったのだと。


ここに書いたことは、一読すると矛盾する部分もある。どの視点(次元)から言葉を選ぶかでも、捉え方が変わる。三次元と五次元では、まったく正反対の表現をするだろう。言葉は限定的であり不自由だ。それをとても痛感する。世界は重層的で、多面体だ。テレパシーなら、まるっと伝わることでも、言葉は一側面しか伝わらない。せめて、エネルギーを感じていただけたらと願う。顕在意識で捉えると、真意は伝わらないだろうと思う。

私は、大まかに分けると、二つの次元を行ったり来たりしているような気がする。

このblogは、どちら側の世界で書いているのだろうか。

☆『雲のむこう、約束の場所』

新海監督作品

平行宇宙

個々の現実は宇宙が見る夢

何かを失ってしまうという怖れ

それは、目覚めることで忘れてしまう、夢の中での誰かへの大切な思い

夢なのに、色鮮やかで、あの瞬間は輝いていたんだ。

私は、誰かをとても、大切に思っていた·····

ような気がする

一瞬一瞬が、夢の断片だとしても

なんて、愛おしいのだろう。

宇宙が見る夢を見事に描いてくれた

稀有な作品だ。


☆『星を追う子ども』

新海監督作品

君のいない世界にHello

喪失を抱えて生きる

それは、人にかけられた呪い

同時に、祝福でもある

人と人は出会う

いつか、Good byeを言うために


私、そろそろ生まれなきゃ。


☆素戔嗚尊からのメッセージ

「内なる行動こそが、本当の行動

目に見える行動は溢れだした余韻である。」

あなたは、魂を震わせて生きていますか?

その行動が魂の反応からでなければ、空っぽの行動です。本当の行動は魂が震えます。

もし、空っぽの行動をしているなら、見直していきましょう。

これが新しい地球の生き方です。


YouTube宇宙くんの手紙より



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