「空」を垣間見る

 


今朝の東京上空に彩雲発見


『般若心経』

舎利子

是諸方空相

不生不滅

不垢不浄

不増不滅


この世のすべての現象には、空という特性がある。新たに生じることも、消滅することもない。汚れたものでも、清らかなものでもない。増えるのでも、減るものでもない。

禅語に「説似一物即不中」という言葉がある。

言葉で説明しようとしても、真意を述べるのは難しく、説明した途端に的はずれになってしまう。

波と粒子、宇宙創世の話もそう。目にも見えず、音にもならない脳のネットワークの中で生成消滅を繰り返す何か。空の世界での出来事。

宇宙は無のゆらぎから生まれた。この無とは、有に対しての無。空間、時間、物質、エネルギーのいずれも「ない」

正確にいえば、それらが定義できない状態としての無から生まれたということ。

不生不滅とは、私たちの生命現象を思い浮かべる。人生の始まりが誕生、終焉が最後だともいえない。宇宙誕生から進化の過程までのすべてを含む。誕生、終焉というのは、それらの継続のバトンタッチの瞬間。

その人がその人本人として存続できるのは、その人が、他との関係性において存在しているから。このような意味で、不生不滅は、世界が空であることの証となる。

不垢不浄とは、汚い、清らかである、という絶対的な状態は存在しないこと。古びた茶碗も、視点を変えれば価値ある侘びた趣に変わる。赤ちゃんのほっぺたについたご飯をお母さんが食べるのもそう。すべて心の中でつくりあげられる概念。世界は不垢不浄だ。

不増不減とは、物理「エネルギー保存則」と呼ばれる根源的原理がある。エネルギーは姿を変えながら循環し、全体の量は変わらない。世界は不増不減だ。

インドの僧、龍樹は

「今、現に去りつつあるものが

去る

とするならば、

今、現に去りつつあるものには

去る

ことが、意味上、含まれることになる。

去るものがさらに去る

という矛盾に陥る。」

といっている。

これも不増不減のひとつ。

過去は存在せず、存在するのは、現在だけである、という主張に使われている。

未来についても同様。未来、過去は、すべて現在に含まれる。これらのすべては、いずれも空であることの証。

未来は一瞬ごとに現在となり

現在は一瞬ごとに過去へ遠ざかる

つまり、現在は、過去も未来も含んでいる。


このように空においては、体、受、想、行、識といったような心の作用の独立した実体はない。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心に浮かぶ意識などについても同じ。形、音、香り、味、感触、心の対象になるものについても同じ。すべて、独立した実体はない。

たがいに関り合いながら存在しているのだから、独立した存在ではなく、器官の機能も不変ではない。すべて「ない」と言っているのだとするのは誤解。

「ない」と言っているのは、「いつまでも変わることのない実体としての存在はない」ということ。同じケーキでも、楽しいときの味と悲しいときの味は違う。絶対的な味なんてない。感じ方は、ひとつの感覚器官だけでなくて、ほかのいろいろな器官や環境によって、違ってくるということ。

ブッダの認識論では、十八の構成要素からなる領域を定義しているが、それらすべてに対して、その独立した実体がないことを主張している。我は無、その一方で、存在の構成要素は有であるとしていたことへの挑戦だった。(自我という錯覚を消滅させることが煩悩を断ち切る方策だとする。)

それは、すべてのことが宇宙全体と関わっているという意味で、永遠につながるという安心感を与えることになる。

『マンガで読む14歳のための現代物理学と般若心経』佐治晴夫 著 春秋社 135~148頁より、要約

般若心経は、そのまま読むとちんぷんかんぷんである。いくつかの意訳を読んだことがあるが、「空」について、いまいち理解が追い付かないままだった。最近は、十代の子ども向けの本を一流学者さんが手掛けてくださるようになり、有難い。

般若心経は、物理学の知識を踏まえると理解しやすいと聞いたことがあるが、どちらも、未知なる宇宙をどう捉えていくかという人類の挑戦であり、こうやって、両方からアプローチすると確かに面白い。

「空」は、つかみどころが無いし、冒頭にあるように言葉にすればするほど遠ざかる。

先日の日曜日に催眠療法を受けた。安全地帯で、無数の木枠を見た。中を覗くと、それぞれ私の過去世や未来世の人生に通じていて、ビックリした。

安全地帯(いま、ここ)に、過去、現在、未来が同時進行で起きていて、「私」(宇宙根源から分離した意識体)は、意図すれば好きなところにフォーカスできる。木枠の中で展開されている人生は、どれも進行中であり、完結していない。つまり、不変ではない。

例えば、現在の私が、何か気付きを得たとする。物事の捉え方を変化させる。「今までは、○○を憎んできた。敵だと思っていた。しかし、俯瞰してみたら、その体験があったから、△△という学びを得た。おかげで今、この職業についている。結果的に魂が喜ぶ現実を引き寄せた。」など。「人と人(出来事)は、目に見えない縁で出逢わされ、互いに影響し合うことで、絶えず変化していく。ああ、感謝しかないなあ。」と、感じかたが変わると

過去世に連動し、同じようなシチュエーションでの過去の私が、気付きを得る。解放が起きる。退行催眠療法を受けると、よく分かる。

これは、ひとつの例だが、ひとつの人生は、過去だから完結していて、変わることが無いというのは誤解だ。

「今、ここ」を大切にする意味がよく分かる。

後悔という感情も、「今、ここ」で、捉え方を意識的にでも変えるだけで、過去の捉え方は一瞬で変化し、感謝や喜びになっていく。

よく、現実は幻と言われる。

目の前に起きている現象に、意味を付加して、感情を選択し味わっている「私」。

「私」単体では、存在できない「空」。

目の前の出来事があり、目の前の誰かが居ると認識することで、「私」が様々を体験することが可能になる。

今、感じている不快感も、十八ある領域の総合作用であり、気づくと、ちょっと深呼吸しただけで、「な~んだ、たいしたことないや。」に変化するようなものかも。

だから、ネガティブを手放してポジティブに切り替えましょうと、短絡的に結論付けたいわけではない。

先日の前世で、私は、知的障がいを抱え、火事を起こし、家族を失い、人々から疎まれ、淋しく短い不遇の生涯を送ったわけだが、副産物として、芸術性の萌芽を味わった。別の人生で仏師として後世に残る作品を創りあげている可能性もある。(さらに過去へ転生して、例えば鎌倉時代で不動明王像を塑像している気がする。)

こう見ると、魂が個性のエネルギーを三次元世界に表現するために自ら設定した人生であり、「過酷で不遇で可哀想」という一面だけを眺めた捉え方は、的はずれになる。

例えば、今、悩み尽くし、心の病気になって苦しんでいる人がいるとする。ひとつの人生で極限まで悩み苦しみ尽くす体験を選ばれた勇敢な魂とも言える。その人の魂プランからすれば、この人生で何らかの療法で癒されてしまうと、必要な気付きに到達できない。そうならないため、意図的に潜在意識にブロックを仕掛ける可能性もある。そして、極限まで行き着いた経験を活かし、次の転生で、過去に遡り、龍樹に生まれ変わるかもしれない。だから、誰にも、その人生の評価など出来ないのだ。

今世で充分に過去を癒し、覚醒し、物理次元を卒業するもよし。天命があり、必要な体験を通し学び、必要な時代にまた転生して歴史に名を残すもよし。

どんな相互作用で、どんな世界を創造するのかは、おそらく魂にしか分からない。魂には、宇宙源の意識が入っているので、いつも繋がっていることになる。

だから、今、言える唯一のことは

必要なとき

必要なことが

必要なだけ

起こる

私たちは、宇宙の循環の流れにある

ということだ。


草場一壽 OKAMIカード『不動明王』



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