釈迦の死と命の喜び

 


釈迦はおなかをこわして亡くなったのは、本当だろうか。

実は、食べたら死ぬとわかっていて、それでも食べて亡くなったという解釈もあるそうだ。

八十歳を迎えた釈迦は、説法を聞いて感銘を受けたチュンダという金細工師から、翌朝の食事を用意したいとの申し入れを受けた。

釈迦はテーブルの上の料理を見て、キノコはほかの者には食べさせないように、そして残ったキノコは土に還すようにと伝えた上で、それを食べた。

釈迦は毒のあるキノコ料理を食べたのが原因で、激しい苦痛の末、死に至る。

その後の展開を覚悟の上で、あえて口にした。チュンダの布施の心をまっすぐに受け止めたのだ。

激しく衰弱した釈迦の姿に、チュンダの心は張り裂けんばかりだったろう。そのチュンダに対し、釈迦は、自分を責める必要はない、死ぬのはわたしがこの世に生まれたからだ、と諭した。

人類に、いや生命体に平等に与えられるもの。それは死。

釈迦は弟子に言った。

人々がチュンダを責めるかもしれない。しかし、チュンダが責めを負うことはない。チュンダが最終的にわたしを悟りへと導き、涅槃へと送ってくれるのだ、と。

『新しいわたし』二戸依里 著 風雲舎 115~116頁参照

今朝、この部分を読んで、ハッとしたのである。

ひとつの死に執着し、恨みや悔いを持ち続ける必要は、そもそも無いということ。

結局は、必要なタイミングで、必要な体験を経て、死ぬ。死の形は様々。自然死で静かに逝くケースもあれば、誰かに憎まれ役をお願いし、ドラマティックな死、壮絶な死を選択するケースもある。後者は、目に見える世界の価値観だけで測れば、悲惨だが、実は魂の飛躍は大きい。自分だけでなく、周りにも多大な影響を与え、共に成長することが可能になる。

私は、たくさんの前世を観て、様々な死を味わってきた。中には、悲惨な死もあった。大いに傷つき、怒り、恨み、後悔、悲しみ、痛みを抱えてしまった。それらはネガティブな感情の記録となり、魂に詰め込まれ、転生の度に、似たような課題を引き寄せてきた。それは、浄化のための魂の旅である。反対の立場を演じながら、双方の心情を味わい、理解を深めていく。それは赦しにつながっていく。これでよかったのだと。すべてを受け入れ統合されていく。

何百何千と繰り返される転生は、直線的な時間概念だと、何万年という遥かな旅路であるが、実は、時間は幻にすぎない。今、ここで、すべてが起きている。

ハイアーセルフ=高い次元の自分は、未来の統合された自分とも言う。

ハイアーセルフは、無数に分散した意識を多次元に分け、あたかも一つひとつに自由意思があるように思わせて、唯一無二の体験をさせている。分散した意識の乗り物が魂である。ハイアーセルフの持つ情報は広大なため、低次元に持ってくることが出来ない。そのため、必要な情報をビックアップして、魂に詰め込んで、次なる体験を展開していくわけだ。おそらく、前世と思われる記憶は、新たな自分の体験に必要で、選択されたもの。ビュッフェで皿に取り分けた料理みたいなものである。

この分散された意識がマインドをツールに様々な感情を味わい、ドラマを盛り上げつつ、気付きを得ていく。その経験をハイアーセルフは包括し、情報を蓄えていく。一度に無数の人生を味わい、成長していくわけだから、宇宙が創造したこの意識分散システムは、うまく出来ているものだと、感心しきりである。

釈迦はわかっていたのだ。この体験が、自らの悟りとなること。そして、すべてをあるがままに受け入れ、マインドを超えて「ゆるす」ことが、この苦しみの輪廻からの解脱となること。それを後世に伝える役割が、あったこと。

解脱とは、輪廻ゲームのカラクリを知り、「あ~そうだったのか!」と、悟ること。そのゲームから抜けることだ。

今、目の前に起きている出来事も体験も感情も、痛みさえも、自分が選択して創っている。究極の自己責任。これがやりたくてやっている、宇宙源の意識の一滴。そんな「私」と認識し直して、あらためて、現実を眺め、感情を、体感をしみじみ味わってみてほしい。

今、あなたが感じているすべてが、何物にも代えがたい価値があるということ。この一瞬の命の煌めきを、ふわりと抱いて深い呼吸をしてみよう。

今、ここにあるのは、喜びだけになる。

すべてはこれでよかったのだ。

さあ、前を向いて

美しい道を歩んでいこう。


*写真は、7月9日の浅草寺の空

たくさんの龍や鳳凰が飛び交っていました。

今、どんな役割で、どんな人生を歩んでいても、私たちの本質は永遠の光です。

そんなことを日暈の優しい光が伝えてくれました。(冒頭の写真)

まるで、昇龍のようだと

素敵なコメントをくださいましたYさんに感謝です。

☆今朝の気付き

先ほど、ピーマンのツナ和えを作るためレシピを見ていた。ピーマン6個250gと書いてあったので、種を取ってから測ったら本当に250gだった。わ~。こうやって規格品を作るって、農家さんは大変なんだろうなあと思った。規格に合わない野菜は処分されたり、農薬や殺虫剤に頼らなくちゃならなくなったり。

でも何だか不自然だ。ピーマン6個が何gになってもいいじゃん!とも思う。小さいの大きいの、いろいろな育ちかたがあっていい。結局、自分たちの思い込みが、窮屈な管理社会を生み出していく。野菜はきれいな形で大きさが揃っていて虫に食われていないものを求めるとか。実際に畑をやれば分かるが、雨やお日様の下で野菜たちは自由気ままに育っていくし、虫さんや鳥さんだって、食べることもある。自然の循環の元で健やかに育つことこそ、一番大切にしたいなあと思う。

キュウリは、曲がりたければ、思うままに曲がればいいよ。

私は、窮屈な管理社会ではなく、自由で健やかな社会に生きたいとあらためて意図した。

先日購入した文庫本をパラパラめくったら、1ヵ所、裁断がうまくいかなかったのか、折り紙みたいに頁が畳み込まれて製本されていた。いわゆる乱丁本。出版社に送れば取り替えてくれるらしいが、しばし悩み、このまま手元に置くことに。だって、この本を送ったら、捨てられてしまうから。

たまたまこの形で世の中に生み出された本。唯一無二の個性を持った一冊である。途中が折り紙みたいになってるなんて、それはそれで素敵じゃないかな。何が書いてあるのか、あちこちから覗き込むのも、また新鮮だ。

みんな、みんな

自由な形になったらいいよ~。

わたしも、あなたも。


翼あるもの。



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