人生解明のタイミング

 人生には、タイミングがあるのだなということについて。

3日前に、第二次世界大戦を命がけで駆け抜けた一生を再体験した。あまりに強烈だったため、数日ぼんやり過ごしていたのだが、何か書けそうな気がするので、筆を進める。

7年前だったか。役所で正職員として働きながら、うつ病に苦しみ、二回目の休職に入っていた時期。とある友人から「前世を観れば何か理由が分かるかも。」と軽くアドバイスされた。

当時はスピリチュアルな知識が乏しかったのだが、何故かその言葉に食いついたのだった。今思えば、人生解明の伏線だったのだろう。人は、必要なタイミングで、ベストな選択をしているものだ。理由など自我は分からない。気づくと、目に見えない力に流されている。後になり、あれがここに繋がるのか!と驚くことになる。

アカシックレコードの第一人者にすがった。一時間3万円。私にはかなり高額だった。今までの私なら、あり得ない選択であり、夫もよく許してくれたものだ。今思い出しても、本当に不思議だ。

アカシックレコードを読み解く方は、基本的に私の質問にしか答えない。アカシックには、膨大な情報がつまっているためだろう。クライアントにどの情報が必要かは、本人に委ねられる。

分かったことは

地球転生150回

宇宙時代はオリオンにいた

アトランティス時代はアーティスト

エジプト時代は職人

ネイティブアメリカンのホピ族や、チベットの僧侶

直前の前世は、第二次世界大戦で亡くなった青年。死亡場所は東京。自分の死体に執着し、死後、体がどう処理されるのかを最後までじっくり見ていた珍しいケース。

近い未来のイベントは、覚醒(別に、修行も何も必要ない。自然とそうなる。)

とのこと。

この方からは、「今の仕事、辞めてくださいね。」と、さらっとアドバイスされたのだが、私は辞められなかった。そして、5年後に癌になり、否応なしに退職することになる。

アカシックレコード第一人者とは言え、他人から言われるわけだから、半分は信じられない気持ちでいた。いくらアドバイスされても、人生を選択するのは私なのだ。私は、未来への不安から、仕事にしがみついていた。現状を変えられなかった。

前世を観てもらった事を、当時の尊敬する知人に打ち明けたところ

「前世など無い。大抵は、ホピだとか、チベット僧侶だとか、言われるものだ。(つまり、インチキだ)。あなたが、そんなものに傾倒するなら、関係を切る。」と厳しく言われ、半信半疑ながらも、前世に答えを求めるのを諦めたのだった。

「この尊敬する人がそう言うのだから、きっと前世など無くて、私は馬鹿なことに大金を叩いてしまったんだなあ。」と、項垂れた。でも、どこかで、前世をもっと探求してみたいという思いは小さな火種として、私の中に燻り続けていた。前世は無いかもしれないけど、もしかしたら、有るかもしれないと。

おそらく、まだ、タイミングが来ていなかったのだろう。私には、現実世界でまだ体験を通し学ぶカリキュラムが残されていたようだ。苦しかったが、確かに学びが多かった。

これも、今思えばだが。人生の脚本は緻密に書き上げられているものだと、我ながら感心する。そして、伏線が回収されたのが、三日前の前世療法だったわけだ。

前回の投稿を読んでいただければ分かるかと思うが、セッション中に、軍服を着た青年が出てきた瞬間

「いよいよ対面か!アカシックレコードは、本当だったんだ。」と、興奮した。

自分の体感で、その人生のストーリーを感じるわけだから、しっかり腑に落ちる。

私が、その前世から学んだことは多いが、一番大切に感じたのは、人類の集合意識についてだ。

戦争は何故無くならないのか。

誰も戦いたくない。無惨に殺されたくもない。それなのに、有史以来、戦闘が絶えない。

絶えず比較し、異質なものを排除しようとし、正義の名の元に、戦い続ける。戦争に勝てば幸せになれると信じて。

光と闇の戦いは、オリオン大戦で熾烈を極めた。その記憶を元に、地球に転生した魂たちが、まだ繰り返しているように思う。

昨日読んでいた本に

「オリオンの戦い(分裂)は調和(融合)を目指すもの」との記述があった。

「戦いっていうものは不毛なのよね。そこから何も生まれない。調和を目指していく戦いにしか、生み出すことはできない。というのは、とても深く考えさせられた言葉でした。戦うことはよくないというイメージがあったのですが、戦う相手にもつながる  し、それによって調和を目指す  というサブコンシャスの言葉は、とても素晴らしいと思いました。(中略)

シュタイナーはオリオンは融合の印と言うが、無と無限の関係を考えると、分裂と融合は同義語。(中略)

つまり、オリオンの戦い(分裂)は調和(融合)を目指すものなのです。」

『宇宙世記憶』Naoko著 ヒカルランド 84頁

この部分を読んで、少し手がかりを得たように思った。

この本は、QHHTという手法で、クライアントに催眠状態で宇宙多次元記憶を思い出してもらったセッションの記録だ。私が習う古典催眠でも、宇宙記憶を語り出すクライアントは居るので、大変興味深い。

前世療法は、クライアント個人の魂記憶を題材としているのだが、その背後に、もっと大きな意志と言うのか、働き掛けを感じてしまうことがある。

その主な力が、地球を舞台とする戦争である。

占星術により時代の流れを読み解くことができるように、地球のような惑星も、星座の配置に影響を受けるようだ。

オリオンの戦いが、双子座や蟹座の影響で「分裂と融合」をテーマに繰り広げられたように

宇宙規模で、大きな流れが作られているように見える。

個々の魂がブループリントを作り、それぞれが設定した出来事を通し、体験を繰り返しながら学んでいるように

宇宙規模でも、巨大なブループリントがあり、多次元に渡り、緻密に絡み合い、最終的には目指す方向へ導かれているように思う。

今、目指しているのは、「融合」の方角。

地球を学舎として、体験を重ねている人類は、集合意識を使い、「分裂」の極みである戦いを現実化し、「融合」へUターンを試みようとしているのではないだろうか。

Uターンは、一斉に行われるわけではなく、個々の魂が自らのタイミングで、目覚めていく。今は、バラバラに目覚めが起きているため、集合意識が創る現実は混沌としている。

しかし、宇宙規模の流れは、確実に目覚めを促してきているので、過渡期を経た後は、集合意識も戦争を現実化する必要は無くなるだろう。

目覚めとは、

私たちは、肉体を超えた存在であり、永遠の意識エネルギーであり、多次元存在であり、いずれは宇宙源に還る旅をしている。元はひとつ。と思い出すことを言う。

そんなことを考えていたら

第二次世界大戦で、あんなに怖くて苦しい思いをして、時代の犠牲になり、なんて可哀想なんだ!という自己憐憫よりも、

壮大な気付きを得るために、大勢の魂が協力して学びを深めている貴重な体験と捉えるようになった。

この気付きを得るには、私の方の霊性もある程度高めておく必要があった。

もし7年前に、前世療法でこの戦争体験を見せられたとしても、トラウマの上塗りにしかならなかっただろう。

私の準備が出来たから、この前世を潜在意識は出してきた。

奥深くに居る(意識エネルギーの)私が、成長に合わせ、許可を出しながら、気付きの切っ掛けを現実に創り出してくれる。

最適なタイミングで必要な事が起きている。

そう確信した出来事だった。


*死への恐怖について

催眠療法を繰り返し受けていると、毎回、臨終場面を再体験させてもらえる。つまり、私は、何百何千回と、死んでいる。死は、慣れ親しんだイベントということになり、肉体は死んでも私という意識は消えることがない。永遠の存在であることが理解できてくる。

また、どんなに悲惨に見える死に方であっても、実は苦しみは無い。死は穏やかであり、速やかに魂の行くべき場所へ浮上すれば、すべて腑に落ちる。

死は恐怖ではなく、懐かしく親しみある本来の自分への回帰なので、着ぐるみを脱ぎ、仮面を外すイベントと捉えられる。

だから、今、体験している現実を、とことん味わい、最後まで生き切ることだ。今はこの人生の意味が分からなくても、私たちは、必要な体験を通し学んでいる。

死は卒業であり、敗北ではない。

ただ、生き切ること。

もし、今が苦しくて、何らかの意味を見いだしたいのなら、催眠療法が何らかの気付きを得る切っ掛けになるかもしれない。

必要なタイミングで、人生は解明される。

答えは、私の中にある。

*覚醒とは

覚醒しているのかどうかは、本人は分からない。それくらい自然なこと。

覚醒は、目指すものでも、誰かに教えてもらうものでもない。ただ、そう「在る」。

例え、覚醒していたとしても、日常に目に見えた変化があるわけではないし、人生の山や谷を体験するのは変わらない。悩んだり、泣いたり、怒ったり。

ただ、その繰り返しの中で、永遠に変わらない核のようなものをどこかで感じていたことに気づく。あの時、そういえば。と。今、ここに在る状態は、比較も判断も批判も無いので、「覚醒している。」という自覚がある時、実は覚醒状態にはいない。そのように在るとしか、言いようがない。

覚醒は、思い出していく過程なので、ゴールは無い。少しずつ、覚醒していく。だから、「私は覚醒した!」と厳密に言える人は存在しない。

だから、私は覚醒しているのかと問われても、分からないとしか答えられない。

覚醒にゴールは無いし、目指さなくてもよいと思う。「私には分からない」が、答えだから。

先ほど、覚醒について、ふと、こう表現してみたら?と思い付いたので、書いておく。

覚醒を眼鏡に例える。

たまに、眼鏡を頭や額にかけているのに、「眼鏡、どこにいった?」と探している人がいる。笑ってしまうが、あるあるだ。

眼鏡は、既に身に着けていているのだが、本人はうっかりそれを忘れてしまい、見当違いな場所を探し回っている。

まさしく、この状態。

私たちは、本来は、既に覚醒している。ただ、地球体験を成就するために、自我やマインドをオプションとして活用してきたため、すっかり忘れてしまっている。額にかけている眼鏡くらい、身近に在るのにだ。必死に探している時は見つからない。まさか、自分が身に着けているとは、さらさら思わないから。

ところが、一旦、額に眼鏡がかかっていると、鏡に映った姿を見て、思い出したとしよう。「そうだ!ずっとここにあったんだ!忘れていただけだった。」

鏡に映った姿とは、現実に起こる出来事と捉えていただけたらと思う。現実は自分の内面の反映だから。

この時の心境が、一番近いと思う。イメージしやすいと思うので、書いてみた。

覚醒は目指すものではない。の意味が伝わるとよいのだが。


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