ヘミシンク体験~人生の回顧
引き続き、ヘミシンク体験を紹介。
本日は、人生の回顧がテーマだ。
私が見つけたYouTube動画「ヘミシンク 体外離脱誘導」では、四つのテーマを体験できる。今日は二つ目に挑戦。
まず、本日のコンディションであるが、午前中はヨガ教室で、じっくり心と体をほぐした。帰宅してから、入浴してさらにリラックス。布団に横になり、30分程度、ヘミシンクの音楽だけのものを聴いて、脳波を整えた。
さて、一回目の体外離脱誘導を再度聴き直してみた。心身整えたため、もっと違う感覚になれるのでは。と、期待したわけだが、なぜか、懐かしい人物は誰一人現れなかった。脳波はα波になって、催眠にもきちんと入れていたはずなのに、不思議だ。潜在意識が、「今日は、会う必要は無いよ。」と言っているのだろうか。
気を取り直し、二回目のテーマ「人生の回顧」に移った。
光のトンネルを抜けるまで誘導は同じ。
光の世界で、色とりどりのボールが浮かんでいる。私は、虹色に輝く無数のシャボン玉をイメージした。
そのうちの一つに集中する。「人を助けた場面」へと誘導される。
人助けは、あまり経験が無い。そういえば、最近、道で倒れている男性を助け起こしたことがある。その記憶をよみがえらせる。
場面をリアルに感じていく。私の視線、周りの様子、音、体感、感情。駆け寄り、声をかけた。倒れた自転車を起こしてから、男性の手を取り、体を起こすのを手伝った。手があたたかいなあと、一瞬ほっとしたのを覚えている。素通りしていく通行人が一人。
誘導により、意識を三つに分ける。自分、相手、そして場面を上から離れて俯瞰する意識。
光の存在(守護霊らしい)から一言問われる。「何を学びましたか?」評価は一切無い。
「はい。倒れた男性が目に入った瞬間、自然に行動できていました。人を無条件に愛する気持ちが少し理解できたかもと、嬉しくなりました。また、他人の手でしたが、あたたかさを感じ、人っていいなと素直に思えました。一番の学びは、評価を手放す。ということです。純粋に助けたい気持ちと同時に、どう見られているか?も意識をしていました。評価を期待するエゴでした。これを手放したいと、心底思いました。エゴは確かに私の中にあり、慣れ親しんだ私の一部ではありますが、違和感を感じるようになりました。」
こう答えながら、「そうか、こういう体験を重ねていきながら、違和感を炙り出し、地道に手放していけば、いつか純粋な自分に戻れるのかもなあ。行動ってやっぱり大切だ。動かなきゃ練習にならないもの。勇気出して、思いきって、思ったことを行動に移していこう。小さなことから。コツコツと。」と、決意を固めていた。
これは、催眠誘導の形を取ってはいるが、自己対話なのだなと理解した。
次に、目の前に浮かぶ別のボールに意識を集中する。どんな場面が出てくるのか。
なぜか、二年前まで勤務していた○○区役所の建物や、通勤経路が出てきた。
自転車で、橋を渡る。大きな虹がかかったあの日、夕日が川面をキラキラさせていたあの日、坂道を風を切って下った瞬間の爽快な気持ち。帰り道、焼き鳥の匂いに誘われて、ついつい寄り道したあのお店。
「私は、天国に居たのかもしれない。」場面を見ながら、そんなことを思った。職場と自宅との往復の毎日で、顕在意識では「幸せからほど遠い」と、ウンザリしていたが、意識の深い部分では、五感で移り行くすべてを感じとり、味わい、感動しながら時を過ごしていたことが、今、理解できたのだ。「私、ずっとずっと、幸せだったんだ。」と。
そして、○○区役所の建物に入っていく。30年、私はここで、いろんな仕事をした。
場面が自動的に、上から見下ろす視点に切り替わる。
建物の中で佇む私の周りを、沢山の人々が行き交っていく。
「あなたは、何を学びましたか?」光の存在から、再び問いかけられる。
「はい。沢山の経験と様々な人々と関わることで、ありとあらゆる感情を味わいました。」
私は、学生時代まで、人が苦手だった。人と関わりたくないため、獣医師を目指そうとしたり、気象庁を受験しようとしたり、迷走していた。(動物や、天気を仕事にすれば、人と関わらなくてよいという誤解があった。)
結局はうまく進まず、流されるように公務員になったため、いつも夢破れた敗北者のような気持ちになり、本当の居場所はここではないと、絶えず、ここではないどこかを探していた。人が嫌なのに、人と関わる仕事についていたわけだから、ストレスも多かった。
しかし、「ああ、この仕事で正解だった!」と、腑に落ちる瞬間が今、訪れた。
私は、人間のありとあらゆる感情を味わいたかった。
職場の人間関係だけでなく、区役所にやってくる人々は、私が接しただけでも何十万人に上る数になる。普通の暮らしでは出会えない、いろんな立場の方々に関わってきた。書類を通してであっても、対面であっても。
人の生死、誕生から病、生活のあらゆる場面、文化、学習、赤ちゃんから高齢者まで、関わることができたのだ。
笑ったり、泣いたり、怒られたり、落ち込んだり、感謝したり、感謝されたり、恨んだり、恨まれたり。あらゆるレベルの感情は、ここに書ききれない。これはすごい数の体験だと、今さらだが、驚いた。
顕在意識では、「苦手な嫌な体験」と感じていたが、私の魂は、効率的に沢山の感情を味わう体験を現実化していたわけだ。大正解だったのだ。
「あなたの人生で、何を学びましたか?」
最後に問いかけられ、私は即答した。
「愛と感謝!」
言ってから、ちょっと苦笑。
なんて、ベタな回答。でも、最終的にはこのシンプルな回答しか出てこない。
この誘導瞑想を終えて、ハッとした。
人間は死んで、あの世に行くと、まず人生の振り返りを徹底的にするらしい。(飯田史彦氏の生きがいの創造より)
振り返りに立ち会ってくれる光の存在からの問いかけは三つだけ。評価は一切されない。
「何を学びましたか。どれだけ愛されましたか。どれだけ愛しましたか。」
この誘導瞑想は、死んだ時の予行練習になる!
もし、現時点で後悔があるなら、死んだ時に振り返りで必ず引っ掛かってくるテーマになる。間違いなく。あらかじめ分かっているなら、取り組んでおきたい。
私は、一つだけ、まだ未完成な体験がある。
沢山の学びと、愛された体験は豊富だが、まだ、愛した経験が少ない。
後、どれだけ命の時間が残されているか分からないが、最終テーマに取り組んでいきたい。
なかなか、よい誘導瞑想だった。
最後に
いつもの萩原優先生の本日のblogを紹介したい。なんだかリンクしているように感じる。
【その時、人生は変わる】
人生には誰にも「節目」がある。
植物も種を撒く、芽がでる、葉がでる、
蕾ができる、花が咲く。
それぞれに大きくなるには、
段階を踏む。
その時にどの様な決断をするか。
それは、結局自分で決める。
人から、あれこれ言われるのではなく、
やはり自分で決めるんだ。
その道は必ずしも楽な道ではない。
親や人からいわれた道には
先が見えている。
ただ、その道が果たして
本当に進みたい道かはわからない。
自分での決断は、
多くの場合に反対される。
それをドリームキラーと呼ばれる。
ただ、私たちには先が見えないけれど、
挑戦を自らが迫られる。
その衝動というか、直観というか、
閃きというか。
思い切って、そこに飛び込んだ時、
そこには失敗したら、などと考えない。
ただ、やってみよう。
その時、その先には
その人の歩む道が自然に開ける。
催眠のことならIHC
コメント
コメントを投稿