人生は愛を学ぶためにある

 人生は愛を学ぶためにある。

どこかで聞いたようなセリフですよね。

私たちは、何となく分かっているのです。

ザッと、今までの人生を振り返ってみて、試練だったなあと思い返す場面では

「自分に対する愛」「家族、他人に対する愛」「自然、地球に対する愛」が問われていたことに気づくでしょう。

例えば、仕事で行き詰まった時には

私は身体を大切にしてきたかしら?と自分を愛することに気付き、嫌な同僚との軋轢には、相手をゆるすことを学んだかもしれない。

家族とうまくいかないという悩みは、継続的に愛とは何かを考えるカリキュラムになっていたはずです。

人生は、どんな細かな側面があれど、大きく捉えれば、愛というテーマに取り組む学びの場なのですね。

でも、そもそも、愛って何?そう思いませんか?

以下は、愛の定義です。

読んでいるうちに、何だか胸がボッボッと熱くなってきて、

「ああ、すべてはこのために、自分が仕組んだ試練だった。」と合点がいくかと思います。

あなたの魂か

「そう!そう!」と反応するはずです。

ぜひ、読んでみてください。


「私たちが人生を通じて学ぼうとしている愛とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

愛とは、自分という存在価値認識と成長意欲から生まれるものであり、相手がただ存在してくれていることへの感謝ゆえに決断し、永続的な意志と洗練された能力によって実行しようとする、相手の幸福を願い成長を支援する行為である。」

「第一に、相手という言葉で表現するものは、他者だけでなく、自己でもあり、さらに広い意味での愛は、人間以外の生命や自然、ひいては地球や宇宙などに対しても向けられます。」

「第二に、愛のエネルギー源は、自分という人間がいかに価値がある存在なのかという認識と、価値ある存在としてもっと成長したいという意欲という二つです。これらは、いくら利用しても減ることのない、永遠のエネルギー源として、私たち人間に与えられた宝物だといえるでしょう。」

「第三に、愛の動機は、その相手が持つ所有物に価値を感じるからではなく、その相手がただそこに存在してくれているということに価値を感じ、感謝するからでなければなりません。」

「第四に、愛を実行するためには、ある時点で、その相手を愛そうという明確な決断を下さなければなりません。」

「第五に、愛を実行するためには、永続的な意志が必要です。それは一時的な意志ではなく、愛する相手に何が起きようとも愛を継続するという意志であり、たとえ愛する相手が死を迎えて物質的な形を失ったとしても、その相手と過ごした想い出をいつまでも大切にし、その精神(意識体 魂)への愛を永遠に継続するという意志でなければなりません。死はひとつの通過点にすぎず、二人は永遠にともに生きていくことになります。」

「第六に、愛を実行するためには、永続的な意志だけでなく、洗練された能力が必要です。この物質社会、人間社会における人生とよばれる修行の場で直面するさまざまな試練を、上手に乗り越えていくための能力を身に付けなければなりません。」

「第七に、愛が決断、意志、能力を伴うものであるならば、私たちは、その実行のために、惜しみ無く努力しなければなりません。愛は、実際の言動として現実化させる努力をしてこそ価値を生むのであり、ただ心の中に持っているだけで発揮しないのでは、愛とは呼べないのです。」

「第八に、愛とは、その対象の幸福を願い、同時に、その対象の成長を支援することです。まず、前者の幸福を願うというのは、与えるということを意味しており、その対象からさまざまな所有物を奪い取ってしまうことの多い恋との違いを明確にしています。後者の成長を支援するというのは、愛の行為が、必ずしも無条件のゆるしや無制限の与えのみでは成立しないことを念頭におき、対象の精神的成長を、うながすためには、場合によってはゆるさないそぶりをすることや、与えないでおくことも必要であることを示しています。」

「第九に、愛は決断、意志、能力に支えられた行為です。恋とは違って、単なる感情ではありません。感情というのは、自然発生的に生まれるものであり、一時的であって、永続性は保証されません。」

「私たちは、このような愛の実行に挑戦するために、人生という挑戦の場に生まれてくるのです。なぜなら、この人生という挑戦の場では、愛の実行を阻害するあらゆる試練が用意されているからです。それらの試練に負けないで、どのような場合においても十分な愛を実行できるまで成長した時、私たちは、人間を卒業することができるのでしょう。」

「みんなが愛をもって生きることができたら、この世界はどうなるんですか?

みんなが愛を持てば、すごくまとまった、ひとつの意識体になる。人や動物や、いろんなもの全てか、ひとつの意思体として動き出す。今はバラバラだ。調和。みんなそれぞれ、調和するための役割を持っている。

でも、私ひとりが愛をもってがんばったとしても、それで社会が変わっていくんですか?

まず、自分からやりなさい。それをみんながやることで、大きな流れができる。今みんなが、それをやろうとしている。

でも、これまでにも何度もそんなことがあったのに、失敗してきたじゃないですか?

失敗しても、できるまでやればいい。安心してやりなさい。」

「ここで光が保証してくださっているように、人生は敗者復活制で計画されているのです。愛の実行に何度失敗したとしても、また勇気を出して果敢にチャレンジしようとするならば、いつでも誰にでも、その機会が与えられます。一気に高度な愛に挑戦してみるのもかまいませんが、たとえ少しずつでも、自分なりに、失敗や落胆を重ねながら成長していけば良いのです。

その意味で、愛について学ぶということは、成功することではなく挑戦することだと言えるでしょう。もしも最後で力尽き、ケンカ別れしてしまうかもしれないとしても、自分にできる限界のところまで愛ある態度を貫いてみたうえで、さらにもう少しだけがんばってみること。そのもう少しが、自分の愛の限界を広げることになるのです。」

『完全版  生きがいの創造  スピリチュアルな科学研究から読み解く人生のしくみ』

経営心理学者·カウンセラー

飯田史彦  著

PHP文庫

423~429頁より


飯田氏のメッセージを受けて、今の私の現状を記録。一年後にこの投稿を見て、「成長したなあ。」と思えたら万歳三唱である。

現在、目下の悩みは主に三つ。

先日、図書館カウンターで接客に従事していた時に、館長からしつこいぐらい言われたこと。

「小さなこと、あまり気にしなくていいよ。」

「そんな杓子定規に考えなくていいよ。」

三時間、館長とペアになり、共に従事させていただいたが、私があまりに、「○○して、すみません!」を連発していたからだろう。

そう、私には絶えず恐れがある。

「たった今、私は誰かに迷惑をかけているんじゃないか?」と。

だから、自分の行動に自信がなくて、叱られる前に謝ってしまうのだ。今の私の行為をもしかしたら相手は不快に思うかもしれないし、思わないかもしれない。でも、もしかしたらばかり考えていたら、もう何もできないし、いちいち誰かに○○して大丈夫ですか?と確認しなきゃならない。しかし、いちいち確認しても、「めんどくさいやつ。」と思われる。びくびくびくびく。ああ、気になるくらいなら、とにかく謝っちゃえ~。(そんなに悪いことはしていない。小さな小さな判断ばかりだ。)

これも、エゴだ。自分の利益しか考えていないから、自ら場の調和を乱す。これは、「私は愛されない。」「大切にされない。」という欠乏感からくる。

原因としては、思春期の頃、取るに足らない小さな小さなことで、いちいち親に叱られ続け、場合によっては1ヶ月も無視された体験で得た処世術だろう。エゴは、悪者ではない。もう心が傷つかないように、似たようなシチュエーションになると、アラームを鳴らして戦闘態勢を配備してくれているのだ。エゴはエゴなりに、私が生きていけるように動いてくれている。

それが、過剰反応すると、やはり、生きづらくなってしまうのだが。

解決策は、年齢退行催眠で、思春期に傷ついてしまった自分を癒すことだろう。あれから40年近く経過するのに、私はまだ怯えている。「私を愛して!大切にして!無視しないで!」と泣いている。セッションは、よいタイミングがきたら、受けてみたいと思う。今は、この怯えた感情が出てきたら、客観視して、味わって、当時の私をいたわってあげたい。

二つ目の悩みは、実の親のこと

三つ目の悩みは、義理の父のこと

世間で言われる親孝行ができない。大切にできていない。怖さが先に立ち、会ったり話したりすることに、ものすごい抵抗がある。

特に、義理の父に関しては、私が彼を嫌う理由がない。優しい普通のよい人物だ。彼に関しては、とばっちりだろう。親という存在に抵抗感があるので、義理の父も、その対象に自動的になってしまったのだ。絶えず「優しくできない。会うこともツラい。」と思ってしまう自分に罪悪感がある。何とかしようと、頑張って行動したこともある。しかし、続かない。毎回、心がツラくてツラくて、かなり勇気を振り絞らないとならない。

そこで、ニと三については、別の試みをしている。

光の瞑想である。

瞑想しながら、光をイメージ。

自分のハート→身体全体→我が家(夫やペットなど)→義父や義理弟家族→居住地域→父母、姉家族→友人知人→関東→日本→アジア→世界→地球→太陽系→銀河系→宇宙

順番に意識を広げ、自分のハートから涌き出る光で、包んでいく。その際に、「○○してくれてありがとう。」「助けてくれてありがとう。」など、具体的にお礼を言う。「大好きだよ。」「愛しているよ。」と言うこともある。

物理的に何かしてあげることばかり考えるから、怖くて何もできない。悪循環で、罪悪感が消えない。

ならば、潜在意識で相手につながり、愛を注いでみたらどうだろうか。

祈りも、立派な行動だ。

目下三つの悩みは

まさに、愛を学ぶためのカリキュラムだ。


自分を愛で満たし

相手をゆるし

ただ、その存在に感謝すること。

互いに在ることを、認め合い

大切にすること。


難しい。難しいのだ。

いろんな本を読んで、知識はあるが、実践は本当に難しい。だから、悩み傷つきながら体現していく過程が、魂を磨くのだろう。


すぐに出来なくたっていい。

何度もチャレンジしたらいい。

誰かと比較する意味は無い。

これは、あなたの人生。

あなたは、今、順調に進んでいるよ。


私の光は、こう言ってくれている気がする。

☆追記

「会いに行くと、またケンカになるから嫌だなあ。と気が進まないながらも、それでも会いに行こうとする、その勇気に価値があるのです。実際に会いに行くと、やはりケンカになって悲しい思いをする。その体験にさえも価値があるのです。その努力を、勇気を、悲しみを体験するために、わざわざ、その人を親として選んだのですから、

その人を親として選んだからこそ体験できることを、思い切り体験し尽くすこと

が、私たちの使命であると言えるでしょう。」

442頁より


自分自身が自分に与えた試験問題だったんだなあ。

大切なのは、勇気。

これ以上傷つかないように、過剰防衛してたかもしれない。

ちょっとずつ。1ミリずつでいいから、勇気を出そうと思った。


昨夜、湯船に浸かりながら

「義父との問題は、私の人生にどんな意味があるのか、教えてください。」と意図した。

正直、距離さえ取っていられれば、私はいつも平穏だ。安全な巣穴に閉じ籠っていられたら幸せだから、真剣度は50%くらいだった。全面的に私の意気地の無さが原因なのは理解していた。まだ、核心部分に直面したくないなあ。心が癒えるまで、まだ、待ってて。という気持ちはあった。

湯船に浸かっている時間は、リラックスして潜在意識優位になるので、うまくすれば、自分 神様(賢いほんとうの自分)からメッセージがくる。それを直感で受けとる。

しかし、昨夜は何もメッセージがこなかったので、後日、私に分かる形で、回答がもたらされるだろうと、後は忘れてしまっていた。

さっき、本のこの部分を目にした時に

ああ、これが、回答だな。

と、分かった。


「一時的に距離を置くのはかまいません。あなたは、準備運動して、筋肉をつけて、心を鍛えようとしていたのですよね。

あなたのタイミングで、勇気を出しましょうね。何度でもチャレンジしましょう。大丈夫。

あなたが、自分で選択した課題なのです。

課題に取り組むのが、あなたの本質の喜びなのですから。」

自分神様は、こう言っているようだ。

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