怒りの原因は無知

 最近、あまり感情のアップダウンはなく、穏やかに平和に過ごしている。一人で、心地よい自宅に籠っている。

窓から入る爽やかな風を感じたり、冷蔵庫にある食材で料理したり、ちくちく簡単な小物を縫ったり、亀や植物とお話したり、好きな本をじっくり読んだり、きれいな音楽を聴いたり、大好きなビールを飲んだり、静かに好きなことをしている。

夫と一緒にいたり、一人でいる場合は、99%魂の平穏を保つようになった。不要な感情を浄化できてきたのかなあと嬉しくなる。

しかし、まだまだであることが昨日判明。

アルバイト先の図書館でのこと。皆様は、図書館へ行かれたことありますか?書架に並んだ本の背表紙が一直線にきちんと並んでいることに気付きましたか?本のサイズは違うのに、書架の奥まで差し込んだら、背表紙の位置はバラバラで、凸凹するはずですよね。あれはですね、人の手で、背表紙が一直線になるように直されているのです。内部で働く人が、コツコツやってます。来館者が本を触るとどうしても位置は乱れます。皆様が気持ちよく本を選べるように、見易いように、また、間違えた位置に本が迷子になっていないかチェックするために。図書館アルバイトの達人は、手作りのカマボコ板みたいな道具まで駆使して、ビシッと背表紙を並べます。神業すぎて、ため息が出るほど。私は、書架の整理をしている時が、一番好きかもしれません。瞑想状態に近いからかも。私たちにとっては、神聖な行為かもしれません。

そんな、素敵な作業なのに、心がざわざわさせられる。何と、来館者がわざと本をまとめて奥に引っ込めていく。背表紙が凸凹して乱れ、整然とした秩序が台無しに。一冊の本を抜き取り、隣の本が引っ込むとかのレベルではない。あっちにもこっちにも、数十冊置きに、引っ込んだり出っ張ったり。愉快犯の犯行だ。おそらく子どもだろう。楽しいからやっている。ほんの一時間前に整理した書架が、乱れ切っているのを見ると、悲しさ通り越し、怒りが沸いてくる。どうして?と心の中で叫ぶ。「図書館で遊ばないで!」と、見えない敵に向かい、憎悪の念をぶつける。

もしも、愉快犯を現行犯逮捕できたら、私は何を言う?そんな想像をしながら、辛抱強く、いたちごっこの作業を繰り返す。怒りに燃えながら。そいつの首根っこ捕まえて、図書館から引きずり出してやる!罵詈雑言浴びせかけてやる。もう二度と来るな!と、出禁にしてやる!

やがて、だんだん冷静になる私。

あれ。久々に感情を揺らしている。私の中にまだこんなに怒りのエネルギーが存在していたのだな。もう浄化したと思い込んでいた。外の世界と関わると、よく現状がわかる。他人は自分の鏡とはよく言ったものだ。人は自分以外の誰かと関わることで己を理解する。本当にそうだなあ。

そもそも、背表紙をきっちり揃えるルールって、何のため。利用者が気持ちよく本を選べるようにする、提供側のルールだ。乱れたら直すのは、私の仕事。せっかく整えたのだから触るな!と言うのは本末転倒。まあ、わざとやられるのが悔しいわけだが。子どもは何でも面白がりイタズラする生き物だ。私自身、数えきれないイタズラをやらかしてきたではないか。大人にバレてこっぴどく叱られたこともあるし、バレずに、後から大人を困らせたかな?と少し反省したり。イタズラを楽しんだ子ども時代は輝いていた。今思えば、あれで社会と折り合いをつける学習になっていたんだろう。細かなルールを少しずつ身につけていくために。子ども時代の遊びは、学校での学習以上に意味深いと思う。表面だけでなく、実際に感情をたくさん使って腑に落とすから。

宇宙には、地球のようなルールは、無いそうだ。これ、必要?という細かなルールが山ほどあり、ルールに縛られ苦しむ人も多い。そもそも、最低限のルールは、相手の個性を尊重し、干渉しないことだろう。地球には各々の課題を持ち学びに来ている。人を殺したり、過干渉により自由を束縛すると相手の学びを邪魔することになるからだ。

中学生の頃、新しい母に躾られたことを思い出す。兎に角細かかった。トイレットペーパーは3巻きまで。使用後は三角に折る。靴を脱いだら正面ではなく脇に揃える。洗面台は水か飛んだら拭き取る。風呂は、使用後は壁から何まで全て水分を拭き取る。落ちた髪の毛は絶えず拾う。台所は、洗濯は、服装は、門限は·····怖かったのは、失敗すると、酷く機嫌を害され、大抵1ヶ月は許してもらえなかったこと。口を利いてもらえない。無視される。ご飯を作ってもらえない。話をしてもらえても、怒りに満ちた感情をぶつけられた。一年のうち、怒っていない日を数えた方が早い。恐怖による躾は、何より恐ろしい。怒らせるのは悲しいから必死に細かなルールを守った。もちろん、それらルールは、我が家で誰かが気持ちよく過ごすためには必要なことだったろう。しかし、思春期の私の心境は、絶えず誰かを怒らせるのではないかとビクビク生きる奴隷のような心境だった。あの生活に愛はあったのだろうか?1日も早く自由になりたかったから、親からの自立は早かった。その点は心底感謝している。

今朝、読んでいた本に、「怒りは無知から起きる」と書いてあった。

私の怒りはどうだったろう?私の美意識を相手にも守らせたいという、人をコントロールしたい欲望ではなかったか?

道をボランティアで清掃する人々は、ポイ捨てした人につかみかかり、二度とこの道を歩くな!と怒鳴るだろうか?心なくゴミを捨てた人は、綺麗になった道を歩き、何となく捨て辛く感じたり、せっせと掃除する人々の背中を見て、我が身を振り返ったり、少しずつ、その人のペースで大切なことを学んでいく。

怒りを相手にぶつけて、萎縮させ、我が意のままにコントロールし、何だか自分が偉くなったように錯覚する。その怒りはエゴからきていないか?本当に相手の人生や地球の未来を考えて選択した感情なのだろうか?「○○のために。」という大義名分は、真実だろうか。

そう深堀していくと、大抵の怒りの感情は、萎えていくと思われる。自分や大切な人の自由や命がかかっている時は、怒ることも必要かもしれないが、私たちは、どうでもいいことに拘り、安易に怒りの感情を選択しすぎてきたのかもしれない。

「怒りは、悪いものではない。ただし、正しく怒ることが大切。」神原康弥さんにも言われたことがある。

感情は、選択できる。咄嗟に沸き上がった感情を一旦脇にどけて、深呼吸する。この現象にこの感情を出すのは適切かな?自分に問う。もしかしたら、平和に、穏やかに、あなたが心地よいと感じる優しい心境のまま言葉を発せるかもしれない。

もしも、図書館で可愛らしい愉快犯を見つけたら、何て声をかけようか。

「本が引っ込むと、面白いよね。でも、前に整列していると、読みたい本が選びやすくない?きっと君に面白い本が見つかるから、一緒に探そうか。」

そう言って、微笑むことができると思った。

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