地球と共に生きるためには
少し、怖い話になる。
人類が、このまま、生き方を変えなければ、地球は後30年も持たないそうだ。
一分間に東京ドーム2個分の森林が壊されている。
道端に捨てられたゴミは、自然に還らない成分で出来ている。お腹を空かせた動物たちが誤って食べ、死んでいる。
人類が、より便利を求めた結果、自然を破壊し、道路や宅地が整備された。反対に動物たちは、住む場所を追われ、自然から恵みをもらえなくなった。生きるために人の畑を荒らす。そして駆除される。
舗装道路、コンクリートの建物。
添加物、農薬、海や川を汚染する洗剤。
私たちが、より便利にを追及したが故に地球が泣いている。私たちの便利は、地球をじわじわ痛め付ける。いずれは地球の恵みをいただけなくなり、清らかな水や健康な食べ物が得られなくなれば、私たちは病気になり命を失う。天変地異で一気に浄化されるかもしれない。ノアの方舟の大洪水のように。
ここまで書いて
先ほどまで晴れていたのに、急に激しい雨になった。まだ朝なのに、空が真っ暗だ。稲光と雷の轟が凄まじい。
自然は、その気になれば、いつでも、人類を一掃することができる。
それでも、待っていてくれている。辛抱してくれている。私たちが目覚めるかもしれないと信じて。なぜなら、地球も、地球の循環により浄化するシステムである自然も、すべての存在を愛し、育みたいと願っているからだ。
人類は、思い上がってしまった。自然は征服できるもの。資源は奪い合うもの。不要なものは排除すべきものと。
結果、どうなったのか?
エゴを肥大させ、利己的な人々が蔓延る世界が蔓延している。教育や社会システムが子どもたちを洗脳していく。本来の自分に繋がれず、心に欠乏感を抱いた人ばかりが増産されていく。自分たちの命綱を自らの選択で切り離す。滅亡のシナリオに向かい、ひたすら歩んでいるとも気付かずに。当たり前の日常が永遠に準備されていると勘違いしながら。
昔、セイタカアワダチソウという外来種が日本に入ってきた。外来種は、在来種を殺し、どんどん蔓延っていった。このままでは、日本中がセイタカアワダチソウだらけに?誰もがそう思った。しかし、そうはならなかった。セイタカアワダチソウは、自ら毒を出し、自滅するのだそう。増えすぎると自滅する。地球を健全に保つための生物の知恵なのだろうか。人間も、セイタカアワダチソウのような存在だろうか。神の分身である人間が、天変地異により一掃される前に、生き方を変えられるかどうか。
さあ、お前たちは、どうするのだ?命をかけて覚悟の上決めなさい。
今、まさに、天空で轟いている雷様に、選択を問われている気持ちになった。地球の声を自然神である雷様が、伝えにきたのた。
私たちの目の前には、二手に別れた道が見える。
今まで通り、物質至上主義の争いの絶えない世界を選ぶのか
思いやりと愛に溢れ、足るを知り、与えられたすべてに感謝しながら、地球と共に生きる世界を選ぶのか
もしも、後者を選ぶならば、私たちはどのように生き方を変化させればよいのだろう。
まずは、自分を愛すること。自分を愛し満たさなければ他の存在を愛することはできない。つらい、嫌だと思う感情を手放していくこと。本来の自分を意識すること。そのために、小さな一歩を積み重ねること。小さな行動でよい。例えば、イライラすることがあれば、何故イライラするのかを考える。その感情は、もう不要だと思うならば、原因を手放す。自分がいろいろ抱えすぎて忙しく疲れているならば、誰かに助けを求めてもよいかもしれない。家族と喧嘩が絶えないならば、人と人は価値観が違うものだという原点に帰り、まず相手を認め受け入れる。嫌な感情が出てくるということは、実はラッキーなこと。もう手放すタイミングですよと知らせてくれているから、私たちは考え方を変える切っ掛けをゲットする。目の前の嫌な人は、そのために存在する鏡の役割である。鏡に助けられ自分を理解し、重い感情をどんどん手放していくと、本来の輝く自分が目覚めてくる。愛そのものの自分を思い出すだろう。焦らず一歩一歩だ。
次に、自然の存在に耳を澄ませること。植物も動物も、地球で共に生きる大切な仲間だ。人間以外は、地球を痛め付けない。自然の循環を乱さず、賢く命を繋いでいる。小さな命は、大きな身体の命の糧となるが、大きな身体は寿命を迎えると微生物の力を借りて土に還る。地球の大地を育む栄養となり、そこから小さな命を誕生させるエネルギーとなる。すべての命は、このようにグルグルと循環し、美しい惑星地球が輝きを放っていく。人間は、地球という大きな生命体を構成する小さな小さな、ほんの一粒の命だ。ほんの一粒が無数に集まり、循環が成立する。ほんの一粒が、必要な働きをしている。不要な命などひとつもない。地球全体から見れば、どの命も掛け替えがない。私たちが、共に生きようと意識を変化させれば、植物も虫たちも、とても喜ぶだろう。
例えば、畑に生える雑草は、農家から見れば邪魔な存在になる。駆除しなければならない。しかし、神様視点から見れば、「そこに必要だから存在する。現象をよく見て、その奥にあるものを感じなさい。植物たちの声を聞きなさい。」となる。私たち人間は、自然からもっともっと学ぶことがある。本にも書いていない、大学でも教えられないことが山ほどある。謙虚になり学ぶ姿勢が必要になるだろう。
人間の一生は学びだ。
日常生活の小さな選択も、要になるだろう。ゴミを出すことは、地球に負担をかけていないか?ゴミを減らすには?不要な買い物をしないとか、パッケージを簡素にするとか、化学成分の洗剤を買わないとか、地元野菜を手に入れるようにするとか。一人の小さな選択が集まれば大きな選択となり、人類の進む方向を変えていく。社会が、リーダーが悪いから世の中は悪くなるのではない。反対に、一人が変われば世界は良くなる。まず、私から小さな選択を積み重ねていく。誰でも今から出来る。地球上のたくさんの仲間たちと、仲良く楽しく幸せに暮らしていきたい。そう決めるのだ。今日から、小さな選択をそちらにシフトしていく。一つひとつ、思いやりの心に添って。決して自己犠牲ではない。それを間違えてはならない。自分に心地よい選択をしていくこと。
コロナ騒動により、世の中のありかたが一気に変化した。明日は誰にも分からない。永遠に続くシステムなど存在しない。より強い感染症が流行るかもしれない。地震、豪雨などの天災が起きるかもしれない。大切な命がたくさん奪われるかもしれない。しかし、それは自然の営みであり、私たちはその営みの恩恵を受けて今、この瞬間に生きていることも忘れてはならない。
今後、地球のためにならない職業は淘汰されていくと言われている。もしかしたら、サラリーマンは殆ど失くなるかも。お金を使わなくて済む社会システムに移行するとも言われる。移行期の数年は世界中が混乱するだろう。絶望し、暴力や破壊が頻発するかもしれない。
もしも、そんな混乱した移行期に立ち合うことになったなら、少しでも落ち着いて冷静に行動できる人々の存在が闇に光を照らすだろう。思いやりを持ち、助け合い、地球の循環に添い、すべてに感謝しながら、こつこつと手を動かして生きていく。そんな堅実な人々が、未来の子どもたちに、美しい地球を引き継ぐだろう。
どんなことが起きても、大きな視点で現実を見れば、怖くはない。地球上で生かされている私たちには、地球に生きるすべての命に責任がある。幸せな循環を求めて生きる人々が、地球にとって必要な存在であれば、必ず生かされていく。今までだって、私たちは命をつないできた。水道を捻ると出てくる水は、当たり前ではない。雨が山に浸透し、水源の一滴が集まり川となり、海へ注ぎ、空気の寒暖の差で水蒸気となり雲に成長し、雨となる。地球が私たちを愛し、生かしたいと願うから、その一滴が私たちの喉を潤す。水の循環が止まれば、私たちは数日のうちに肉体を滅ぼすのだから。他の恵みにも目を配れば、あちこちに、地球の愛が満ちていることに気付くだろう。
目の前に二つの道がある。
今までと変わらない意識ならば、そのまま疑問も抱かず、進むだろう。
しかし、もう一つの道に進みたいと願うならば、私たちは、変わらなければならない。
まずは、自分を知り、愛することから。その一歩は奇跡の一歩となるだろう。
今朝の雷様からの叱咤激励を腹の底にしっかり納めた。地を揺るがす重低音の雷鳴は、生命力を目覚めさせるエネルギーだ。
何が起きても、こちらの道を歩みます。力の限り、与えられた命を使いきって。やりきった満足感を胸に、宇宙へ帰るその日まで。
私は、地球とすべての命を愛しています。
以下追記
思いがけず、地球を見守る存在の意識に繋がった。
あまりの愛の深さに、涙が溢れた。
その存在は、成長途中の私たちを別け隔てなく、本当にすべての命を大切に愛してくれている。
争ったり、奪ったり、破壊したり。闇に堕ちた人間すら、愛を持って見守り続けている。
愛に溢れ、地球を大切にし、自然と共存している光輝く人々だけを愛し、生かそうとしているのではない。光りも闇も、すべてを受け入れ、愛を注いでくれている。
例えが上手くできないが、
子どもが、アイロンに触ろうとしているとする。「アッチッチだよ。火傷しちゃうよ。触ったらダメよ。」母親は、何とか、痛い思いをさせずに子どもに危険を学んでほしいと願う。しかし、子どもというのは好奇心の塊だ。触ってみたいのである。母親の目を盗み、アイロンに触り、大号泣。たくさん痛い思いをして、自分で命を守る生き方を学んでいく。
大号泣するのはわかっている。それをじっと見守る母親の心境に、やや近いのではないかと思う。体験しながら学ぶのが地球という学舎での三次元学習のやり方だ。地球学校へ送り込んだ我が子たちを、泣いたり悲しんだり苦しんだりしている学びの邪魔をせずに、見守る母親の愛情はどれ程深いだろうか。
地球での今世でのテーマは、「共に生きる」である。この意識にまで自分を上げていかなければ、地上で生命を維持することが不可能となる。目に見えない世界からも、たくさんの警告が寄せられている。警告に気付き、早々と生き方を変える人もいるが、好奇心のまま突っ走り、我が身に痛みを体験させるまでエゴのままに生き続ける人もいるだろう。
どちらが良いとか悪いとかではない。その魂が、何を体験したいのか。何を学びたいのか。その違いなのだという。
誰一人漏らさずに、深く愛され、見守られていることをここで伝えたい。
これから、体験していくことは、あなたの選択の結果であり、望んだ学びであるということだ。どんな現実にも、奥深くにはあなたへの深い愛がある。それを忘れないでほしい。
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