あきらめとあきらめないを学ぶ

 「ユニバーサルデザインやバリアフリーをだれもにとって便利で快適で安心なものと説明する人がいるし、わたしもかつてそうだったが、いまは そんなもんねえぞ と言い切る。

点字ブロックは視覚障がい者にとって便利で安心だが、でこぼこしているので車いすやベビーカーを使う人にとってはガタガタして不便だ。だれかにとっての便利は、だれかにとっての不便。だれかにとっての幸せは、だれかにとっての不幸。

ユニバーサルデザインとは、だれもにとって便利で快適で安心なもの ではなく、前向きなあきらめと、やさしい妥協と、心からの敬意があるもの だとわたしは思う。」

『もうあかんわ日記』岸田奈美 著 ライツ社 171頁より


この部分を読んで、強烈に思い出したことがある。未熟な自分がとても恥ずかしいが、書いておく。

10年ほど前のこと。図書館では、いちおう、一通りのことが出来るようになっていた。その地域館では、ベテランと呼ばれるような立場だった。未熟な人間にありがちな、思い上がりがあった時期だ。

ある日、突然、小学生のユニバーサルデザイン学習の説明をする羽目になった。図書館内を案内し、ユニバーサルデザインを学んでもらう。担当が急に都合が悪くなり、急遽一時間で知識を詰め込み小学生の前に立った。幸い図書館なので、ユニバーサルデザイン関連書籍は山ほどある。一時間でエッセンスを整理した。図書には如何なる知識も網羅され、私たちはそれにより知識欲を満たし、生活をより良くすることができると信じて疑わなかった。小学生10人を引き連れ、館内を案内し、点字ブロックや誰でもトイレなど一般的な知識を披露した。完璧だと思った。説明を終え、解散しようとしたら、小学生から要望された。「館内のお客様にインタビューしたい。」と。そこで目が覚めた。教師の指導かもしれないが、実際に利用する人々の声を聞く大切さを小学生から教えられた。教科書は、社会へのほんの入り口に過ぎない。本当のところはどうなのか?現実を知り、考え、問題点と改善策を整理していく。この日、私は恥ずかしさと共に、図書館の外に目を向ける切っ掛けをいただいたのだった。

初めての障がい者サービスの相手は、車椅子の高齢者男性Kさんだった。Kさんは知識欲旺盛で、問題意識が高く、役所へ怒鳴り込んでは、色々な町の問題点を(主にバリアフリー)を改善していた気難しい人だった。電話で本の要望があると、探して、自宅へ配達するのが私の仕事だった。Kさんは、足も目も不自由だったが博識で、社会に働きかけようという熱意に燃えていたが、思うように一人で行動できないので、絶望もしていた。本当は死にたいのだ。と告白された日、私は、何がなんでもKさんの知識欲に応え、生きてもらおうと決意した。本の配達がてら、一時間ほど談笑し、会話からKさんの興味ある内容を探り、新たな本や雑誌を探してお薦めしたり、字があまり見えないKさんに見てもらえるよう拡大コピーしたり、朗読ボランティアさんにオリジナルテープを作ってもらったり、地域のサークルで、Kさんに合うお友だちが出来そうな集まりを探したりした。障がい者と言っても、一人ひとり状況は全く違う。相手に数分面談しただけで、的確なサービスを提供できる図書館員は天才だと思う。私は、相手と話す時間を増やすしか、手掛かりを得る方法が見つからなかった。配達する度に一時間は帰って来ないので、同僚からやんわり注意された。忙しいのだから、早く帰ってきて次の仕事をしてくれ。と。相手に真に必要なサービスを模索すればするほど、時間を必要とし、他の仕事と両立するには、妥協し、諦めていくしかない。悔しかった。結局、担当を変えられてしまった。

Kさんは、気にしたのか、車椅子で一人、図書館まで来てくれた。自転車で10分とは言え、車椅子なら一時間近くかかったろう。バリアフリーではない危険で細い道も多く、どれだけ大変な思いをしてたどり着いたかと思うと、Kさんの顔を見た瞬間、心配と感謝と自分の至らなさを感じ、車椅子にすがり付いてヘナヘナとしゃがみこみ、ボロボロ泣いてしまった。ごめんなさい。ごめんなさい。心の中で何度も謝っていた。Kさんは、フルマラソンを完走した選手みたいに目をキラキラさせていた。私は、障がい者サービスを真に意味のあるものに出来なかったダメダメ図書館員だったけど、少なくとも、Kさんに巣くっていた「死にたい」病からは、遠ざけられたのかな?と自分を慰めた。Kさんは、館内を車椅子で一巡りして、私と館長に、車椅子では利用し辛い場所を事細かに指摘してくれた。当事者でないとわからないことばかりで、目から鱗が落ちた。工事が必要なことは時間がかかるが、ちょっとの工夫で改善できる指摘も多く、この図書館が地域のあらゆる人にとって、開かれていく実感があった。Kさんは、自分に出来ることで、図書館に役立とうと行動してくれたんだなあと、Kさんの愛情を感じた。私は確実にKさんとの出会いによって、本当の学びは、外の世界にあることを知り、閉じた目を徐々に開かされていた。

忘れられないエピソードがあと一つある。

ある日、Kさんが、珍しく怒りながら電話してきた。とても感情的になっていた。駅で、「鳩に餌をやらないでください」という看板を見たらしい。Kさんは、人間の勝手な決まりだと憤慨していた。人間はお腹が空けば好きなだけ食べているくせに、自然から切り離された都会を自分たちが作っておいて、お腹が空いた鳩に餌をやるなと言う。鳩が可哀想だ。あまりに勝手だ。これから役所を訴える。と、激しい剣幕だった。

感情的には、Kさんの気持ちはよく分かる。しかし、増えすぎた鳩害も知っている。人間優先で作られた都会のルールは、確かに冷酷な面もあるが、切り捨てたゆえに暮らしやすくなる面もある。多数決のルールだ。Kさんが、その剣幕で役所に怒鳴り混む姿を想像した。勝ち目はない。悲しいし、見たくないと思った。Kさんにはちょっと待ってくれとお願いし、私は途方に暮れた。Kさんを納得させる情報をどこで得たらよいのか混乱した。

鳩の味方になってくれそうな所は?素人考えで、日本野鳥の会が浮かんだ。きっと鳩にも優しいアイデアを持っているに違いない。会のホームページを調べたが、鳩には分が悪い様子。ふと、20年前の同僚を思い出した。彼は確か、日本野鳥の会メンバーだった。藁にもすがる思いで電話した。彼は昇進して偉くなっていたが、私のことを覚えていてくれた。鳩のことを質問すると、彼は予想に反し、吐き捨てるように言った。「鳩は害鳥ですから。」と。分かる。分かるけど、分かりたくない。鳥と自然を愛した素朴な同僚が、どこか遠い所へ行ってしまった気がした。同僚は親身になって色々教えてくれたが、分かったのはルールに従う大切さだけだった。

お腹を空かせた鳥を不憫に思うことは、偽善だろうか。自然を我が物顔で征服し、人間にとって快適な環境を追求してきた。その考えはいずれ我が身を滅ぼすと、うっすら分かっていても変えられない。

Kさんは障がい者だ。健常者だけに都合のよい町づくりに声を上げ、バリアフリーを訴えてきた。町には、様々な事情を抱えた少数者も住んでいて、同じ仲間だ。Kさんは、どこの会にも所属せず、一人勇敢に声を上げてきた。クレーム老人と揶揄されることもあったろう。しかし、100の訴えのうち一つでも、町づくりの担当者の心に響き、方針が変えられたなら、Kさんの役割は、声を上げていくことなのかもしれない。それが、歩道の段差が少しだけ緩やかになることかもしれない。それで、ベビーカーを押すママさんたちが歩きやすい町になったなら、Kさんの訴えは、クレームではなく、役立つ進言になる。

さて、日本野鳥の会から、大人の常識で諭されて、割りきれない思いを抱えたまま、Kさんに電話をした。Kさんは、先ほどの怒りは鎮まったと見え、反対に元気が失くなっていた。Kさんへの朗報は一切なく、ただ、淡々と、害鳥情報を伝えるしかない私が情けなかった。Kさんは、ありがとうと言って、静かに電話を切った。

Kさんは、何ら間違えていない。お腹を空かせた鳩を見つけたら、自分に出来ることをしてやりたいと思ったとしても、それは同じ地球に生きる仲間を大切に思う自然な気持ちだと思う。地球は、地上すべての生き物を別け隔てなく育てている。太陽、水、空気、大地の力を循環させ、命を再生させながら永続できる仕組みを用意してくれている。それを勝手なルールで独り占めする存在が蔓延っているから矛盾が起こる。Kさんの行き場の無い愛情が、悲しかった。

その後、私は仕事が変わり、Kさんとは会えなくなった。数年後、Kさんが亡くなったことを知った。

Kさんは、私を朋友と呼んだ。40歳以上年齢差があったけど、嬉しかった。私はKさんから、たくさんのことを学んだ。人は、学校や本からのみ学ぶわけではない。実際にその知識を活かし社会に役立てられるかどうかは、どのような眼差しを持って生きていくかにかかっていると思う。答えの出ないことばかりで、思考を停止させて流されていくことに慣れてしまったけど、Kさんは、そんな私に大切な眼差しを与えてくれた。世の中に起きている出来事の背後に目を向け、小さな声に耳を傾け、疑問を持つこと。それは愛の眼差しを持って見たら、どう感じるか?自分に問いかけることは最後まで諦めないこと。

あきらめて生きるしか、現実はうまくいかないけど、

でも、あきらめない。

割りきれない思いに蓋をして、感じないように、反応しないようにして、気づいたら精神を病んでいた。しかし、割りきれない思いに忠実に一つひとつ声を上げていたとしても、反感を買い、組織から排除されていただろう。

大きな組織から離れて、責任も立場もリセットされて、ようやく息がつけるようになった私は、一見、安全な所で守られて命を繋いでいる。夫が、たくさんのことをあきらめてくれるから、波風立たずに糧を得ているのかもしれない。

地球上のすべての命を愛おしく大切に思い、敬意を持って生きていく。そこに何の矛盾もなく、すべてが地球から愛され生かされていることに感謝しながら調和している世界。手を伸ばせば届きそうだけど、時には幻と化す。

あの時、Kさんと一緒に、鳩のことで腹を立て、涙できれば良かったのだろうか。純粋な子どものように、鳩が可哀想だと。Kさんは、ただ、一緒に悲しんで欲しかったのではないだろうか。

Kさんは、まだ私を朋友と呼んでくれるだろうか。

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