手放せない時に

 昨日の夕方

母から珍しくLINEが送られてきた

「ずっと気になっていて、思いきって送りました。体調大丈夫ですか。こちらは元気です。」

普通の内容だ。

なのに、私は、

嫌だな·····

と感じてしまった

大人になって、本心を隠して

見せ掛けの優しい言葉を送ることは、いくらでも出来る

でも、あくまで、それは嘘であって、本心ではない

怒りを味わい尽くし、インナーチャイルドを癒し、不要なマインドを手放し

やってきたはずなのに

まだ、私は手放していない

どうしたいの?と自分に問いかける

母に優しくしたい。大切にしたい。

それも本心

でも、まだ、怒り足りない。怒っていたい。

と言うのも本心。


母は、私が14歳の時に、父の再婚で我が家にやってきた。

新しい母ができることは、素直に嬉しかった。母親不在の4年間は、やはり寂しかった。母親と一緒に仲睦まじく、料理したり、買い物行ったり、おしゃべりしたり、普通に幸せになりたかった。

しかし、上手くいっていたのも数ヶ月。母は激しくコントロールしてくるようになり、思春期の私は、反発を感じて、毎日のように喧嘩をした。母の言うことを聞いていても、際限なく細かな要求され続け、結局は否定されるのだ。どこまで行っても正解に辿り着けない。私は、中学生にして、「泥沼」をリアル体験。人間のあらゆる泥々した憎しみの感情を味わうために、この母に出合わされたのかな?と思うくらい、悲惨な毎日。泣き腫らしてパンパンな顔で学校に行き、恥ずかしかった記憶もある。心底心配して寄り添ってくれた友人には、今も感謝しかない。

そんな関係だったから、高校では下宿、姉が就職してからは、姉と二人暮らし、私が就職してからは一人暮らし。と、母と一緒に住んだ期間はとても短い。2年あっただろうか?

今、思い出そうとしても、何が原因で、そこまで母を怒らせたのか、ほとんど覚えていない。たぶん、小さなことばかりだ。母にとって、怒ることが生きるエネルギーであり、いつも血眼になって、そのエネルギーを発散できる切っ掛けを探していたのではないかとさえ思う。そんな凄まじいエネルギーをポジティブに利用できたら、母はどれだけ世界で活躍できただろうと残念でもある。

今、書いていて、ふと思い浮かんだ。日本の神には、荒御魂と和御魂があるという話。ポジティブとネガティブは表裏一体。どちらも同時に存在する。結局は、その人がどちらにフォーカスするかではないかと思う。

母の中の荒ぶる神を呼び覚ますことしかできなかった私。目に見える世界は自分の内面の映し鏡だという。つまり、私の中にある、荒れ狂うエネルギーが、外の世界に反映されていたことになる。こう考えると、母と私は、力を合わせて刺激し合うことで、自分自身を表現してきたことになる。

もう、気が済むまで、荒れ狂えばよいではないか。と、今、思った。


この半年くらいの出来事

父が軽い認知症になり、母が日々必死に介護をしていた。母が睡眠不足になったり、満足に食事がとれなかったりして、母の精神的消耗が心配になってきた。公の介護サービス利用を勧めたが、あれこれ理由をつけて断られ。思いきって、父が居心地よく暮らせる老人ホームを探し、私ひとり見学まで済ませたが、母は頑なに拒否した。自分が死んでもよいから最後まで父の面倒を見ると言い張る。もっと楽に生きてほしいと説得したが、母は恐怖でいっぱいになっていた。父が居なくなったら、自分の存在意味が無くなると言って泣いた。昭和の夫婦にありがちな、強固な依存関係。誰にも迷惑をかけてはならないという思い込みの強さ。自分を犠牲にすることでしか表現できない愛。

母を労り、優しい言葉を選んできた私も、限界がきた。母に自分の足で立って、本来の自身の幸せに生きてもらいたい。そう伝えたいのに、どんどん私の口からは、攻撃的な響きが出てきた。母は泣いた。「これ以上、苦しめないで。」と。

母は、姉と私たち夫婦に、毎日LINEメッセージを送るよう希望し、私たちも従っていた。母は、LINEを楽しみにしていた。誰かに気にかけてもらっていると感じること。そして、自分も誰かの心配が出来ることが、単純に幸せだったのだと思う。

しかし、私は、その行為に引っ掛かりを感じてきた。メッセージは、したい時にすればよい。ルール化されたLINEやり取りは、見せ掛けの仲の良さではないか。自分の内側の欠けている部分をいくら誰かのメッセージで埋めようとしても、安心するのは一瞬だけ。もっと安心が欲しくなる。際限がないループだ。

また、母は、いつも誰かの心配をしたがった。心配してあげることが、母世代の美徳なのだから、仕方ない。が、私はいつも気が重かった。日常の何気ない幸せや、小さな美しいもの、感謝の気付きなどシェアしたかったが、一瞬は上がる母も、癖のように、誰かの心配や未来の不安、日常のマイナス面にフォーカスして沈んでいった。そんな母の泥沼に引き込まれたくなかった。

2ヶ月ほど前だったろうか。私は母に提案した。LINEは、お互いに送りたい時に送ることにしたい。と。今まで、母も父の介護をしながら、合間を縫って短いメッセージをくれてはいたが、最近は、いっぱいいっぱいで、やっつけ感溢れるメッセージが続いていたのも気にかかっていた。無駄なルールは止めてしまえばいいと思ったのだ。そして、母からはぱったりLINEは無くなった。私は、折々に気ままにメッセージを送ったが、そのうち間遠になった。夫は、それでも毎日、母にLINEメッセージを送り続けてくれていたので、夫は真心でやり取りしてくれていたのだなあと、あらためて尊敬した。人間力の違いをひしひし感じた。

そんなこんなで昨日の母からのLINEメッセージである。ずっと気に掛けてくれていたこと、有難いと思うべきだが、私の一瞬の感情は、「嫌だな」だった。情けないが、これが今の私なのだから、仕方ない。母と距離を取り、自分自身の毎日にフォーカスできたこの2ヶ月は、心から安心に包まれ、幸せだった。私の感じる小さな幸せを母に否定されること、母の重く苦しい泥の世界に引きずり込まれそうで、嫌だったのだと思う。

そこで、この2ヶ月学んできたことを思い返す。なぜ、神原さんの講座に参加したり、精神世界の本を読み漁ったりしたのだろう。ブログまで書くようになったのか。

自分軸を確立し、外の世界に振り回されることなく、いつも内なる自分と繋がり、魂の望む生き方をしていく。自分自身を知っていく。最終的には自分は愛であることを思い出す。

文章にすると、呆気ない。さらっと読める。簡単なことのように思える。実践さえなければの話だが。そう、何事も、実践が大変なのだ。批判ばかりしている人に限って、何も行動していない。立派なことを言う人ほど、その人生は空っぽだったりする。私たちは、そんな空っぽな人々を既に見分けている。あんな人にはなりたくないと思う。真実の人は、実践できる人だと思う。

となると、母は、人生の先生なのだなあ。私に、課題を突き付けてくる、スパルタ教師。否応なしに、実践を求められるからこそ、私はチャレンジができる。今まで、何度も失敗して、打ちのめされ、休息し。同じことを繰り返してきたように見えるかもしれない。遠回りだし、上昇螺旋は緩やかだから、見える景色はあまり変化がないようにも見える。

しかし、忘れてはならない。私は、チャレンジし続けてきているではないか。合間に、長い休息を入れつつも。母との関係に学びのヒントがあると分かっているからこそ、私は母に荒御魂を演じさせているのだ。

まだまだ、先は長い。頭で理解していても、心が理解できていない。実践あるのみ。

私のゴールはいつやってくるのか

母が、心から自分を認め、愛し、大切にする生き方を選択する日がくるよう、私自身を変化させていきたいと思う。

しかし、文章を書くというのは、いいね。

「嫌だな」という感情でモヤモヤして、自身を否定しそうになっていたけど、整理できた。課題がクリアになっただけ、進歩だ。

以下、追記

先ほど、帰宅した

今日の終わりまでに、何か、答えがもたらされる気がしていたが、

いちおう、答えがきた

「鬼」である

抑圧された、ネガティブな感情は

半世紀近く、結晶化し

鬼化して、私の背中に

ガチガチの固まりになっておさまっている

「心行くまで、荒ぶるがよい」とのこと

徹底的に怒りや悲しみをを感じ切ったら

その先に静かな心境が待っているらしい

感じ方が中途半端だったようだ

怒りは、いけないものだという思い込みがあった

人として、転落していくような怖れもあった

さて、怒っていいよ。どうぞと言われると

なんだか、やり方がよく分からなくなった


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