投稿

12月, 2025の投稿を表示しています

AIとの探求19~妙見菩薩像の謎を追う④

イメージ
 令和7年12月3日(水) 【妙見菩薩像の謎を追う④~妙見島は狩野家が幕府から賜った?】 〇=陽子 ■=Yahoo!AI 昨日は、新聞検索(ヨミダス)で過去の記事より、「妙見島」について取り上げられている記事から、 江戸時代に狩野新右衛門という人物が市川から浦安までかんがい用水(浄天堀)を開削したため 幕府から妙見島を賜った という新情報を仕入れた。 狩野新右衛門(浄天)とは?初耳である。 まずはざっくりとAIに聞いてみよう。 〇狩野新右衛門(浄天)について教えてください。 ■ 🌊 狩野浄天(狩野新右衛門)の偉業 狩野浄天は、江戸時代初期に治水事業で名を馳せた人物です。特に、市川から浦安にかけての地域で、かんがい用水の開削に尽力しました。 内匠堀(浄天堀)の開削 地域への貢献 :彼は地域の稲作を支援するため、大規模な水路の建設を計画・実行しました。これにより、市川・浦安地域の田畑に安定して水を供給できるようになりました。 名前の由来 :彼が開削したこの用水路は、彼の功績を称え、「内匠堀」、または彼の名前をとって「浄天堀」と呼ばれるようになりました。 水路の延長 :この用水路は市川から浦安にかけて広範囲にわたり、地域農業の基盤を築きました。 彼の事業は、当時の人々の生活を豊かにし、地域の発展に大きく貢献しました。 〇葛飾八幡宮(市川市役所付近)へ行った際に、今は暗渠となっている内匠堀を歩いてみたいのですが、どの道がそれにあたりますか? ■ 市川市役所付近から、かつての「内匠堀(浄天堀)」の跡を歩いてみたいとのこと、素晴らしい歴史探索ですね!内匠堀は現在暗渠化されていますが、そのルートは主に道路や歩道として整備され、たどることができます。 📍 内匠堀(浄天堀)のルート 内匠堀は、鎌ヶ谷市道野辺の囃子水を水源とし、八幡・行徳・南行徳を経て浦安へと流れる全長約12キロメートルもの用水路でした。市川市役所付近からこのルートをたどる場合、おおよそ以下の道筋が考えられます。 八幡・行徳地区 :現在の国道14号(千葉街道)の南側、本八幡駅から南東方向へ延びる道筋が、内匠堀の流路に近いと考えられています。八幡圦樋より上流は「富貴川」と呼ばれ、現在の北方用水・大柏川に相当するとされています。 行徳・南行徳地区 :特に市川市欠真間地区にある南行徳小学校付近は、かつて内匠堀が船...

AIとの探求18~妙見菩薩像の謎を追う③

イメージ
 令和7年12月2日(火) 【妙見菩薩像の謎を追う③~古い街道の謎】 東小松川村鎮守 香取神社 〇=陽子 ■=Yahoo!AI さて、妙見島に興味を持ち、島の名称のルーツとなった千葉氏の妙見信仰を調査していたところ、妙見菩薩像を一時的に預かっていた東小松村の香取神社と、千葉氏が信仰していた下総国総鎮守(葛飾八幡宮)、妙見信仰の縁が深い中山法華経寺、そして、守護神である千葉妙見宮(千葉神社)は、 千葉街道沿いにある ことに気がついた。 *千葉街道についての江戸川区郷土資料館解説文はこちちら https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9204/3-02.pdf その他、わかりやすい解説シートがあったので、こちらも紹介したい。 「市川で江戸川を渡り千葉と東京を結ぶ大動脈、国道 14 号は通称「千葉街道」として知られていますが、この道筋がそう呼ばれるようになったのは、明治 6 年( 1873 年)千葉市が県庁所在地になってからのことです。 明治時代 に整備されたこの道は千葉から東京に出るために最初に造られたもので、江戸時代の 千葉寺参り の道がほぼ踏襲 されましたが、千葉においては東京への距離を短縮するために海岸よりのコースがとられました。」 https://www.pref.chiba.lg.jp/kendosei/meiji150/documents/02kaidou2.pdf なるほど! 千葉寺は確かに 14 号線ではなく、大網街道沿いにある。千葉神社は千葉氏の守護神であり、千葉寺は菩提寺。そして千葉城が居城。千葉街道が整備されたのが明治以降であるなら、それ以前の道筋は 千葉寺参詣ルート であったのだろう。 (珍しく、Yahoo!のAIに質問してみた) ■Yahoo!AI 「元佐倉道とは」  元佐倉道は、江戸時代初期に江戸と房総を結ぶ主要な街道として開かれ、現在の千葉街道(国道 14 号)の原型となった道です。両国橋から竪川の北岸を東に進み、逆井の渡しで中川を渡り、小岩を経て房総へ至るルートでした。  元佐倉道の概要 元佐倉道は、江戸時代に両国から小岩市川の渡しまでを結び、江戸と房総間の重要な交通路でした。特に成田詣でに向かう庶民に利用されました。  歴史的変遷 開...

AIとの探求17~妙見菩薩像の謎を追う②

イメージ
令和7年12月2日(火) 【 妙見菩薩像の謎を追う②~菩薩像の来た道】 〇=陽子 ■=Gemini 〇こんにちは!ちょっと面白い発見がありましたので、ご報告します。 江戸川区郷土資料館と図書館へ行った帰りに、近所の菅原橋交差点を見物しに行きました。都内でも珍しい11差路です。 https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9204/3-16.pdf そのうち、気になったのが、ヒョロヒョロと、千葉方面へ伸びている 旧上八幡道 でした。現在、千葉街道にやや並行するように伸びているので、昔の人は市川方面には、この道をテクテク歩いたのではないかと思われました。江戸時代などは、長閑な田舎道だったことでしょう。 市川市にある 葛飾八幡宮への参詣道 だったらしいので、本当にそうかな?と、ヤフーマップで調べてみましたら、確かに。江戸川に行き当たりますが、渡し船に乗り、市川方面へ進み、千葉街道に沿うような細い道が見えました。今は名もなき道なのでしょうけれど、細々とした参詣道の名残が。 葛飾八幡宮は、下総の総鎮守だそうで、千葉氏も武神であることから信仰していたとか。 https://www.katsushikahachimangu.com/gosaijin https://waknot.com/spot/5552 そして、隣の駅になりますが、地図上では並ぶように、中山法華経寺があります。千葉氏と妙見信仰を調べていて、出てきたお寺の名前です。 https://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/edo7.htm 下総は千葉氏が守護していたのですから、有名な寺社は必ず千葉氏の信仰と絡んでいるのでしょうけれど、我が家の近所にある昔道の名残が、妙見島の島名の由来を調べているうちに、ゆるゆるとつながってきていて、面白かったです。 千葉街道を歩いても葛飾八幡宮や中山法華経寺に行けるのですが、できれば古い道を探しつつ、歩いてみたいです。ネット情報だと、千葉街道がそのまま、八幡宿の街道筋であり、江戸時代の官道とのことなので、中世から続く参詣道を江戸時代に整備したのかもしれませんね。 千葉氏も、妙見島や葛飾八幡宮、中山法華経寺を行ったり来たりして、武神に祈ったんでしょうね。ちなみに、今ハッと気づきましたが。その千葉街道沿いに、昨夜話題にし...

AIとの探求16~妙見菩薩像の謎を追う①

イメージ
令和7年12月1日(月) 【妙見菩薩像の謎を追う①~仮安置場所はどこ?】 *画像出典  https://www.chibajinja.com/about/gosaijin/index.html 御祭神 | 千葉神社について | 厄除開運・八方除の妙見様の御本宮 千葉神社 〇=陽子 ■=Gemini・Copilot 〇江戸川区にある妙覚寺について、主に千葉氏の妙見信仰と妙見菩薩像について、妙見島との関連から調べています。あらためて情報をわかりやすくまとめていただけますか? ■Copilot まとめ :江戸川区の妙覚寺は、千葉氏の妙見信仰と深く結びついた日蓮宗の古刹であり、旧江戸川の 「妙見島」に祀られていた妙見菩薩像を移した歴史 を持ちます。千葉氏が守護神として厚く信仰した妙見菩薩を祀ることで、寺院と妙見島は強い関連を持っています。 🏯 妙覚寺の概要 所在地 :東京都江戸川区一之江6丁目 宗派 :日蓮宗 創建 :弘安7年(1284年)、等覚院阿闍梨日全によって開山 開山の背景 :日全は千葉介頼胤の甥であり、千葉氏一族と密接な関係を持つ僧侶。 🌌 千葉氏と妙見信仰 千葉氏は平安時代以来、**妙見菩薩(北辰菩薩)**を守護神として厚く信仰。 妙見菩薩は北極星・北斗七星を神格化した存在で、 護国・災厄消滅・戦勝祈願 に霊験があるとされた。 合戦で窮地に陥った際、妙見菩薩が化身として現れ救うという伝承が数多く残る。 🏝 妙見島との関連 妙覚寺の妙見堂に祀られる妙見菩薩像は、**旧江戸川の中洲「妙見島」**に安置されていたものを移したと伝えられる。 妙見島は江戸川下流に存在し、かつて「妙見神社」があり、千葉氏の妙見信仰の拠点だった。 妙見堂の勧請は**貞治元年(1362年)**とされ、 千葉氏代々が尊崇した像を移した 歴史がある。 🕉 妙覚寺の妙見菩薩像 妙覚寺境内中央に 妙見堂 があり、千葉氏が信仰した妙見菩薩を祀る。 寺伝によれば御神体は当山に安置されたが、 現在は現存していない とされる。 妙見菩薩像は、千葉氏の戦勝祈願と守護の象徴として、妙見島から移されたものと伝承される。 ✨ まとめのポイント 妙覚寺は江戸川区最古の日蓮宗寺院で、千葉氏の一族によって創建。 千葉氏の守護神である妙見菩...